(左から)東京センチュリー・藤原弘治社長、東急・堀江正博社長、タレント・タモリ(森田一義)、太平洋セメント田浦良文社長

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上半身裸で覚える「筑高体操」


 ─ 筑紫丘高校は現役生とOB・OGたちのつながりが強いと聞いています。本日は東急社長の堀江正博さんの計らいで、太平洋セメント社長の田浦良文さん、みずほ銀行元頭取で東京センチュリー社長の藤原弘治さんの全員がサングラスをかけてタモリさんをお迎えしました。まずはタモリさんから校風をお願いできればと思います。

 タモリ その前に、わたしが『財界』という総合ビジネス誌に出てもいいのですか。『漫才界』ではなくて(笑)。

 ─ 町の歴史や人々の暮らしに迫るNHK番組『ブラタモリ』も拝見しています。その道を極めたリーダーにご登場いただきたいと思っていました。

 タモリ ありがとうございます。さて、筑高の校風と言われると、なかなか難しいですね。

 田浦 確かにそうですね。

 堀江 改めて聞かれると難しいですが、校訓に「剛健 叡知 創造」があります。

 ─ 校歌の歌詞は全て漢字というのも珍しいですね。

 タモリ ええ。漢文ではありませんが、漢字のみの漢文調表記になっています。



          タレント・タモリ(森田一義)



 田浦 作曲を担当された信時潔さんという作曲家は1千曲以上、校歌を作られているそうです。一方で作詞を手掛けた高木市之助さんは「万葉集」研究の第一人者で、「令和」をつけられた中西進先生の師匠。元号が変わるとき、凄い人が作った校歌だなと感銘を受けました。

 ─ 覚えるのが大変では?

 タモリ 確かにそうなのですが、同じくらい大変だったのが「筑高体操」でしたね。上半身裸になって短パンのみで体操するんです。さすがに今はシャツを着てもいいようですけどね。

 藤原 筑高体操は運動会のメインイベントにもなっています。

 堀江 大変なのは全員で合わせるところです。組体操のような雰囲気がありますよね。

 タモリ リズムが決まっているわけではないんです。パッと止まる箇所があったり、腕をピシッと伸ばすところがあったりと、これを合わせるのが難しい。

 田浦 ジャマイカの元陸上競技短距離選手で100メートルの世界記録保持者のウサイン・ボルト選手の決めポーズと同じようなポーズもあるんです。

 藤原 うちの真似ですかね。

 タモリ どう考えても、うちの方が先でしょうからね(笑)。ただ外野から見ていると、全員が揃ったときは本当に綺麗なんです。それを覚えるまで先生の厳しい指導が続くんですけどね。

 堀江 漢文調の校歌を1年生は入学式で教わります。その後に2・3年生との対面式を講堂で行うのですが、そこで校歌と応援歌を応援団が中心となって先輩たちが歌う。あまりにも先輩たちが大声で歌うので驚きましたね。中学生のときは真剣に歌っていませんでしたから。

 タモリ 中学校の校歌はあまり覚えていないのですが、筑高の校歌は覚えていますよね。そういえば、田浦さん以外の3人は同じ中学校でしたよね。

 堀江 そうです。わたしたちは福岡市立高宮中学校です。


先生に抗議する先輩たち


 ─ 高宮中は芸能人の出身者が多い学校と聞きましたが。

 タモリ ええ。歌手の氷川きよし君や歌手でタレントの森口博子さん、お笑いタレントの博多華丸などがいます。

 田浦 わたしだけが福岡市立那珂中学校の出身です。略して「那珂中」です。



           田浦良文・太平洋セメント社長



 ─ それだけ縁が深いのですね。藤原さん、その中学校の思い出を聞かせてください。

 藤原 わたしは野球部でしたが、同級生に後に甲子園に出場するほど上手な子がいたので強かったです。全国大会にも出場し、3回戦まで行きました。ただ、わたしは補欠でほとんど出番がなく、1回だけ守備にはつきましたが、打席は回ってこないで終わりました。成績もあまり良くなくて……。運よく筑高に合格できました。同級生の堀江さんはわたしより上です。高校で最初の実力試験の成績は450人中430番でした(笑)。

