「10人中6人に美味しいといわれたい」日高屋・創業者の「常識破りの経営哲学」…個人の借金20億円抱えて上場、深刻な客離れからの逆転劇

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関東を中心に展開する、人気中華チェーン店「熱烈中華食堂 日高屋」。過去最高益を更新するなど、快進撃を続ける日高屋だが、これまで歩んできた道のりは決して平坦なものではなかった。創業者で、現在も会長をつとめる神田正氏が、日高屋の誕生秘話と、そのユニークな経営戦略を語る。

※本記事は、神田正 著、中村芳平 構成『日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』(日本実業出版社)の一部を抜粋、再編集したものです。

「常識への挑戦」から始まった日高屋

10人中6人に美味しいといわれたい――。

「私は商品開発の担当者に『美味しすぎないように作ってくれ!』と指示します。外食業界は強烈な味で差別化し、お客さんを虜にしようとしますが、そうではなく週3回でも食べても飽きない日常食、『おふくろの味』が理想的です。

実は10人中10人が絶賛する味は存在しません。むしろ『10人中6人が美味しい』というくらいが、クセが少なくて、毎日でも食べられるんです。日高屋は大衆中華チェーンです。『感動よりも、習慣』を重視し、誰でも安心して食べられる味を目指します。

私は1969年(昭和44年)、『来来軒』岩槻名店街2階の再建店長に就きました。店の前に大きな赤提灯を吊るしました。

午前2時まで営業、4〜5カ月すると人形の町、家内工業の岩槻の職人さんたちが夜の10時過ぎにやって来る繁盛店になりました。深夜、ラーメン屋ではなく居酒屋のようになり、大儲けしました。ライバルは駅前の屋台ラーメン・屋台おでんしかなかったからです。

その時、深夜にラーメン屋の大きな需要があることに気づき、それ以来深夜需要を獲得するために全力を尽くしました。駅前一等地に出た時も午前11時〜翌朝5時営業、24時間営業と深夜営業することで勝ち続けてきたのです」(神田)

「ラーメン店は駅前一等地に出店できない」という定説、常識への挑戦の日々であった。駅前一等地への出店は家賃が高くて他の誰も出店してない。まさに無風地帯だった。

さらに、深夜営業への挑戦は、飲食店の中でもラーメン店は特に日中でさえも人材を確保するのが難しかった時代に、深夜に人材を確保するということは、まさに常識の逆をいく経営だった。

人生最大の挑戦「株式上場」を実現

神田が創業した株式会社ハイデイ日高は1999年(平成11年)9月、日本証券業協会に店頭登録した。公開価格(売出価格)1300円、初値(最初に売買が成立した価格)1720円、時価総額(初値ベース)約61.35億円(6135百万円)であった。

その後、JASDAQ上場、東証二部上場、東証一部指定を経て、市場区分見直しによって市場一部からプライム市場へ移行した。

神田は、上場について次のように振り返っている。

「人生で一番のバクチだった。あの時は夢中でいくら借金しているかわからなかった」(神田)

神田は1994年(平成6年)12月、西武新宿駅北口前に日高商事31店舗目の「新宿ラーメン館歌舞伎町店」を開店した。銀行の支店長からの紹介で、担保なしで1億円を貸してくれた物件だった。

年中無休、24時間営業。カウンター1人席の多い42席の小型店であるのに、初日から1000人以上が来店、毎日行列ができるほどの人気で、月商2000万円という日高商事で最高の売上をたたき出した。

そして、神田が日本一の大繁華街といわれている、新宿歌舞伎町で実績を上げたことがきっかけとなり、山手線、中央線などの駅前一等地への出店に取り組んだことは先述の通りだ。

新宿歌舞伎町での成功で株式上場の腹を固め、銀行系ベンチャーキャピタル(以下、VC)幹部の指導を仰いだ。後にハイデイ日高の監査役に招くのだが、神田はその幹部のアドバイスに従って、株式上場の準備を進めた。

神田が株式上場を視野に入れて店舗数の拡大に踏み切った1993年(平成5年)時点では、直営が20店舖しかなかった。神田は1994年10店舗、1995年6店舗、1996年5店舗、1997年7店舗、1998年8店舗、1999年10店舗(この年9月、株式店頭登録)、合計6年間で46店舗新規店を増やした。

こうして1999年9月、直営58店舗で店頭登録したのである(その後にJASDAQ上場。段階を経てプライム市場へ移行)。

神田は個人保証で約20億円の借金を抱えて、新規店の出店は限界だった。この状態で株式上場に踏み切ったのだ。

あらかじめ決められた価格で新株を購入できるワラント債(新株引受権付社債)は1回目はVCが買い付けた。2回目は神田が買い付けた。このため残債を含め十数億円の借金を抱えた。ワラント債は上場準備費用、出店資金、財務体質の改善、セントラルキッチン整備のための“実弾”として使われた。

要するに神田は借金だらけで株式公開を推進、もし上場に失敗していたら、破綻してもおかしくなかった。それを突破できたのは神田の情熱と強運、VCの幹部の適切な指導や銀行の一致協力によるところが大きかった。

「銀行から個人保証で借りるだけ借りて、もう借りられない状況になってしまったから、株式公開に賭けました。今、改めて振り返ってみると、成功の要因はお金がなかったことに尽きますね。お金がなかったから事業の発展に賭けることができたんです」(神田)

