KKT熊本県民テレビ

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熊本地震の際、官邸からの思わぬ指示をきっかけに、ある組織がつくられました。

報道陣には完全非公開の「ミニ霞が関」とも呼ばれた国と熊本県の幹部による会議。10年が経つ今、初めてテレビカメラに語る証言です。

2度の最大震度7。県庁は混迷を極めた。

田嶋徹さん。

地震の翌月に副知事に就いた、熊本県の災害対応のキーパーソンだ。

10年が経つ今でも忘れない時間がある。

■田嶋徹さん(元・県副知事)「10年前、ここが主戦場だったんで。国がそっち、県がこっちに座って、もう少し、あの当時は近かったような気がする。」

熊本の命と暮らしを守るため、発災直後に国と県が交わした議論。報道陣には完全非公開。その舞台裏とは―。

■兵谷芳康氏(当時・内閣官房内閣審議官)「あの場では(東京に)持ち帰ることができない雰囲気でやっていたので。」

■手島健司氏(元・県土木部長)「これは言っていいのかどうかわからないですけど…」

10年前の熊本地震で混迷を極めた県庁。

「第14回熊本県災害対策本部会議を始めさせて頂きます」

本震の4日後。国と県の関係者が顔を合わせた。

■経済産業省の幹部「国はとにかく縦割りでスピードが遅れるというのがあると思いますので、それがないようにしっかりやっていきたいと思います。」

国から来た、各省庁の幹部クラス。被災地に派遣されるのは、異例の対応だった。

その一人が、内閣官房の内閣審議官だった兵谷芳康さん。

2012年まで熊本県の副知事を務めていた。異例の派遣には、ある事情があったと語る。

■兵谷芳康氏(当時・内閣官房内閣審議官)「車中泊が安心で、親御さんも車中泊が多かったんですけど、その映像が東京で流れて、それを見ていた官邸から『車中泊が多くて何故(避難所に)入らないんだ。あの人たちを中に入れろ』という話があってですね。」

「車中泊をやめさせろ!」

前震の後に、テレビの映像を見た官邸から下された指令。県庁内は戸惑いに包まれた。

■田嶋徹氏(元・県副知事)「避難所が足りないから入らないんじゃなくて、地震に対して屋内で被災した恐怖から中に入れないという状況をお伝えしました。私たちのことをもう少し信じてくれよ、という思いはありました。」

■手島健司氏(元・県土木部長)「これは言っていいのかどうかわからないですけど…。現地と東京の“齟齬”っていうのがあったんじゃないか。」

国と熊本県との微妙な距離感。国側の兵谷さんは、本音で情報交換する場が必要ではないかと考えた。

本震から1週間足らず。熊本のローマ字の頭文字とメンバーの数から「K9」、そこに県の幹部を加えた「拡大K9」という内々の会議を立ち上げた。

国土交通省の当時の幹部が今も保管している資料がある。

■田村秀夫氏(元国交省大臣官房審議官)「見えますかね、ここにK9となっているんですけど、これを元にして毎日やっていたんですね。」

命に関わる問題が並ぶ内部資料。調整ごとが多く、公にはしなかった。

中でも気がかりだった問題が…

■当時KKT小川真人アナウンサー「阿蘇郡南阿蘇村の避難所でノロウイルスの症状が相次ぎ、17人が病院に運ばれたことがわかりました。」

最大18万人であふれかえった避難所。

特に1万6千人以上が身を寄せた益城町の避難所は、衛生環境が悪化していた。

命にも関わる「過密」状態に、解決策はないのか。K9は、ある事態に気づいた。

■兵谷芳康氏(当時・内閣官房内閣審議官)「躯体(建物の構造)が大丈夫な 公営住宅の人が相当避難所に逃げ込んでいる。なぜかというと水が使えない。水道が出ない。」

団地の水道が通れば、まとまった人数が避難所から帰れるはずだった。

■田村秀夫氏(元国交省大臣官房審議官)「私の記憶では、4月中に町営住宅に下水道・上水道はつながっているという話だったんですね。」

ところが、なぜか団地に戻る人は少ないまま。

■田村秀夫氏(元国交省大臣官房審議官)「確かめてみると、実は町営住宅の敷地の境界までは県で改修をしていたんですけど、敷地内は建物の所有者(町)がやらないといけませんので、そこはできていなかったことがわかりました。」

そこでK9は、益城町が手をつけられずにいた敷地内の修繕を国がバックアップすると決定。

団地の水道復旧とともに、避難所の過密は解消したという。

「東京に議論を持ち帰らない」。県も驚くスピード感だった。

しかし、一難去ってまた一難。熊本の暑さが迫っていた。避難所となった小中学校の体育館では、猛暑に備え、大型クーラーが必要だった。

■古閑陽一氏(元県健康福祉部長)「いろいろ全国に問い合わせしても、イベント用に何か所かあるのはわかったんですが、それを全部、熊本に集めてくるのが県の力だけでは難しかったんですけれども。」

そこに、経済産業省の幹部が声をあげた。

■「経産省なら電気工事も含めてあるだけのクーラーを手配できそうだ。」

その場で国の支援が決定。わずか1か月で、体育館の避難所に大型クーラーの設置が完了したという。

■緒方太郎「東京に持ち帰らずに、熊本で意志決定するのはこれまでの災害対応ではあまりなかった?」

■古閑陽一氏(元県健康福祉部長)「私もあまり聞いたことがなかったですね。各省庁の覚悟を肌で感じることができたと思っています。」

これは唯一残っているK9の写真。およそ1か月の間、生の情報をかき集め、東京ではなく被災地で、国の支援を決めた。

■兵谷芳康氏(当時・内閣官房内閣審議官)「熊本は大好きな所ですし、あの災害の時はいてもたってもいられなかったが、ありがたいことに行かせていただいて、少しでもお役にたてればと活動していました。」

各省庁の幹部を派遣し、迅速な支援につなげる仕組みは、その後の能登半島地震でも生かされた。

あのときの密室の会議は、今にしっかりと息づいている。

■田嶋徹氏(元・県副知事)「立場を超えて、腹を割って色々なことを共有して、悩んで対応して決断して、私たちが実施していく。そういうことが一つ一つの場面であったので。熊本地震と戦った、ある意味で“戦友”かなという気がします。」