 堀江 わたしは389番(笑)。

 ─ ちなみに校歌で励まされたことはありましたか。

 田浦 はい。堀江さんがおっしゃったように、わたしも1年生のときの対面式で先輩たちの校歌を歌う姿を見たのですが、当時の2・3年生はゲタを履いて長髪・ヒゲ面の人が多かった。そんな姿の彼らが、ありったけの力を出して一生懸命に校歌を歌っていたのです。これが大人の世界なのかと感じました。

 しかも、先生が1年生に制服をしっかり着用するようにと身なりについて指導を始めると、それを聞いていた2・3年生が「何を言っているんですか?」と抗議する。しかも、どんどん声が大きくなる。その光景に面食らったことを覚えていますね。



高校4年制?


 ─ 田浦さんとタモリさんとは一回り世代が違いますね。

 田浦 ええ、タモリ先輩は16回生ですから14年違います。

 タモリ それでも田浦さんの時代と同じように先輩たちはバンカラで、先生のことはよくからかっていましたね(笑)。

 ─ 田浦さんと堀江さん、藤原さんとは何年違い?

 堀江 田浦さんは2年先輩です。入学式後のガイダンスで担任の先生が最初に言ったのは「タバコはやめとけ。酒はほどほどにせいよ」と。初日から凄いことを言うなと思いました(笑)。筑高出身の先生です。



        堀江正博・東急社長



 藤原 実はわたしは〝高校4年制〟になります。どういうことかというと、筑高には敷地内併設の「筑紫丘学館」という予備校があり、そこに1年間通っていたので高校4年制。その筑紫丘学館で勉強を教えてくれていたのが現役の高校の先生なんです。その意味では、堀江さんは〝中退〟になりますね。

 堀江 わたしは高校3年で卒業しましたからね。

 藤原 それが中退です(笑)。

 田浦 わたしは藤原さんと同じく4年間通いましたよ。

 タモリ それなら、わたしも中退になります。

 藤原 個性的な先生が多かったのですが、厳しい先生もいました。テスト返却時に赤点だと頭をひっぱたくんです。わたしの前は優秀な生徒が続いてスーッと戻ってくるのですが、赤点と分かっていたわたしは先生に向かって頭を出していました。



         藤原弘治・東京センチュリー社長



 ─ 先生も地元の出身者?

 田浦 ええ。田川市出身の先生は筑豊弁丸出しでした(笑)。

 タモリ わたしの時代は、ほとんどが筑高の出身者でした。ですから、殴ってきても「これは先生が殴っているんじゃない、先輩が殴っているんだ」と(笑)。変わった先生ばかりでした。

 藤原 個性が強かったです。

 ─ その筑高も2027年に創立100周年を迎えるようですね。タモリさんが実行委員会の会長ですね。

 タモリ はい。筑高の卒業生総数は4万人を超えており、次世代の生徒たちのためにグラウンドを人工芝化し、講堂設備などの施設の拡充などの目標を実現するため、同窓生の方々から寄付を募っているところです。

 ─ 運動は強いのですか。

 タモリ 結構強いですね。ラグビーが強い時期もありました。

 藤原 我々の代では花園に出場していましたからね。

 堀江 野球部も強い時期があったのですが、甲子園出場までには至っていませんね。

 藤原 陸上部は強いです。

 田浦 短距離走とやり投げなどの投てきも強いですよ。やり投げでインターハイに出場した選手もいました。ちなみに堀江さんとわたしは陸上部で、わたしは5000メートル走。でも全然ダメで。堀江さんは凄いんです。

 堀江 いえいえ。わたしは短距離走で、宮崎県開催の国民体育大会陸上競技(国体)で3位になりました。しかもわたしたちは恵まれていて、リレーでは後に短距離業界の第一人者となる豊田敏夫さんが同じチーム。国体では主催県のチームが優勝することが多いのですが、このときは福岡県が優勝しました。

