就任早々の解散、総選挙で大勝した高市首相のメンタルの強さはどこから来るのか。高市氏に長年インタビューを重ねてきた大下英治による評伝『高市早苗 安倍晋三の後継者となった初の女性首相の戦い』(宝島社文庫)によると、高市氏の母は警察官で、閣僚になってからも母親からビンタと説教をされていたという――。

※本稿は、大下英治『高市早苗 安倍晋三の後継者となった初の女性首相の戦い』(宝島社文庫)の一部を再編集したものです。

■昭和36年、奈良市で生まれ橿原へ

日本で初めての女性の総理大臣となる高市早苗は、昭和36年(1961年)3月7日、奈良県奈良市で、サラリーマンの父親の大休(だいきゅう)と、奈良県警に務める母親の和子の間に、長女として生まれた。

ちなみに、高市が7歳の時には、弟で、のちに秘書として高市を支えることになる知嗣が生まれている。

奈良市の幼稚園を卒園後、高市は、奈良市の小学校に入学した。

その後、小学校3年生の時に、実家の転居に伴って、橿原(かしはら)市に引っ越すことになる。高市家が暮らす新居は丘陵地を造成した地域の一軒家であった。

転校先の橿原市立畝傍(うねび)南小学校は、高市の転校時は学年で2クラスだったが、周囲のベツドタウン化が進み、卒業する時には4クラスになっていた。

その頃から世話好きの高市は、転校生が来るたびに校内を案内していたという。

小学校を卒業すると、高市は橿原市立畝傍中学校へと通った。

高市が多感な時期を過ごすことになる橿原市は、奈良県中部に位置し、奈良市に次ぐ奈良県下で第2の規模の都市であった。

橿原市は、古都と呼ばれる奈良市と同じように、歴史のある古い街であった。

■天皇が権力を確立した「建国の地」

橿原という市の名前も、九州地方の宮崎県から渡って来た神武天皇が磐余(いわれ)の地において磯城(しき)の首長の兄の磯城を破って、饒速日命(にぎはやひのみこと)も天津瑞を献じて仕えることとなり、神武天皇即位紀元辛酉の年の春正月の庚辰の朔日に、畝傍山の東南にある「橿原の宮」に即位して建国したという伝承に由来する。

