(※写真はイメージです/PIXTA)

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老後の安心を得るために、年金の受給開始時期を遅らせて受取額を増やす「繰下げ受給」。受取額が大幅に増額されるこの制度は、長生きリスクへの備えとして非常に魅力的に映ります。しかし、目先の増額率だけに囚われると、かえって大きな損失を被る可能性も。ある男性のケースをみていきます。

「俺は無敵だ」と笑っていた夫の誤算

「いててて……。まさか、俺がこんな姿になるなんてなあ」

都内の整形外科病院。4人部屋のベッドで、右脚を高く吊り上げられた佐藤健二さん(72歳・仮名)は、情けない声で唸っていました。元大手メーカーの管理職だった佐藤さん。現役時代から「病気知らず」が自慢で、定年後は再雇用によって時間に余裕ができたことで、毎週のようにテニスゴルフと、アクティブに楽しんでいました。

そんな彼がこだわったのが「年金の繰下げ受給」です。 「俺は100歳まで生きる自信がある。65歳でちょこちょこ貰うより、70歳まで我慢してドカンと増やしたほうが得策だ」

妻の由紀子さん(67歳・仮名)は「早くもらって旅行にでも行きましょうよ」と言ったこともあったそうです。しかし「目先の金に目がくらむな」と一蹴。5年間の待機を経て、70歳から受け取り始めた年金は、42%増額されて月額約25万円(老齢基礎年金含む)となりました。

「見たか由紀子! これで俺たちの老後は安泰だ!」

通帳の記帳額を見て、ご満悦の健二さん。増えた年金テニスクラブの会員権をランクアップさせ、意気揚々とプレーしていた矢先のことでした。張り切りすぎて着地で失敗。右脚を複雑骨折し、全治3ヵ月の入院生活を余儀なくされたのです。自由を奪われたベッドの上。健二さんは天井を見上げながら、初めて「老い」の恐怖を感じたといいます。

「金はあるんだ。通帳には月25万円の年金がある。でも、トイレに行くのもひと苦労。ゴルフどころか、近所の散歩だっていつ再開できるか分からない。『お金は使う体力があってこそ』なんて、当たり前のことに今さら気づくなんて……」

「くそー」と悔し涙を貯めている健二さんに、着替えを持ってきた由紀子さん。

「『損をしたなあ』と言っている夫に、追い打ちをかけてやったんです。『加給年金ももらい損ねちゃったわね』と。案の定、知らなかったみたいで、年間40万円、5年で200万円ほどもらえなかったと伝えたら、『なんでそんな大切なこと言わないんだ!』と怒っていました。何でも自分勝手に決めてしまうのに、こういうときばかり人のせいにするんですよね」

「自業自得ですよ」と言い放つ由紀子さんに、ぐうの音も出ない健二さん。増額された年金で“元を取る”には、これからさらに何年も健康でいなければなりませんが、今の彼にはその自信が揺らいでいます。

実は繰下げ受給は「少数派」。冷静な判断を

厚生労働省『令和6年度 厚生年金保険国民年金事業の概況』によると、厚生年金(第1号)受給者の平均年金月額は、基礎年金を含めて15万1,142円。また65歳以上・男性の厚生年金受給権者に限ると、月額17万3,033円となっています。

年齢別の平均受取額をみていくと、65歳以上は月14万円台後半〜16万円といったところ。年齢が上がるにつれて平均額は増えていく傾向にあります(関連記事:『【早見表】年齢別「年金平均受取額」』)。

65歳から年金を受け取らず、70歳で受け取ったら、つまり、年金の繰下げ受給を選択したら、65歳で受け取るよりも42%ほど受取額が増えます。しかし同調査によると、実際に繰下げ受給を選択している人は、厚生年金受給権者のわずか1.9%。およそ50人に1人という水準です。

かなり少数派の選択肢ではありますが、その割合は少しずつ増えています。ただ爆発的に増えないのは、佐藤さんが痛感したように、健康寿命との兼ね合いがあるからでしょう。仮に70歳まで繰下げたとしても、病院知らずでいられる期間は平均であと数年ほどかもしれません。それであれば、65歳から受け取って有効に使ったほうがいいという判断も多いのです。

また、老齢厚生年金を繰下げ受給すると、その間(65歳から受給開始までの間)、加給年金は全額支給停止となります。 たとえば、夫が65歳、妻が60歳の場合、夫が年金を65歳から受け取れば、妻が65歳になるまでの5年間、夫の年金に毎年約40万円が加算されます。5年間で総額約200万円です。

しかし、夫が「年金を増やそう」と70歳まで繰下げを選択すると、その待機している5年間、加給年金は支給されません。さらに繰下げ受給を開始しても、加給年金分は増額されないうえに、あとから遡って受け取ることもできません。つまり、繰下げ待機期間中の加給年金は、ただ単に「もらい損ねて消滅する」ことになります。

佐藤さんのように5歳差の夫婦の場合、5年間の繰下げを選択すると、本来もらえるはずだった約200万円の権利を、丸ごと放棄することと同義になってしまうのです。

繰下げによって年金の月々の受取額が増える代わりに、思わず「損した!」と思ってしまうことがいろいろ。それらを納得したうえで、繰下げを選択するかを決めることが大切です。

[参考資料]

厚生労働省『令和6年度 厚生年金保険国民年金事業の概況』