 タモリ 堀江さんはどのくらいのタイムだったのですか。

 堀江 100メートルで10秒64でした。その時は追い風参考でした。

 田浦 その頃の日本記録が10秒1。1964年の東京五輪に出場した飯島秀雄選手の記録ですが、それに肉薄するタイムですから凄いですよ。

 堀江 それでもわたしは五輪金メダリストのカール・ルイス選手と同期なのですが(笑)、彼の9秒9のタイムと比較すると、彼がフィニッシュするときには6メートルも差がついている状態ですからね。藤原さんもスキーの国体に2回出場していますよね。


1週間にわたる修学旅行


 ─ 福岡でスキーは珍しい。

 藤原 というのも、わたしは北海道生まれで、父の仕事の関係で中学1年生まで北海道にいました。中学2年生のときに高宮中に転校したのですが、スキーの国体での予選会に出場する選手は100人くらい。そのうちの1人に選ばれたに過ぎません。それでも3年間連続で出場することができました。堀江さんとわたしの時代の修学旅行にはスキー研修がありました。

 田浦 わたしの代から志賀高原への修学旅行が始まりました。ゴーグルからヤッケ(上着)まで全部買わされましたよ。

 タモリ わたしの時代はスキーではありませんでしたが、強行軍でしたね。博多から夜行列車に乗り、京都・奈良を回って東京へ行く。さらに箱根と富士五湖を回って帰ってくると。1週間でした。前の代では日光まで行っていたそうです。さすがにそれが厳しいとなって日光は外されましたが、キツかったですよ。面白かったですけどね。

 藤原 辛そうですね。スキーができるわたしには、修学旅行はありがたい機会でした。そのときだけヒーローになれましたから(笑)。筑高は共学ですが、女子が少なく、わたしは男子クラス。女子と関わりがなかったのですが、スキーで急に知名度が上昇。スキーをやっていて良かったと心底思いました(笑)。

 タモリ 藤原さんは水球もやっていましたよね。

 藤原 ええ。水球部に所属していました。ですから、夏は水球で冬はスキー。そりゃ、高校4年生になりますよね。授業中は寝ているだけですから(笑)。

 田浦 水球部には怖い先輩が多かった記憶があります。

 タモリ わたしの同級生の中にも水球部でそういうのがいました。伝統なのかな(笑)。

 藤原 そこも格好良く見えました。ただ、わたしの父と姉が水泳の国体選手で、それを聞きつけた水球部の先輩が教室に入ってきて、「藤原は誰や?」と聞いてくる。「はい」と手を挙げると、「明日から水球部な。午後6時に部室に来い」と。有無も言わさず、入部が決まりました。

 ─ 凄いリクルートですね。皆さんは運動部ですが、タモリさんはブラスバンド部でしたね。

 タモリ はい。トランペットを吹いていました。

 堀江 ブラスバンド部も強かったですよね。全国大会常連組。

 タモリ 一生懸命練習していましたからね。一方で勉強は地学が好きでした。この2つが今の仕事にもつながっています。



先輩の一言で司会業へ


 ─ では、その後の進路について聞かせてください。タモリさんは早稲田大学に進学し、ジャズ活動に汗を流しました。

 タモリ 高校3年生のときに、いろいろな音楽を聴いていた中で、最後に聞いたジャンルがジャズでした。それが心に響いて本気でジャズミュージシャンになろうと思ったんです。ジャズを習うのはどこがいいかと考えたときに早稲田がトップだと。それで行こうと思いました。

 大学進学後、モダンジャズ研究会に入部したのですが、驚きました。とにかく周りが上手すぎる。その後、プロになった人もいます。そこで先輩から誰が好きなのか聞かれて「マイルス・デイヴィス(米国のジャズトランペッター)です」と答えると、こう言われたんです。

「マイルスのトランペットは泣いているけれど、お前のトランペットは笑っている」と。その一言が響いて断念。ただ、トランペットを吹くよりも司会として喋る方に才能があると言われて司会をやるようになりました。