持統天皇8年(694年)には、日本最初の都城である藤原京が橿原市と明日香村にかかる地域に造営され、16年後に平城京に移転するまで、日本の首都であった。

そのような歴史もあり、尊王意識の高まった幕末の頃になると、このあたりは神武天皇の建国の地として注目されるようになり、畝傍陵が造営された。

さらに、明治23年(1890年)には、明治天皇によって、官幣大社として橿原神宮が創建される。それ以来、多くの参拝者を集めている。

写真=iStock.com/leodaphne
橿原神宮(奈良県) - 写真=iStock.com/leodaphne

■父はトヨタ系列会社の営業マン

子供の頃の高市の人格形成に影響を与えた二人の人物といえば、やはり、父親の大休と母親の和子であろう。

父親の大休は、長女である高市のことをベタベタに甘やかして、溺愛して育てたといわれている。

弟で長男の知嗣に対しては、とても厳しかった父親だが、姉の早苗のことは徹底的に甘やかした。それだけ一人娘の早苗が自慢の存在で、可愛くてならなかったのであろう。

大休は、トヨタ系列の機械メーカーのサラリーマンだった。

西日本全土を統括する大阪の営業所に勤めていたため、夜中であろうが、休みの日であろうが、仕事の取引先で一たびトラブルがあると直ちに駆けつけた。

真夜中に自ら車を運転して、「島根県まで行ってくる」と言い残して、飛び出して行ったこともあった。

高市は、子供ながらに仕事熱心な大休の様子を見て、たびたび思っていた。

〈お父さんは、本当に責任感が強いんだな〉

そう思いながら、父親のことを誇りに思っていた。

父親はエンジニアではなく営業職だったが、取引先のことを何よりも大切にしていた。

営業マンだけあって、人あたりも非常に良かった。

「相手のことを認めながら、まず褒めて話をしろ」

それが父親の口癖で、のちに高市は政治家になってからも、たびたびアドバイスされたという。

自分の意見を言う前に相手の言い分を聞いて、それを理解してから、相手の良いところを尊重する。そのうえで自分の考えを伝える。

このような相手の心を傷つけないための配慮がいかに大切で重要なのか、大休は諭すように高市に語っていた。

■熱血警察官だったパワフルな母

一方、母親の和子は、高市が物心ついた時には、奈良県警で「婦人少年補導員」として働いていた。

和子は、仕事はもちろん家庭のことにも熱心な母親であった。

育児や祖父の看病で大変な時期でも、重大な事件が発生した時には夜遅くまで働き、深夜に家事を完璧に片づけた。早朝から家族の弁当もつくってくれた。

職場には一番乗りで出勤し、同僚に気づかれることもなく、全員の机を拭いて花を生ける。それが「女性職業人」としての母親のこだわりであり、プライドだった。

写真=iStock.com/makisuke
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/makisuke

弟の知嗣が生まれる臨月の時には、事件の容疑者を自ら追いかけて、大きなお腹で全力疾走していたことを、のちに母の同僚から聞くこともあった。

和子の活躍ぶりは、奈良県警において伝説として残るほどだった。

大休も高市も知嗣も、母親のことを「少しは手を抜けばいいのに」とぶつぶつ言いながらも、掃除や洗濯、食器洗い、祖父の世話などを手分けして、家族全員野球で頑張っていた。

■「女を捨てるな」と教えた厳しい母

和子は定年まで立派に勤め上げた。

高市にとっては、幼い頃に和子から繰り返し言い聞かされた事柄が思考や行動の物差しとして刻み込まれていることを感じるという。

「他人様に迷惑をかけることは、絶対にしないこと」
「職業に貴賤はないよ。汗水を垂らして真面目に働くことが尊いのよ」
「陰で他人の悪口を言わないこと。言いたいことは、直接本人に伝える。その場合も、相手の気持ちをよく考えること」
「ご先祖様に感謝をすること」

