アップル、フェイスブック、テスラ……シリコンバレー発の企業の成功は、たいてい「若き起業家のヒーロー物語」として語られる。だがジャーナリストの牧野洋氏は、「そのウラには『見えざるヒーロー』の活躍がある。たとえばアップルの成功には、ジョブズ以上に、初代会長マイク・マークラの存在が欠かせなかった」という――。

※本稿は、レスリー・バーリン著・牧野洋訳『トラブルメーカーズ 「異端児」たちはいかにしてシリコンバレーを創ったのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の「訳者あとがき」の一部を再編集したものです。

写真=BNPS/アフロ
ここから始まり世界屈指の巨大企業に――。若き日のジョブズの寝室に積み上げられた、アップルコンピュータ初の製品「アップル I」の最初の生産分を詰めた箱。撮影もジョブズ自身。(1976年) - 写真=BNPS/アフロ

■成長への道筋をつけたのは誰か

アップルのスティーブ・ジョブズについては誰もが知っていても、マイク・マークラと聞いてピンとくる人はどれだけいるだろうか?

マークラはアップルの初代会長だ。アップルに創業資金を提供し、当初はジョブズと並ぶ大株主だった。新規株式公開(IPO)に向けてビジネスプランを書いたほか、社長をはじめ経営幹部をスカウトするなど、初期のアップルで決定的な役割を果たしている。

世間的にはジョブズがアップルの顔だ。作家ウォルター・アイザクソンが書いた世界的ベストセラー『スティーブ・ジョブズ』(講談社)が決定打になり、シリコンバレーを代表するヒーローになっている。

一方、歴史学者レスリー・バーリンによる『トラブルメーカーズ 「異端児」たちはいかにしてシリコンバレーを創ったのか?』は、まったく異なる景色を描いている。ガレージで生まれたスタートアップが大企業へ成長する道筋を付けたのはマークラなのである。20歳を超えたばかりのジョブズにとっては父親のような存在であり、唯一無二のメンターだった。

にもかかわらず、マークラの物語が詳細に体系立てて語られることはこれまでなかった。

■情熱あふれる無名のアメリカ人たち

『トラブルメーカーズ』を一言で表現するとすれば、「プロジェクトXのシリコンバレー版」である。ご存じの通り、「プロジェクトX」はNHKのドキュメンタリー番組。熱い情熱を抱いて夢を実現した無名の日本人を描いて、大ヒットした。

『トラブルメーカーズ』の主人公も情熱あふれる無名のアメリカ人であり――全員で7人――シリコンバレーの事実上の生みの親だ。「シリコンバレーの見えざるヒーロー」と言い換えてもいい。マークラも「見えざるヒーロー」の一人である。

■「ヒーロー物語」だけでは本質は見えてこない

これまで語られてきたシリコンバレー物語は表層的であり、本質を突いているとは言い難い。基本的にヒーロー物語に終始していたからだ。

古い世代の代表的ヒーローがジョブズならば、新しい世代のヒーローは誰だろうか? テスラのイーロン・マスクを挙げる人もいれば、グーグルのラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンを挙げる人もいるだろう。ジーンズをはいた若手起業家がエンジニア的才覚を発揮し、既存秩序を破壊して一大イノベーションを起こす――これがヒーローの典型的イメージだ。痛快なサクセスストーリーであり、確かに分かりやすい。

だが、ヒーロー物語はシリコンバレーの一面でしかない。シリコンバレーが世界のITハブになれたのは、「見えざるヒーロー」の活躍によって起業エコシステムが出来上がっていたからだ。

“Troublemakers(問題児たち)”という書題は、そんな「見えざるヒーロー」をイメージしたものだ。ジョブズの復帰を受けてアップルが1997年に展開した伝説的テレビコマーシャル「シンク・ディファレント(Think Different)」で、使われた言葉でもある。

■世界は今もシリコンバレーに追いつけない

現在、日本を含めて世界各国が「シリコンバレーに追い付け・追い越せ」を合言葉にして、産学連携をテコにイノベーションを起こそうとしている。アントレプレナーシップ(起業家精神)こそ競争力の決め手になると考えているのだ。

