2014年に愛知県で行われた大会で、ノービスBの2位となった河辺愛菜(左)【写真:山田智子】

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「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#64 県連盟の久野千嘉子さんが語る現在地

「THE ANSWER」は北京五輪期間中、選手や関係者の知られざるストーリー、競技の専門家解説や意外と知らない知識を紹介し、五輪を新たな“見方”で楽しむ「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」を連日掲載。注目競技の一つ、フィギュアスケートは「フィギュアを好きな人はもっと好きに、フィギュアを知らない人は初めて好きになる17日間」をコンセプトに総力特集し、競技の“今”を伝え、競技の“これから”につなげる。

 フィギュアスケート日本人初の五輪メダリストである伊藤みどり、鍵山正和、安藤美姫、小塚崇彦、浅田真央、鈴木明子……。愛知は1988年のカルガリー五輪以降、長野を除く8大会に代表選手を送り出してきた。今回の北京五輪にも名古屋市出身の宇野昌磨と河辺愛菜、東海市出身の木原龍一が選出されている。

 盤石に見える「フィギュア王国・愛知」だが、今、日本フィギュア界では“地殻変動”が起きている。王国の現在地を探るため、愛知県スケート連盟フィギュア部長を務める久野千嘉子さんのもとを再訪した。(取材・文=山田 智子)

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 日本フィギュア界の勢力図の変化は、全日本ジュニア選手権の結果を見ると分かりやすい。過去2シーズンの出場選手の所属先名は、男女ともに「アカデミー」の文字が目立つ。

 その1つ、今年のジュニア女子(参加資格は13〜19歳)トップ10のうち6人を占める「木下アカデミー」は、2020年4月に京都で発足した世界で活躍できる選手を育てるための育成機関だ。もう1つの「MFアカデミー」は、その翌年に誕生した三井不動産アイスパーク船橋を拠点とする総合フィギュアスケートアカデミーで、いずれも通年リンクを有し、次世代のスケーターが研鑽を積んでいる。北京五輪代表を勝ち取った河辺愛菜も木下アカデミーに所属している。

 フィギュアスケートに限らず、高みを目指すアスリートがより良い環境、指導者を求めることは珍しい話ではない。特にフィギュアスケートは他競技に比べて、練習環境や費用面での苦労が多い。その負担を軽減できるアカデミーは選手にとって魅力的に映るのだろう。

 ここ数年は愛知からの、特にジュニア世代の県外流出が相次いでいる。数年前に関西に拠点を移した河辺愛菜だけでなく、強化選手の吉田陽菜、中村俊介も木下アカデミーに籍を移した。今季の全日本フィギュアノービスB(9〜10歳)を制したMFアカデミーの大竹沙歩は、アカデミー開講に合わせて愛知県から家族で船橋へと引っ越している。

「やはり貸切練習の時間が全然違いますね。詳しくは分かりませんが、アカデミーではほぼ毎日貸切練習ができていると思います。愛知ではグランプリ東海クラブでも月曜日と木曜日しか借りられないので、その違いは大きいですね」

 こう語った久野さんだが、アカデミーの魅力は単純なリンクの話だけにとどまらないと続ける。

愛知復権へ、優れた指導者が多くいる点が武器に

 4年前に取材した際、久野さんは「トップ選手を間近に見て学べる環境と、優れたコーチがたくさんいること」が愛知の強さを支える要因だと指摘していたが、「これまで愛知が持っていた良さ。アカデミーはおそらく、それ以上のものを持っています」と語る。

 選手が最も伸びるのは、良いお手本がいて、ライバルもいるという環境だ。

「伊藤みどりさんを見ながら育った選手がいて、その選手たちをまた次の選手たちが見て。そうやって上手く選手がつながってきたのが愛知県の強みでした。小さい頃から世界で活躍する選手が隣にいて、一日どんな練習をしているのかを常に見ることができる。言葉で教えるよりも、ずっと上達が早いんです。アカデミーは今、選手がどんどんつながっていっている。これからもっと強くなっていくと思います」

 逆に愛知は、トップ選手の多くが大学のリンクで練習しているため、小さい子たちがトップ選手の練習を見る機会が減ってきている。

「トップ選手の環境はどんどん良くなっていますが、そこに行くまでの過程が次の選手を育てる。以前はふと横を見ればトップ選手がいたんですけど、今はそういう機会は強化合宿などに限られている。そこは悩ましいところですね。

 現状でアカデミーに対抗するには、愛知にもアカデミーを作らない限りは難しい。ただ、それはすぐにできることではないし、連盟だけでもできない。かといって食らいついていかないと、選手が流れていってしまう状況が続いてしまうので、今シーズンから強化策を見直すことにしました」

 愛知の良さを生かし、東西のアカデミーから刺激を受けながら、久野さんは再び愛知の時代を築くために試行錯誤を続ける。

「環境」では一歩譲ったとしても、優れた指導者という点では負けていない自負がある。伊藤みどり、浅田真央、宇野昌磨らを育てた山田満知子コーチと樋口美穂子コーチ、安藤美姫を指導した門奈裕子コーチは今も健在。加えて、2008年にはソルトレークシティ五輪代表の恩田美栄がクラブを立ち上げた。今季引退した松田悠良が邦和SCでアシスタントコーチを始め、新たな風を吹き込んでいる。「若い先生たちがある程度自分の指導方法を確立してくれば、選手はまた育ってくると思います」と久野さんも期待を寄せる。

