轟音を立てて走り去る「ガソリンカー」の思い出 “鉱都”葛生の失われた風景で想像した45年前の走りを止めた日

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栃木県の南西部に位置し、現在は栃木県佐野市の一部に統合された旧・葛生(くずう)町。葛生といえば、古くから「石灰の街」といわれ、周囲の山々から切り出される石灰石とドロマイト(苦灰岩〔くかいがん〕)を、麓の工場や荷捌場まで運搬する採石運搬列車が、複数存在していた。そのなかの一つである「住友セメント唐沢鉱山軌道」は、ガソリンカーの愛称で親しまれた全線3.3kmのナローゲージ(レール幅762mm)の路線だ。猛獣が吠えるような轟音を立てながら走り去ってゆくガソリンカー。幼少期の記憶とともに、その思い出を振り返ることにしたい。

※トップ画像は、山から工場へと向かう石灰石を満載した唐沢鉱山軌道の鉱石列車。左側の線路は東武鉄道会沢貨物線(廃止路線)=1975年3月15日、安蘇郡葛生町、写真提供/田中義人

葛生原人の街

1950(昭和30)年に、栃木県安蘇郡葛生町(現・佐野市)の大叶(おおかのう)にある吉澤石灰鉱業の鉱山にある洞窟などの中から発見された骨が、旧石器時代の人間のものであるとされ、かつては「葛生原人」と提唱されていた。しかし、その後の研究によって骨は動物のものであることや、人骨も中世(約600年前)のものであることが判明し、「葛生原人」は“幻”となった。

この事実を「町おこし」の話題性ととらえ、今も古代ロマン”をテーマにしたイベント「くずう原人まつり」が毎年9月に開催されている。また、旧葛生町(現・佐野市葛生東)にある青藍泰斗(せいらんたいと)高等学校〔旧・葛生高等学校〕が甲子園(高校野球)に出場した際には、葛生原人の格好をして応援が行われることでも知られる

「原人のふるさと」と書かれた旧葛生町が設置した看板=2017年7月23日、佐野市葛生東

ナローゲージの唐沢鉱山軌道

旧葛生町の築地地区にある住友セメント(現・住友大阪セメント)栃木工場と、そこから3.3km離れた「唐沢鉱山」を結んでいた小さな鉱山軌道があった。1938(昭和13)年に開業したこの路線は、黄色い車体のガソリン機関車が、石灰石を積んだ見るからに重そうな鉱車(貨車)を10両連結して運行していた。レールの幅は、JRなどの通勤電車に見られるような1067mmではなく、ナローゲージと呼ばれる762mmと小柄なものだった。

鉱車は、過去に3トン積(22両編成)のものがあったが、10トン積(10画編成)が活躍していた。けん引は1962(昭和37)年製の日立製10トン・ディーゼル機関車と1949(昭和49)年製の東洋工機製の20トン・ディーゼル機関車の2種類があった。前者は2両の機関車を背中合わせで使用し、後者は単車で使用していた。

列車の速度は、子どもが走って追いつくようなスピード感で、近所の子どもにとって格好の遊び道具と化していた。列車の後を追いかけて、鉱車(貨車)の後ろに飛び乗るという、今思えば何とも危険な遊びだった。ゆえに痛ましい事故が起きたこともあり、この遊びが禁止されたことは言うまでもない。

唐沢鉱山軌道の路線概要図。保存車両の案内板より=2017年7月23日、佐野市葛生東

旧葛生町を一望できる嘉多山公園から見た住友大阪セメント栃木工場の遠景=2017年7月23日、佐野市高砂町

佐野市葛生化石館などが入る施設駐車場に展示されている唐沢鉱山軌道の車両たち。日立製10トン・ディーゼル機関車、3トン積み鉱車〔貨車〕、作業員などを乗せた人車の3両が大切に保存・展示されている=2017年7月23日、佐野市葛生東

ガソリンカーの思い出

1970年代、祖父母はガソリンカーの沿線に済み、祖父は住友セメントで働いていた。春夏冬になれば、祖父母の家へ遊びに行くのが恒例行事となっていた。幼少期にガソリンカーを見て育ったこともあり、いつの日か“鉄道大好き少年”になってしまった。

全長3.3kmの路線は単線で、途中の2か所で列車の交換(行き違い)が行われていた。列車の運転は約7分間隔で、1日50往復、朝7時から夜7時までひっきりなしに走っていた。運転しない日は、お正月とお盆休みくらいだった。最終列車は、機関車だけが山から工場へと戻り、その車体には日中では見られない青色のテールランプが灯される。これを見ると、やっと静かにテレビが見られると子どもながらに思ったものだ。