 ─ 才能を見出してくれた先輩だったのですね。

 タモリ はい。当時は学生バンドでもお客さんがたくさん来てくれました。夏は1カ月半から2カ月かけて、ずっと演奏旅行でした。各地に早稲田のOB・OG団体「稲門会」があり、資金を稼ぐためにコンサートを開いていたので、そこに参加させてもらい、全国を回りました。

 しかも、コンサートに出ると給料が出るんです。わたしはマネージャーもやっていましたから2倍もらえる(笑)。21歳からは音楽は諦めて司会とマネージャーばかりやっていました。大学は3年生のときに学費滞納で抹籍になってしまったんです。

 ─ なぜですか。

 タモリ 一緒に下宿していた同級生3人で大学2年生のときに旅行に行ったんです。その旅行費を最初に学費を含めた仕送りがくるわたしが立て替えたんです。他の2人は後で自分たちの仕送りが来たら返すと言っていたのですが、旅行から帰ってきても、いくら経っても返さない。ある日、大学から手紙が届き、中身を見てみると「学費未納のため抹籍です」と(笑)。

 ─ どう思いましたか。

 タモリ やはりダメかと。でもそれが逆に良かったのかもしれませんね。今でもその2人とは付き合っていますけどね。

 ─ それがなければ今のタモリさんはなかったと。田浦さんは九州大学に進みましたね。

 田浦 はい、工学部の応用科学です。当時、タモリ先輩の同級生の方のお父さんが高校の化学の先生をされていて、この方がとても面白い授業をしていたのです。その先生の影響で途中から化学専攻に決めました。

 わたしが大学生だった1970年代後半の日本では「日本をいざ創ろう」といった雰囲気があり、何となくそういったダイナミックな話に興味を持っていたんです。それが後に当社の前身の小野田セメントに入社することにもつながりました。

 どんどん海外にも出て行って、日本人の底力を見せたいという気概を持って頑張る。これは今でも同じなのですが、その根っこはこのときにあったのではないかと思います。筑高の英語の先生でも「うちの学校は海外に出て活躍する人間を育てるんや」と言って、熱の入った授業をしてくれていましたからね。

 ─ 筑高の校歌に「日本守護、日本開拓、日本創造」という言葉が出てきますよね。

 田浦 そうです。スケールが大きいですよね。「日本を守る、国を拓く、日本を創る」と。

 堀江 「民族の歴史にないて」というフレーズもあります。

 田浦 ええ。ですから、高校時代に学んだ英語は、入社後に海外での仕事が多かったわたしには、とても役に立ちました。英語の先生のお陰で大学時代はあまり勉強しなくても成績が良かったですからね。こういった先生がいらっしゃったのは、わたしにとっては財産です。

 堀江 校歌の最後にある日本創造という言葉がとても刺さりますよね。これはまさにクリエイティビティです。タモリ先輩はそれを具現化されています。

 ─ その堀江さんが慶應義塾大学に進んだ理由とは。

 堀江 父の影響もあって、わたしはもともと理系。中学時代はアマチュア無線をやっていました。かたや、高宮中学に転入して、陸上部の手伝いで中体連(日本中学校体育連盟)の試合に出ました。タモリさんも高中では陸上部だったと伺いました。

 タモリ そうなのですか。アマチュア無線は、わたしも中学時代に熱中していました。でも先生に伸びないから辞めろと言われて。トランペットもそうですが、全部それですよ(笑)。

 ─ ますます司会やお笑いの道に進んだことの縁を感じますね。それで堀江さんは、どんな進路に進んだのですか。

 堀江 高校時代に進路について父と話す機会があったのですが、父は技術者として通用するのは40歳までだと言いました。そこから先はマネジメントができないと生き残れないと。電気工学はどんどん専門化し、それが当たれば将来は良いですが、外れたときは困ります。でも、それらを束ねるのが経営であると知り、経営に携わることへの憧れを感じるようになりました。

 筑高の政治経済の先生に進路相談し、自分の志望していることを伝えると、その先生が推薦してきたのが慶大法学部だったのです。政治学科がいいと学科まで指定されました。幅広く勉強することができるという理由からでした。これが後の自分の人生にも生きてきましたね。

 ─ では、東急(当時、東京急行電鉄)を選んだのは?