神田は経営計画発表会でも宣言してきた株式上場の夢を実現し、ハイデイ日高の新しい夢に挑戦するのである。

主力業態「ラーメン館」が60店舗で破綻

株式公開の時点で、すでに主力業態となっていた「ラーメン館」は、「新横浜ラーメン博物館」にヒントを得て開発され、「北海道味噌ラーメン」や「九州とんこつラーメン」「喜多方ラーメン」「東京醤油ラーメン」など、ご当地ラーメン約10種類が1カ所で食べられるというアイデア業態だった。

麺は太麺、細麺、平麺などの4種類、味の決め手となる重要な調味料は「タレ(カエシ)」で、それで、それぞれのラーメンの違いを出す方式で、マニュアル化されていた。

最大の問題は提供していたスープが1種類しかなく、全部のラーメンに同じスープが使われていたことだ。ご当地ラーメンを売りにする以上、それぞれのラーメンのスープも独自のスープを開発する必要があったが「ラーメン館」はそこまでの手間暇はかけなかった。

1994年(平成6年)4月に1号店の「大宮ラーメン館一番街店」を開店、数種類のご当地ラーメンが1カ所で食べられるというアイデアが人気になり、行列のできるラーメン店になった。

また、同年12月には西武新宿駅北口前に都心進出の第1弾になる「新宿ラーメン館歌舞伎町店」を開店し、大成功だった。

1999年(平成11年)9月に日本証券業協会に店頭登録(その後にJASDAQ上場。段階を経て、プライム市場へ移行)するまでに直営で46店舗出店し、合計で58店舗になった。ところが、この「ラーメン館」は上場した途端に客離れが起きて、業績が悪化した。

「ラーメン館」は上場した年の2000年(平成12年)2月期決算では既存店売上高は前年同期比0.4%減、翌2001年(平成13年)には同3.8%減、2002年(平成14年)には同2.3%減と減り続けた。

他の業態の台湾家庭小皿料理「台南市場」、チャイナキッチン「餃炒」、新鮮市場(居酒屋)「文楽座」、「来来軒」などの売上に助けられて、会社全体の売上高は下がらなかった。だが、2002年(平成14年)には営業利益は同11.4%減、2003年(平成15年)には同18.7%減に大きく落ち込んだ。

「『ラーメン館』は、メニューが70〜80品と多い『来来軒』と違って、マニュアル化が簡単にできました。ただし麺は4種類、スープは1種類で同じスープを使用して全部間に合わせていました。

最初は物珍しさで人気になったのですが、何回か来店し『東京醤油ラーメン』、『九州とんこつラーメン』などといくつか食べ比べたお客様は、『なんだ、スープが同じだ。イミテーション(模倣品や偽物、まがいもの)じゃないか!』と見抜きます。

これで客離れが起こり、2002年(平成14年)2月期の営業利益は前期比約9900万円の減益で7億6700万円に落ち込みました。『ラーメン館』という上場時の主力業態が不振になることはめったにないことで、市場筋では『ハイデイ日高は倒産するのではないか』と悪評が立つ有様でした。

上場してほっとしていたところなのに、『ラーメン館』の予想外の不振で経営危機に直面しました。この時は本当に追い詰められました」(神田)

神田はこれより先、「ラーメン館」に代わる新業態を立ち上げるために、店を回って店長の意見を聞いて歩いた。

「店長たちは酒類がほとんど売れない『ラーメン館』はやめて『来来軒』に戻したほうがいいという意見と、『ラーメン館』と『来来軒』を折衷して新しいブランドを作ったほうがいいのではないかという意見でした。私は折衷案を考えていました」(神田)

「日高屋」はこうして誕生した

神田は深夜、「CEC経営塾」のリーダーであり、「経営の師」でもある社外取締役の内田徳男(当時・株式会社ユー・コーポレーション代表取締役)に電話した。『ジャリ道』(埼玉新聞社)によると次のようなやりとりがあった。

「寝られない、このままじゃじり貧になる……」(神田)

内田は一喝した。

「これはチャンスだ。今、いくら調達できんだ? 看板、総取り換えだ。赤提灯の屋台を再現した大衆の店が会社の原点。そこに戻れ。最後の決断はお前しかできない」(内田)

内田は、神田の腹の内を見透かしたように発破をかけたのである。

神田はこの時、創業店の「来来軒」と「ラーメン館」のいいとこどりをして、屋台ラーメン・屋台おでんのコンセプトを取り込んだ中華食堂「日高屋」を作ろうと思った。

「ラーメン館は麺の種類を4種類、ラーメン約10種類を提供していました。日高屋では麺は1種類、ラーメンは約5種類に減らし、メニュー数を3分の1に絞り込み、フレンド社員(パートやアルバイト)だけでも運営可能なオペレーション体制にしました。

これができた時点で、中華そば『日高屋』としてひと足先にオープンしました。

『来来軒』との統合はメニューの選別やマニュアル化に時間がかかったこともあり、1年くらい時間をかけて、開発することにしました」(神田)

こうして2002年(平成14年)6月、新宿アルタ(2025年〈令和7年〉2月28日営業終了)裏に低価格ラーメン、中華そば「日高屋」1号店の新宿東口店を開店した。

まだ、「来来軒」のメニューの選択とマニュアル化などがすんでいない試作段階の1号店だった。「ラーメン館」の代わりに、急遽同様な専門店の「日高屋」を出店したという感じであった。

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