中国の歴代皇帝を支えた「後宮」には、妃をはじめ数多くの女性たちがいた。彼女たちはどのように集められ、宮仕えをしていたのか。中国文学者で明治大学教授の加藤徹さんが書いた『後宮 宋から清末まで』(角川新書)から、明時代末期に行われていた后妃選びの面接試験「選秀女」のエピソードを紹介する――。

■家がらより容姿を重んじた明の皇帝

過去の日本の天皇や、征服王朝の皇帝は、君主の血統カリスマを維持するため、后妃を選ぶ際は血筋や家柄を重んじた。

写真=Wikimedia Commons
明の初代皇帝、洪武帝(国立故宮博物院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons) - 写真=Wikimedia Commons

明(みん)(1368年─1644年)の君主は違った。太祖(初代皇帝)洪武帝は農民だったため、血統カリスマはない。また、なまじ貴顕(きけん)の家の女子を后妃にすると、外戚(后妃の父方の実家)の専横の種になりかねない。そこで明王朝の歴代の皇帝は、血筋や家柄があまり高くない普通の女子を后妃とする傾向があった。

建前上は、面接試験を行い、女子の品徳を重視した。本音では、美しくてセクシーな女子を選んだ。

美女は賢女とは限らない。そのような母親と、そのような女性を好む父親から生まれた皇帝が、必ずしも優秀とは限らない。

皇帝が、民間の良家の子女に募集をかけて後宮の女性を選ぶことを「選秀女」(秀女選び)と言う。「秀女」つまり後宮に仕える優秀な女性を選ぶ、という意味である。「秀女」という語が定着するのは清の時代からだが、後世の歴史家は明代にさかのぼり、「選秀女」という言葉を使う。

■明の後宮を支えた女性たち

歴代王朝と同様、明でも、後宮の女性の全員が后妃だったわけではない。

明の後宮の女性は、時代によって呼称について多少の変化はあるが、おおむね、后妃・女官・宮人の三種類である。

后妃は「淑女」とも呼ばれ、皇帝の妻妾として、世継ぎを産むことにつとめた。皇帝の子作りのモチベーションを高めるため、採用にあたっては容姿や年齢が重視された。外戚の専横を防ぐため、普通の家の女子が選ばれた。

女官は「宮女」とも呼ばれ、管理職だ。文筆や事務処理などの能力が求められた。皇帝の妻妾ではないので、採用にあたっては容姿も年齢も重視されず、ベテランが中途採用されることもあった。

宮人は雑役婦で、後宮女性の圧倒的多数はこれである。身分は低いが、宮人の中には皇子の乳母となって、皇子が皇帝となったあとも宦官とつるんで政治的影響力をふるうものもいた。

■宮女が9000人に上った時期も

皇帝と同衾するのは、制度上は后妃だけだが、皇帝の権力は絶対である。ごくまれではあるが、女官や宮人が皇帝の「お手つき」になるケースも、ないわけではなかった。

写真=Wikimedia Commons
清の第四代皇帝、康熙帝(国立故宮博物院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons) - 写真=Wikimedia Commons

なお、後世は、后妃・女官・宮人など後宮女性全体を漠然と指して「宮女」と呼ぶことが多い。康熙帝(こうきてい)(※)が明末の「宮女」は9000人にのぼった、と言ったのも、女官だけでなく、宮人や后妃も含めた数であろう。

※清の第4代皇帝

明代の後宮の制度と実態については、前田尚美氏の論文「明代後宮と后妃・女官制度」(『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編』第08号、2009年)に詳しいので、そちらにゆずる。

明の選秀女のやりかたは、時代によって変化はあるが、おおむね次のとおりであった。ここでは、明末の例をとりあげよう。

■后妃を目指し北京に集った5000人の少女たち

明の末の天啓元年(1621年)。前年に即位したばかりの天啓帝(1605年─1627年)は、后妃の選抜試験を行った。その選抜のプロセスを、清の文人官僚だった紀(きいん)は『明懿安皇后外伝(みん いあんこうごう がいでん)』で次のように書いている。

写真=Wikimedia Commons
天啓帝は全土から5000人の少女を集め妃選びをした(国立故宮博物院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons) - 写真=Wikimedia Commons

まずは公募。天下の13歳から16歳までを対象とし、新帝の后妃の候補を募集した。応募者には、役人がお金を支給した。「うちの娘なら、もしかすると」と自信のある親は、娘を連れて北京にのぼった。正月、北京に集合した后妃候補の少女の数は、5000人。

第一次選抜。皇帝は、内監(宮廷内の上級の宦官)を選抜会場に派遣した。少女たちは100人ごとに年齢順に並べられ、宦官たちが見て回った。この子は背が高め、この子は背が低め、この子は太め、この子は細め、など外見を一人一人、目視してチェック。この時点で規格外の少女1000人が帰郷させられた。

■声や歩き方での審査

翌日、第二次選抜。少女たちは前日と同様の要領で並んだ。宦官たちは少女の列のあいだを歩きまわり、念入りにチェック。少女の耳・口・鼻・髪・肌・腰・肩・背中などを見て、基準にあわぬ子ははずした。次は声のチェック。少女たちは自分の本籍、姓、生年、年齢を言わされた。声がちょっとでも男の子っぽい、くぐもっている、濁っている、よどみがあるとハネられた。この時点で、さらに2000人が退場。残ったのは2000人。

翌日、第三次選抜。宦官たちはそれぞれ手に物差しをもち、少女の手足の長さを計測。その上で少女らを数十歩ほど歩かせ、姿勢の美しさをチェックした。ちょっとでも腕が短かったり、足の形が悪かったり、立ち居振る舞いに品がないと、ハネられた。この時点で1000人が退場し、残りは1000人。実は、ここまでは前検査にすぎない。

■衣服を脱がされて…

加藤徹『後宮 宋から清末まで』(角川新書)

1000人の少女たちは、後宮の中に召されて身体検査を受けた。少女らはそれぞれ密室に呼び入れられ、裸にされ、ベテランの年増の宮女の念入りなチェックを受ける。乳をもみしだかれ、腋(わき)のにおいをかがれ、肌のきめこまかさを調べられた。

こうして、当初の5000人の少女のうち、300人だけが合格した。合格者は全員、上級ランクの宮女となった。

それから一カ月間。少女らはそれぞれ、性格や言動をじっくり観察された。気性は強いか、やさしいか。頭はよいか、悪いか。人間性を総合的に評価されたうえで、最終的に50名だけが選ばれた。彼女らは妃嬪、すなわち皇帝の側室となった。

そのうち皇后になれる少女は、ただ一人。競争率5000倍の選抜を勝ち抜き、皇后の座を見事に射止めたのは、懿安(いあん)皇后張氏だった。

----------
加藤 徹(かとう・とおる)
明治大学法学部教授
日本京劇振興協会非常勤理事、日本中国語検定協会理事。1963(昭和38)年、東京都に生まれる。専攻は中国文化。東京大学文学部中国語中国文学科卒業。同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。90~91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学。広島大学総合科学部助教授等を経て、現職。『京劇「政治の国」の俳優群像』(中公叢書)で第24回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞。
----------

(明治大学法学部教授 加藤 徹)