 堀江 1つは鉄道を中心としたまちづくりや都市開発をやりたかったからです。もう1つは経営の仕事に携わりたいと思っていた中で、グループで様々な事業を手掛けるグループ経営を経験できると思ったからです。

 ─ 最後に藤原さんが銀行を選んだのはなぜですか。

 藤原 早稲田大学商学部で進路を考えていたときに、ダムや発電所などを作る土建屋だった父から呼び出されたことがありました。そこで父からは「進路について1つだけ言っておく。銀行だけは辞めてくれ」と。「俺は慇懃無礼な態度で民間に金を貸し、雨が降ったら傘を取り上げる。俺はそういう人たちが許せないんだ」と言ったのです。

 ─ お父さんにそこまで言われたのに、なぜ銀行へ?

 藤原 父の話を聞いて、どれほど酷いのかと思ってOB訪問をすると、とんでもない。素晴らしいロマンを持った人たちがたくさんいることを知ったのです。わたしの父のような偏見や偏ったイメージを持っている人は他にもいるはずです。だったら、それを自分で変えたいという強い思いがありました。

 堀江 メガバンクの頭取を務めた人が事業会社の社長になるというのは非常に珍しく、藤原さんが不文律を破りましたよ。いかにも筑高らしい。

 藤原 請われて仕事ができるのは幸せなことです。東京センチュリーの社長になったとき、タモリさんからお祝いのメッセージをいただきました。わたしがみずほ銀行の頭取だったときにシステム障害が起こったのですが、そのときも励ましのメッセージをくださいました。頭が上がりません。

 堀江 タモリさんは福岡と東京で行われる高校の同窓会には毎回出席されていますからね。

 タモリ 東京の同窓会では800人以上が集まるのですが、集まれる会場が確保できなくなってしまいました。唯一、開催できていた会場があったのですが、毎回、応援団が大太鼓を叩いてしまうので、出入り禁止になってしまいまして(笑)。



もっと外を見て羽ばたいて


 ─ それが今後の課題ですね(笑)。最後に皆さんから若者へのメッセージをお願いします。

 タモリ 実は高校生がつくる映画祭があり、金賞を受賞した映画を観たのですが、これが本当に素晴らしかった。ニューヨークやパリでも公開されたほどです。今の若い人にはそういうクリエイティブな才能がある。若い人はもっと挑戦していいと思いますし、筑高も是非ともそういう才能のある若者を育てる学校であって欲しいですね。

 田浦 世界に羽ばたいて欲しいです。今の若い人は壁を作ってしまい、もうこれ以上は無理だと決めつけてしまっている人が多いように思います。筑高の校歌にもあるように、大志を抱いて高みを目指そうよと。タモリ先輩がそうであるように、筑高はそれができる高校です。

 堀江 田浦先輩がおっしゃるように、筑高の校歌には東西の文化を学ぶ、日本を知って日本を拓くといったメッセージが盛り込まれています。先ほどの日本創造という言葉からも分かるように、クリエイティビティがこれからの日本の生きる道だと思うのです。わたしの名刺にも「クリエイティブディレクター」と記載しています。そういうものを伸ばして欲しいです。

 藤原 これまで申し上げてきた通り、わたしは学年一の劣等生でしたが、それでもメガバンクの頭取になりました。運と縁に恵まれると何が起きるか分かりません。ですから、決して希望を捨てず、今がダメでも羽ばたける可能性があるわけですから、世界の扉を開けて欲しい。そのためには自分に投資し、仲間を大切にして欲しいですね。

 ─ 笑いの絶えない時間をありがとうございました。

アミタホールディングス代表取締役会長兼CVO・熊野英介が語る「今こそ経済大国から循環大国へ!」