気が向けば祖母の手を引き、列車の交換所や唐沢鉱山での鉱車(貨車)の入換えを数えきれないほど見に行った。ときには、買い物ついでに列車交換所へ立ち寄り、鉱石列車が通過するポイントの動きを夢中で見るあまり、買い物袋の上に腰かけたことも忘れて生卵を割ってしまったことがあった。その晩のおかずが玉子焼きだったことも、今となっては懐かしい思い出だ。

当時は道路事情が悪く、ガソリンカーと並行する国道293号線は、周辺の鉱山などへ出入りする大型ダンプの往来が激しく、道を歩くのが怖かったことを思いだす。安全という選択肢の一つに、ガソリンカーの線路を歩くという荒業があった。そのタイミングはというと、ガソリンカーが工場へ向かって走り去ると、その反対方向に向かって線路上を歩き出す。それから5〜6分くらいすると、工場側の交換所ですれ違ったガソリンカーが走ってくる。この合間を利用して歩いたのである。地元の人の知恵というか、何とも大らかな時代の出来事であった。

そういえば、後日談として祖母から家のすぐ脇でガソリンカーが脱線する事故が起きたことがあったと聞かされたことがあった。なんでも、「置き石」による悪戯ではないかと、住友セメントの社員が近隣の家を一軒ずつ周り、目撃者探しをしていたそうだ。現場付近にある踏切は、警報機も遮断機もない「四種踏切」であり、道路は砂利道だった。結果、原因はわからにままだったそうだ。脱線の古傷は、後年ずっと枕木に刻まれていたことを思い出す。

2つの交換所のほぼ中間地点で撮影した唐沢鉱山軌道。この写真に見る踏切の手前右側に祖父母の家があった=1975年3月15日、安蘇郡葛生町、写真提供/田中義人

工場へと向かう石灰石を満載した鉱車を10両連結した列車。写真に見る線路上の奥に、山側の列車交換所があった。けん引は、東洋工機製の20トン・ディーゼル機関車=1975年3月15日、安蘇郡葛生町、写真提供/田中義人

“生卵”を割ってしまった苦い思い出のある山側の列車交換所。手前の踏切は、国道293号線=1975年3月15日、安蘇郡葛生町、写真提供/田中義人

ひとつ前の写真と同一地点の廃線跡。国道293号線を越えたところにあった山側の列車交換所付近を望む。線路跡の右側にある民家は当時と同じ場所に建っている=2017年7月23日、佐野市会沢町

いまに姿を留める廃線跡

開業から42年が経過した1980(昭和55)年12月30日、唐沢鉱山軌道はその歴史に幕を閉じた。これは、鉱車による輸送量が限界を迎えていたほか、踏切渋滞、騒音・振動問題などもあり、新しいシステムでの鉱石輸送が行われることになったからだ。このシステムとは、ガソリンカーのレール跡(軌道敷跡)に大きなパイプを埋め込み、そのパイプの中を圧縮空気の力によって石灰石の入った“カプセル”を工場へと運搬するというものだった。このカプセルライナーは、現在も稼働をつづけている。

唐沢鉱山軌道の廃線跡は、全線にわたり「カプセルライナー」に転用されたため、当時の軌道敷(レール跡)は容易に確認することができる。この用地は、現在も住友大阪セメントの私有地であり、ゆえに廃線跡が宅地や農地に転用される心配はなく、今でも完全な形で遺っている。山側の列車交換所の先では、東武鉄道の廃止貨物線「会沢線」と並走する区間があった。そこは今でも、会沢貨物線の廃線跡を含め、当時の面影を見ることができる。

遺された軌道敷を見ているだけで、不思議と”忘れ去られていた記憶”がふとよみがえることがある。今回は、私の幼少期と重なる年代のお写真を田中義人さんからご提供いただき、ただただ感謝である。廃線跡と思い出探しは、これからもつづく。

トップ画像とほぼ同じ地点を写した廃線後の姿。背景の山の形が変わっているのは、石灰石の採掘により山が削られたことによるもの=2004年3月19日、栃木県葛生町

東武鉄道の貨物線「会沢線」が左側から接近し、唐沢鉱山軌道(右の軌道敷)と並走する地点を写した廃線跡。今でも両線の廃線跡は、はっきりとわかる状態にある=2004年3月19日、栃木県葛生町

工場側の列車交換所へと向かう石灰石を満載した鉱石列車=1975年3月15日、安蘇郡葛生町、写真提供/田中義人

ひとつ前の写真と同一地点を写したもの。工場側の列車交換所付近=2017年7月23日、佐野市会沢町

唐沢鉱山軌道の軌道敷に埋設されているカプセルライナー。河川横断箇所では大型のパイプが顔をのぞかせる=2017年7月23日、佐野市会沢町

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。

【貴重画像】栃木県の旧・葛生町を走っていた「ガソリンカー」唐沢鉱山軌道の貴重画像と廃線跡の対比写真など(13枚)