出産した3人の子は、難病を抱えた重症児だった──。「真っ暗なトンネルに迷い込むってこういう感じなんだ」と当時を振り返る紺野昌代さん。看護師として働きながら、子どもたちのケアに全力を捧げる毎日。周囲の心無い言葉、自分を責めたときもありながら、それでも「精一杯わが子を愛した」、家族の記録。

【写真】重症児だった3人の子どもたちの生前、紺野さんと過ごした日々(全12枚)

真っ暗なトンネルに迷い込んだ感じ

長男の聖矢くん2歳の誕生日

── 紺野さんは出産した3人のお子さんが全員重度障害児で、懸命にケアを続けたものの、3人とも亡くなっていると伺っています。まず長男・聖矢さんを出産したときの状況について教えていただけますか。

紺野さん:23歳のときに助産院で出産しましたが、泣き声がほとんど聞こえないくらい、弱々しくて。筋緊張が低下し、身体がダランとしていて、すぐにNICUのある病院へ運ばれました。NICUではいろいろな検査をしてもらいましたが、確定診断には至りませんでした。

── かなり大変な状況だったかと思います。

紺野さん:「真っ暗なトンネルに迷い込むってこういう感じなんだ」って思いました。助産院だったので本来は母子同室で過ごすはずが、私はすぐに子どもと引き離されてしまい、周りの赤ちゃんの泣き声や家族の笑っている声にさえ、苦しみを感じてしまいました。

聖矢はNICUに入ってから1か月後に退院し、小児専門病院で新たに検査をしましたが、そこでも同じく確定診断がつかず。先天性代謝異常症の医療的ケア児として育児が始まりました。

── 聖矢くんが生まれた2000年当時は、医療や福祉のサービス環境が整っていない時代だったそうですね。

紺野さん:そうなんです。今なら病院に医療ソーシャルワーカーがいて退院後の相談をするとか、地域関連機関と連携してサービス等の調整をする相談支援専門員がいますが、当時はそうした環境が整っておらず、この先どうしたらいいのかまったくわかりませんでした。

産後、しばらくして義理の両親と同居することになって、義理の母が一緒にお世話をしてくれるようになりましたが、ミルクが飲めず、鼻から入れたチューブで注入しても吐いてしまう。体重が増えず、お腹が空くし、呼吸も苦しく、昼夜問わず、常に泣き叫んでいる状態でした。疲労困憊している私を見かねて、義理の母が職場復帰を促してくれました。

復帰後は、通勤の時間は1人の時間を確保でき、職場でも1人の人になれたことは大きかったと思います。

「次の子にも何かあったら離婚しよう」と

3人の子どもたち左から蘭愛(れな)、愛聖(まなと)、聖矢(せいや)

── その後、聖矢さんの出産から4年後に第二子・長女の蘭愛(れな)さんを妊娠されます。

紺野さん:出生前診断について病院に相談しましたが、長男の病名がわからないままだったので、検査をしてもわからないだろうと言われました。でも、せっかく授かった命なので、病気でも病気じゃなくても育てる以外の選択肢はなかったので結局、検査はしませんでした。

いっぽうで、「次の子も同じ病気だったら…」と常に不安だったのもたしかです。産むのは私。次の子どもにも何かあったら、夫や親にまた迷惑を掛けてしまう。「もし、次の子が病気だったら離婚しよう。夫をこの生活に巻き込んじゃいけない」と思っていました。

── 産むのは女性ですが、障がいの有無は誰のせいでもないですし、夫も家族の一員なのでは?

紺野さん:今思えばそうなんですけど、当時は自分がすべて犠牲になればいいって、被害妄想のような気持ちもあったと思います。

── その後、第二子の長女・蘭愛(れな)さん、第三子の次男・愛聖(まなと)さんが生まれましたが、2人とも重症児でした。

紺野さん:蘭愛は長男のときと同様、出産当日にNICUに運ばれて、長男と同じ病気だろうと言われました。愛聖は生まれてすぐは異常が見つからなかったものの、1か月くらい経って長男、長女と同じような症状が出てきて。愛聖はしばらく元気な期間もあっただけに、「愛聖だけは大丈夫かもしれない」と期待していたんですけど。

3人とも寝たきりでした。食事は胃ろうからの注入で、喉頭気管分離(喉頭と気管を離断し、口・鼻からの唾液や食物が肺へ入るのを物理的に防ぐ手術)をしているので声が出ませんが、喜怒哀楽の表現はとてもわかりやすく見せてくれていました。

── 旦那さんは3人の子どもに障害があるとわかってどんな反応でしたか?

紺野さん:生まれた直後は夫婦で毎晩泣いていましたが、だからと言ってずっと引きずっていたわけではなかったです。NICUにいるわが子を見ては「NICUのなかでもうちの子がいちばんかわいい!」と言って毎日病院に通っていたし、在宅になってもお風呂に入れてくれて、医療的ケアの手技もしっかり覚え、よくお世話をしてくれたと思います。

ただ、「周りには隠したいのかな」と思う場面は何度かありました。旅行や遠出など、普段の生活から離れた場所ならよかったんですけど、近所のスーパーなど、身近な場所になると、自分の子どもが病気だと知られるのは嫌だったのかもしれません。

私は3人出産してからブログをはじめましたが、そのこともあまりいい顔をしていなかったと思います。でも子どもはとてもかわいがっていたので、彼なりにいろいろ葛藤はあったんだと思います。

「障害児がいるのにまだ産むの?」批判の声も

── ブログの反応はいかがですか?

紺野さん:応援してくれる声に励まされたし、同じように子どもに障害があるお母さんと仲よくなることもありました。

でも、ネガティブな意見もゼロではなくて「3人障害児を産むなんて」「1人障害児がいるのになんでまた産むの?」と批判も多く届きました。

実際、大変は大変でしたが、ふさぎ込んでも状況が変わるわけではありません。それなら子どもたちと精一杯楽しんで生きようと、徐々に切り替えるようになりました。3人といろいろなところに遊びに行ったし、ドライブや買い物、遊園地や旅行…普段の育児も楽しんでやっていました。もちろん義理の母が支援してくれたことは大きいですが、夫に子どもたちを任せて、1人で外出することもありました。長男が亡くなった後に夫の不貞行為で離婚することになって、そのときは大変でしたが、子どもの病気が原因でずっとツラかったわけではないんです。

── お子さんに障害がある場合も、親の受け止め方はそれぞれですし。

紺野さん:家に引きこもってしまうお母さんもいますが、私はできるだけ子どもたちを外に連れ出していきました。たしかに、ドライブに行けば車を停車してお店に入るたびに子どもたちをバギーに乗せる作業はあります。でも、そんなことよりも、子どもたちの笑顔に救われたし、自分が子どもたちにできることはすべてやろうと思っていました。障害があってもなくても、わが子はわが子。「とにかくかわいい」という想いが強かったです。

私は子どもに目一杯愛情を注いできましたし、子どもたちからもたくさんの愛情を受け取ってきました。子どもたちが少しでも共に過ごした時間が楽しかったと思ってくれていたら、と今は思っています。

取材・文:松永怜 写真:紺野昌代