レースに例えれば、シリコンバレーの背中は見えてきているのだろうか? 答えはノーだ。「アジアのシリコンバレー」と呼ばれる中国・深圳(シンセン)を除けば、ほとんど周回遅れというのが現状である。

株式時価総額で世界のトップ企業の顔ぶれを見れば一目瞭然だ。2021年3月中旬時点では上位10社のうち実に4社がシリコンバレーのIT企業だ。1位のアップル、5位のアルファベット(グーグルの親会社)、6位のフェイスブック、8位のテスラ――。アップルの時価総額は唯一2兆ドル(200兆円以上)を突破している。

上位10社には、同じアメリカ西海岸企業であるシアトル勢が2社(3位のマイクロソフトと4位のアマゾン)、「アジアのシリコンバレー」である深圳を擁する中国勢も2社(7位のテンセントと9位のアリババ)が入っている。日本企業は上位10社に入り込めず、45位のトヨタ自動車が最高だ(トヨタの時価総額はアップルの10分の1)。

■「起業家は偶然の産物ではなくなった」

シリコンバレーが誕生してからおよそ半世紀たっている。なぜシリコンバレーに追い付き、追い越す勢力がなかなか出てこないのか。ひょっとしたらヒーロー物語をまねしようとして失敗しているのではないのか。

写真=iStock.com/diegograndi
スタンフォード大学のキャンパス。(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/diegograndi

この点でヒントになるのが著名経営学者ジム・コリンズの言葉だ。『ビジョナリー・カンパニー』シリーズで知られる彼は、かつてスタンフォード大学で起業論を教えていたこともある。何年も前に私とのインタビューで次のように語っている。「シリコンバレーが大成功したのは起業家モデルを構築したこと。これによって偉大な起業家は偶然の産物ではなくなった」

起業家モデルとは、スタンフォード大を中心に形成された起業エコシステムのことだ。これによってシリコンバレーは天才起業家の誕生を待たなくても、イノベーションを起こせるようになった。運に左右される「ヒーローモデル」から脱却したと言ってもいい。

■産学連携の原点となった「遺伝子組み換え技術」の商業化

その起業エコシステムを支えている人々こそ、「見えざるヒーロー」である。ベンチャーキャピタリスト、エンジェル投資家、ベテランビジネスマン、科学者、弁護士、PR専門家――。イノベーションの担い手は、ヒーロー物語に出てくるはだしの若手起業家とは限らない。

『トラブルメーカーズ』の中に登場する「見えざるヒーロー」はマークラも含めて7人だ。インターネットやパソコンの礎を築いたボブ・テイラーもいれば、世界初のバイオテクノロジー企業を立ち上げたボブ・スワンソンもいる。ソフトウエア業界の先駆者が女性起業家――サンドラ・カーツィッグ――だという事実にも驚かされる。

著者のレスリー・バーリンは7人についてそれぞれの人生も含めてカラフルに描いている。この点では彼女の取材力・文章力が光っている。2005年にはインテル共同創業者ロバート・ノイスの伝記を書き、高い評価を得ている。

バーリンはスタンフォード大で博士号を取得した歴史学者だ。本書執筆に際しても専門家らしい手法で体系的に情報収集している。(1)さまざまな関係者から未公開の私的資料やメモを入手、(2)文書保管所で大量の資料やインタビュー記録を精査、(3)6年かけて70人以上の当事者に個別インタビュー――である。

起業エコシステムという点ではスワンソンの物語はとりわけ興味深い。ここに産学連携の原点があるからだ。大学で生まれた研究シーズがスタートアップへライセンス供与され、社会へ広く還元される仕組みが出来上がったのである。スワンソンが目を付けた研究シーズは遺伝子組み換え技術だった。

産学連携のスケールは驚くばかりだ。例えば、スタンフォード大が保有するグーグル株の時価は3億3600万ドル(円換算で360億円以上)に上る。同大が検索アルゴリズムをグーグルへライセンス供与した見返りに、ロイヤルティー(特許使用料)としてグーグル株を受け取っていたからだ。補足しておくと、日本の大学にはロイヤルティーとして株式を受け取るという発想さえもない。