子供の頃、高市は母親の和子から「真っ赤なバラのようであれ」とよく言われた。

それは男性の多い職場で互角にやろうと肩肘を張ってギスギスせずに、常に女性らしい華やかさを失わないように、という教えであった。

ただし、間違ったことには毅然と立ち向かうトゲも持ち続けなさい、という意味も含められていた。

高市が大学を卒業して社会人になってからも、母親からそのことはたびたび言われた。さらに、政治家になっても言われた。

高市は、のちに国会議員になったばかりの頃、選挙区で活動をしているとハイヒール姿を批判された。その頃は女性の候補者は地味な格好で活動する方が良しとされていたのだ。

「あの人、ハイヒールを履いている」

現在では当たり前のことだが、当時はそれが攻撃材料となったのだ。

写真=時事通信フォト
衆議院予算委員会で答弁する高市早苗首相、2026年3月3日 - 写真=時事通信フォト

■ハイヒール、イヤリングで活動

しかし、高市は譲らなかった。

選挙期間中は選挙カーから飛び降りて走って有権者のもとに駆け寄ることも多い。スニーカーの方がその点でははるかに便利だ。

しかし、普段の活動では自らのこだわりでハイヒールを履いていた。

「イヤリングなんかしている」と批判されることもたびたびあった。

だが、そのたびに母親からの教えを思い出して、踏みとどまった。

「真っ赤なバラのようであってほしい。女性であることを捨てるな」

その言葉に支えられて、高市は、イヤリングとハイヒールをやめることなく続けることができた。

高市にとっては、イヤリングとハイヒールは、男性ばかりの政界で戦っていくための戦闘用のユニフォームだったのかもしれない。

■個人攻撃をしないのは母の教え

警察官だった母親の和子は、長女の高市に対しての躾(しつけ)がとても厳しかった。

「他人様に絶対に迷惑をかけるな。もし、この家族のなかで誰か一人でも迷惑をかけるようなことをしたら、家族全員がお天道様の下を歩けない」

子供の頃から、たびたび言われた。

そして、政治家になってからは次のことをよく言われた。

「選挙では、決して個人攻撃をしないこと」

そのため、高市は選挙ではいつも対立候補の批判をせずに、自分の政策を淡々と訴えるスタイルを貫き通している。

「要領が悪い」と後援者らは嘆いていたが、今ではその愚直なスタイルを誇りに思っている。

高市は、服装も性格もとうてい「真っ赤なバラ」になれそうにないが、働く女性の先輩としての亡き母親を尊敬し、数々の教えに感謝している。

母親の和子は、平成30年(2018年)4月16日に、86歳で亡くなった。和子が他界した際、高市は、警察学校の教官だった時の教え子たちから届いた弔電を読んで、母親の仕事に対する愛情と責任感を思い知って、涙が溢れた。

■大臣になっても母のビンタが

だが、実は、高市は母親から亡くなるまでに一度も褒められたことがなかった。国会議員になってからも、顔を見るたびに叱られ続けた。

閣僚の時は、滅多(めった)に奈良に帰れなかったが、たまに実家に帰るたびに説教された。

和子に対して、一言でも口答えをすると、ビンタをされたり、蹴られたりすることも当たり前だった。現在では、DV(家庭内暴力)という言葉があるが、当時はない。現職閣僚の時ですら、ビンタされることもあった。

母親と高市の間には、ある種の緊張関係があり、それは母親が亡くなるまで変わらなかった。

編集部作成

■母が亡くなるまで打ち解けず…

高市は高齢になった母親の介護もおこなった。

多忙な議員活動の合い間を縫って、家に帰って世話をした。

忙しい時は、平日の夜の最終の新幹線で奈良に帰り、翌朝一番目の便で上京することもたびたびあった。

弟の知嗣は、母の覚えも良いため、たびたび電話もしていたようだった。

大下英治『高市早苗 安倍晋三の後継者となった初の女性首相の戦い』(宝島社文庫)

だが、高市は母との電話はなるべく避けるようにしていた。

母親は、車椅子になっても喋りが達者で、説教されることも多かったからだ。

だが、母親が亡くなったあと、お参りに来た母親の友達から言われることがあった。

「お母さん、寂しがっていたよ」

今になって振り返ると、電話くらいすれば良かったと思う。

奈良に帰るたびに顔を合わせたり、介護支援サービスの対象外となることは高市自身がこなしていたが、家族同士の話はあまりできなかったという。

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大下 英治(おおした・えいじ)
作家
1944年、広島県に生まれる。広島大学文学部を卒業。『週刊文春』記者をへて、作家として政財官界から芸能、犯罪まで幅広いジャンルで旺盛な創作活動をつづけている。著書に『安倍官邸「権力」の正体』(角川新書)、『孫正義に学ぶ知恵 チーム全体で勝利する「リーダー」という生き方』(東洋出版)、『落ちこぼれでも成功できる ニトリの経営戦記』(徳間書店)、『田中角栄 最後の激闘 下剋上の掟』『日本を揺るがした三巨頭 黒幕・政商・宰相』『政権奪取秘史 二階幹事長・菅総理と田中角栄』『スルガ銀行 かぼちゃの馬車事件 四四〇億円の借金帳消しを勝ち取った男たち』『安藤昇 俠気と弾丸の全生涯』『西武王国の興亡 堤義明 最後の告白』『最後の無頼派作家 梶山季之』『ハマの帝王 横浜をつくった男 藤木幸夫』『任俠映画伝説 高倉健と鶴田浩二』上・下巻(以上、さくら舎)、『逆襲弁護士 河合弘之』『最後の怪物 渡邉恒雄』『高倉健の背中 監督・降旗康男に遺した男の立ち姿』『映画女優 吉永小百合』『ショーケン 天才と狂気』『百円の男 ダイソー矢野博丈』(以上、祥伝社文庫)などがある。
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(作家 大下 英治)