実の息子の”猛反発”により「スラブ宣教計画」は頓挫…その隙にイタリアでうごめく、「18歳教皇」と「オットー1世の宿敵」の陰謀

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ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。

オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。

『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第46回

『狙いはキリスト教世界の拡大…東方正教会の“進出”を封じ込める、オットー1世の壮大な「スラブ宣教計画」』より続く。

息子ヴィルヘルムが猛反対

ハダマーのローマからの帰還によりマクデブルク計画は広く知れ渡ることになる。それまでオットーはこの計画を生前の弟ハインリヒと末弟ブルーノだけに打ち明けていた。マインツ大司教でありアルプスの北における教皇の代理人でもある息子ヴィルヘルムと、クヴェドリーンブルクをはじめ多くの修道院を建立したことで列聖される母マティルデには一切、相談しなかった。

ヴィルヘルムは父の計画に猛然と反発する。なぜなら父オットーのマクデブルク計画はマインツ大司教区とハルバーシュタット司教区の減縮となるからである。司教領や修道院は王国の中枢を担っている。これら教会勢力のトップでもあるマインツ大司教ヴィルヘルムは自らの権力基盤を脅かしかねない、教区減縮という父の計画をおいそれと飲めるものではなかったのだ。ヴィルヘルムは動いた。

彼は教皇アガペトゥス2世に宛てた手紙で父の教会政策を激越に弾劾する。まず彼はここ約20年にわたっておきた東フランクの内戦を要約する。曰く、我々の体験した内戦は涙なしに語ることはできない。息子が父を付け狙い、父が息子を追い詰め、弟が兄に反旗を翻す。王はまともに統治できず、神の掌中の珠である司教たちは権利を奪われ、難儀を忍ばなければならなかった。なかには追放され、目をつぶされたものもいた。損失に悩まない教会は一つもなかった、と。

ヴィルヘルムはザルツブルク大司教ヘルホルトを摘眼刑に処した、今は亡き叔父ハインリヒを痛烈に批判した。さらにはケルン大司教でありながらロートリンゲン大公となったもう一人の叔父ブルーノも槍玉に挙げた。国家と教会の混同も甚だしい、と。むろんこれは父オットーの教会政策に対する弾劾である。

そしてヴィルヘルムは「マインツ大司教区の縮減とハルバーシュタット司教区の移管には金輪際同意しかねる。たとえ羊の皮を被った狼(=フルダ修道院長ハダマーのこと)が預言者を装い、金と宝石をもってローマに赴き、現金で買ったできるだけ多くのパリウムを持ち帰るとほざいたとしても、です」と訴える。

オットーは息子の思わぬ反乱に手を焼いた。息子だけではない。ハルバーシュタット司教ベルンハルトはたとえ投獄されても反抗し続けた。彼は死ぬまでマクデブルク計画反対を貫く。

オットーはこの凄まじい反発に慌てふためき、計画を一時、棚上げにすることに決めた。というより他に喫緊の問題が持ち上がってきたのである。震源地はもちろんイタリアである。

宿敵ベレンガーリオの陰謀

ヴィルヘルムの激越な抗議の手紙がローマに到着したとき、宛名人である教皇アガペトゥス2世は亡くなっていた。新教皇はかのアルべリーコ2世の私生児ヨハネス12世である。アルべリーコは死ぬ間際、ローマの貴族たちに庶子オクタヴィアヌスを教皇に選出するよう誓わせていたのである。

しかしこれほど無理筋の教皇選出はなかった。まずは明確な教会法違反である。年齢制限に引っ掛かったのだ。ローマ・カトリックでは叙階は30歳を過ぎていなければならない。ところがこのときオクタヴィアヌスはなんと18歳になったばかりであった。

しかし何でもありの娼婦政治の名残の中で、この年端もいかぬ若造はオクタヴィアヌスという異教時代の皇帝の名を憚り、ヨハネスと名を改め教皇猊下となったのである。彼はヴィルヘルムの手紙を読み彼の肩を持つ。しかし確たる信念があったわけではない。若者は自分の地位を脅かすものが現れれば、すぐさまそのものにすり寄り忖度の限りを尽くす。そして放蕩生活に淫する。虎は死して皮を留め、人は死して名を残すというが、アルべリーコは死してとんでもない破戒僧を残したものである。

こんな教皇を手玉に取ることはベレンガーリオにとっては造作もないことであった。

そう! ここでまたもやあのベレンガーリオが登場してくるのである。

もとよりベレンガーリオはオットーがイタリアにいない間、おとなしくしているようなタマではなかった。彼は鬼の居ぬ間に、とまたぞろ蠢きだしたのである。

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