■日本の変化の兆し、東大発「本郷バレー」

日本もかつてイノベーションの拠点として注目されていた。ソニーが生み出した「トランジスタラジオ」「CD(コンパクトディスク)」「ウォークマン」は日本発の代表的イノベーションだった(大学が蚊帳の外に置かれていたという点でシリコンバレーモデルと異なった)。それなのに、今では「失われた30年」とも揶揄(やゆ)されるほど日本は長期低迷状態に置かれている。再び輝きを取り戻せるのだろうか。

レスリー・バーリン著・牧野洋訳『トラブルメーカーズ 「異端児」たちはいかにしてシリコンバレーを創ったのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

変化の機運は出ている。好例は東京大学だ。長らく高級官僚と大企業幹部の養成機関として機能してきたのに、今では「本郷バレー」と呼ばれるほど大学発スタートアップの拠点としても注目されている。

大学が起業エコシステムの中心に位置しているという点で、シリコンバレーと「本郷バレー」は似ている。「最優秀のスタンフォード大生は起業する」といわれている。人工知能(AI)研究で先行する松尾研究室の動きなどを見ると、「最優秀の東大生は起業する」という時代もあり得るのではないかと思えてくる。

変化は東京に限らない。福岡市は2012年、改革派市長として鳴らす高島宗一郎のイニシアチブで「スタートアップ都市」を宣言している。起業エコシステムの構築を目指して「スタートアップカフェ」を始めたり、能力ある外国人の流入促進に向けて「スタートアップビザ」制度を設けたりしている。

■日本最大の問題はリスクマネーの欠如

もちろん問題は山積している。起業エコシステムの一翼を担うベンチャーキャピタルを見てみよう。経産省のデータによれば、ベンチャーキャピタルによる投資額(2018年)は日本では2700億円強にとどまる。アメリカ(14兆円以上)の2%以下である。

なぜこれほどの差が付くのか。最大の原因はリスクマネーの欠如だ。それを象徴しているのがリスクマネーの代表格であるヘッジファンド。アメリカでは運用残高が2兆7000億ドル(300兆円弱)に上るほど巨大であるのに、日本では長らく「ハゲタカファンド」と毛嫌いされて存在しないも同然の状態だ。

ヘッジファンドの代わりに日本には何があるのか。実質的な国営金融機関である、ゆうちょ銀行(2020年3月末で約183兆円)とかんぽ生命保険(同約72兆円)だ。両社を合わせるだけでアメリカのヘッジファンドに匹敵する資金規模になる。

■数々の成功企業を育てたセコイア・キャピタル

1970年代にアメリカでは年金運用に関する規制が緩和され、ベンチャーキャピタル業界にどっとリスクマネーが流れるようになった。

そんな状況下で、『トラブルメーカーズ』にも何度も登場する伝説的ベンチャーキャピタル「セコイア・キャピタル」が生まれた。セコイアのモットーは「株式非公開企業に投資してすごいアップサイドを狙う(あるいは悲惨なダウンサイドを覚悟する)」。これこそ高リスク・高リターンのリスクマネーだ。

アップル、アタリ、エレクトロニック・アーツ、グーグル――。創業初期にセコイアから出資を受けて大成功したシリコンバレー企業は枚挙にいとまがない。

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牧野 洋(まきの・よう)
ジャーナリスト
1960年生まれ。慶応大学経済学部卒業、米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール修了。1983年、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員や編集委員を歴任し、2007年に独立。早稲田大学大学院ジャーナリズムスクール非常勤講師。著書に『福岡はすごい』(イースト新書)、『官報複合体』(講談社)、訳書に『TROUBLE MAKERS トラブルメーカーズ 「異端児」たちはいかにしてシリコンバレーを創ったのか?』(レスリー・バーリン著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)などがある。
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レスリー・バーリン歴史学者
シリコンバレーの郷土史家。スタンフォード大学で博士号(歴史学)、イェール大学で学士号(アメリカ研究)を取得。スタンフォード大学「シリコンバレー文書保管所」のプロジェクトヒストリアン、ニューヨーク・タイムズ紙の「プロタイプ」コラムニスト、スタンフォード大学「行動科学高等研究センター(CASBS)」のフェロー。スミソニアン協会が運営する国立アメリカ歴史博物館(NMAH)「レメルソン発明・イノベーション研究センター(LCSII)」の諮問委員会メンバーも務める。
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(ジャーナリスト 牧野 洋、歴史学者 レスリー・バーリン)