 習い事としてフィギュアスケートが定着している愛知では、競技人口がずっと変わっていないのはプラス要素だ。「有望な選手はどんどん出てきているので途切れることはないが、ノービスBの選手強化に重点を置き、育てていく必要がある」と力を込める。

「愛知=ジャンプ」からプラスアルファの武器を

 女子選手で初めてトリプルアクセルを成功させた伊藤みどり、4回転ジャンプを跳んだ安藤美姫、1つの競技会中に3度のトリプルアクセルを成功させたバンクーバー五輪銀メダリストの浅田真央。愛知にはジャンプの指導に優れたコーチが多く、高難度なジャンプを武器にするスケーターを輩出してきた伝統がある。

 しかし、女子も4回転時代に突入し、愛知が得意としてきたジャンプで太刀打ちするという時代ではなくなった。だからこそ「スケートの基礎の部分をもう一度見直したり、表現力を磨いたりする必要がある。強化練習の現場でも、そこは強調して注意をしている」と久野さんは語る。

 ジャンプに関しても、これまでの技術指導だけでは不十分だという。

「難度が高くなればなるほど、やはり怪我のリスクが大きくなります。今の時代はジャンプの技術指導だけでなく、高難度のジャンプを跳ぶための体づくりが不可欠になっています。アカデミーにはバレエやトレーニングの施設もあると聞いています。体づくりからトータルでサポートしてもらえる環境があるのは、強みですよね」

 愛知でもトレーニングコーチを招き、陸上トレーニング、アップ、クールダウンの方法を学ぶなどの機会を作っているが、日々の練習現場ではそうしたトレーニングは選手本人に任されているところが大きい。

「最初は興味を持ってくれて、その時は真剣に取り組みますが、リンクを使える時間が限られているのもあって、しばらくするとやらなくなってしまう。連盟だけが頑張ってもできないことなので、必要性を周りに理解してもらえるよう情報共有を図っていきたい」

 ジュニアからシニアに向かう時期の怪我は致命傷になる。特に女子選手は、怪我をして一定期間練習を休んでしまうと、ジャンプの感覚を戻すのに時間がかかってしまう傾向があると、久野さんは警鐘を鳴らす。

「トップ選手は氷上練習の1時間くらい前から来て、アップをしっかりする。また、クールダウンもしっかりやる、そういう姿を間近で見ているはずなので、アップやクールダウンをする必要性を理解して見習ってほしいです」

愛知の歴史を引き継いでほしい

 雌伏の時を迎えている愛知だが、長年にわたって先人たちが積み上げてきた“遺産”が失われるわけではない。その大きさを、久野さんは愛知を離れた選手から気付かされたという。

「1月の名古屋フィギュアスケートフェスティバルの時に戻ってきた(吉田)陽菜ちゃんが、『離れて初めて、愛知の県大会の素晴らしさが分かった。表彰式も氷上だし、キス&クライもちゃんと作られている。初級の頃からキス&クライに座るのが楽しみだった』と話しているのを聞きました」

 他の地方大会は、日本ガイシアリーナのような大きな会場で開催されることがあまりない。朝に公式練習を行って、夕方から試合という流れ、試合後のミックスゾーン対応、「大きな大会でも自然にできるように、小さい頃から学んでほしい」とこだわってきた。その思いが選手にしっかりと伝わっていたことを実感でき、「素直に嬉しかった」と誇らしげに笑う。

 浅田真央に憧れて競技を始めた河辺愛菜も、小さい頃から氷上の表彰台に上がっていた1人だ。小・中学生時代に所属していた邦和SCでは、鈴木明子、本郷理華が五輪や世界大会に臨む姿を見てきた。「愛知を離れても、そのつながりや歴史、伝統を引き継いでいってくれると期待しています」と語った久野さんは、北京五輪に出場する選手の中でも、やはり子供の頃から見守ってきた選手への愛情が自然とあふれた。

「(河辺)愛菜ちゃんは小さい頃からジャンプ力、プラス優雅さ、表現力を持っていた選手でした。愛知にはいないタイプの選手だったので、移籍した時は残念でしたが、木下アカデミーでジャンプと表現力をどんどん磨いて五輪を掴み取ったので、彼女にとっては良かったですね。怖いものはないので、自分の演技を全部出せれば、前回の坂本(花織)さんみたいにいけるのかな」と柔和な表情でエールを送る。

 そして北京五輪で団体、シングルと2つのメダルを獲得し、日本フィギュア界最多となる通算3度の五輪表彰台に立った宇野昌磨についても、期待を口にしていた。

「愛知はフィギュア王国と言われていますが、まだ五輪の金メダルは取っていません。私的には、愛知に金メダルをもたらしてくれるのは昌磨くんしかいないと思っています。本人も当然メダルを狙っていると思うし、今季はいろいろな意味で自分が満足できる演技をすることに入り込んでいる印象がありますね」

 愛知で生まれ育ち、リンクで泣きじゃくりながら周りが止めるまで滑ることをやめなかった“練習の鬼”――。その努力がいつか結実することを、久野さんはこれからも祈り続ける。

(山田 智子 / Tomoko Yamada)

山田 智子
愛知県名古屋市生まれ。公益財団法人日本サッカー協会に勤務し、2011 FIFA女子ワールドカップにも帯同。その後、フリーランスのスポーツライターに転身し、東海地方を中心に、サッカー、バスケットボール、フィギュアスケートなどを題材にしたインタビュー記事の執筆を行う。