関ヶ原の戦いで東軍に負けた西軍はどうなったのか。島津義弘が率いる部隊は、戦場を突破して薩摩へ撤退する「島津の退き口」を敢行したという。歴史作家・桐野作人さんの著書『関ヶ原 島津退き口』(ワニブックスPLUS新書)より、決死の覚悟で敵の足止めをした武将、島津豊久のエピソードを紹介しよう――。
関ヶ原合戦図屏風(写真=岐阜市歴史博物館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■父・家久の時代に豊臣大名へ転身

島津豊久(1570〜1600)は島津四兄弟の末弟、島津家久(1547〜1587)の嫡男である。天正15年(1587)、家久が豊臣秀長に降伏したとき、島津本宗家から独立を企てて豊臣大名へと転身した。豊久は豊臣秀吉から父家久の旧領、日向国佐土原2万8000余石を安堵(あんど)された。

名乗りは豊久が有名だが、じつはほんの一時期しか名乗っていない。関ヶ原合戦のあった慶長5年(1600)2月までは忠豊と名乗っていることから、関ヶ原合戦時も忠豊だった可能性が高い(『島津家文書』3-1032号)。通称は又七郎で、朝鮮出兵(文禄の役)における陣立を示した「高麗国出陣人数帳」では「嶋津又七郎」と記されている(『島津家文書』2-957号)。

朝鮮から帰国した豊久は慶長4年2月、戦功により父家久が名乗っていた官途である中務大輔(なかつかさのたいふ)を名乗ることを許され、同時に侍従に任ぜられた(『本藩人物誌』)。これは「公家成(くげなり)」の栄誉である。

■西軍の挙兵に遭遇、致し方なく参加

豊久の初陣は15歳のときで、天正12年(1584)3月、島原半島の沖田畷(おきたなわて)の戦いである。父家久が島原半島に出陣したとき、豊久も同行した。相手は「五州二島の太守」と呼ばれた龍造寺隆信(肥前国佐嘉(さが)城主)である。島津軍は龍造寺の大軍を相手に苦戦したが、総大将隆信を討ち取って勝利した。豊久も新納忠元の後見によって一人を討ち取って初陣を飾った。

慶長5年(1600)5月、庄内の乱が終息したのち、豊久は参勤のため伏見に上った。この上京が結果として、豊久の運命を決してしまう。秀吉亡きあとの豊臣政権の執政・徳川家康に拝謁したのち、帰国の許可を得て大坂に下ったが、ほどなく石田三成ら西軍の挙兵に遭遇してしまう。豊久は致し方なく義弘とともに西軍に投じた。

■石田三成の「参戦要請」を拒絶

9月15日の決戦当日、豊久は島津軍の先手として最前線にあった。東西両軍の激突が一刻(約2時間)ほどつづいた頃、隣接する石田三成の陣所から、三成本人が豊久の陣所にやってきて、島津軍の参戦を促した。そのとき、豊久は次のように答えた(「山田晏斎覚書」)。

「今日のことはもはや面々が手柄次第に働けばよい。御方(三成)もそのようにお心得あれ」

豊久は自軍の進退について自力でやるから他人の指図は受けないと、三成の督戦を拒絶した。これはおそらく松尾山の小早川秀秋が裏切って大勢が決したためで、今さら小勢の島津軍が押し出しても大勢を覆せなかったからだろう。三成の陣所が崩れ落ちたのはそれからほどなくだった。豊久は義弘と相談して前方の伊勢路への強行進軍を決意する。決戦に臨んで、豊久は義弘の家老の長寿院盛淳と別れのあいさつを交わした(「井上主膳覚書」)。

「盛淳は中務様(豊久)とは別備えだったので、盛淳のほうがやってきて馬上よりお暇乞いをなされた。中務様が仰せには『今日は味方が弱いので、今日の鑓は付けない』(今日は敗北なので、いまさら鑓の高名は求めないという意か)と互いにお笑いになった」

■義弘に撤退を説得し、自らは戦場へ

敵味方入り乱れての乱戦となったとき、豊久が義弘に進言した(『本藩人物誌』)。

「天運はすでに極まれり。終わりを全うすることはかないますまい。我らがここで戦死するので、公(義弘)は人数を率いて帰国なされませ」

義弘がそれでも承諾しないので、豊久は重ねて声を高くして「御家の存亡は公のご一身にかかっていることをお忘れなく」と念押しして、自らわずかな手勢を率いて、徳川軍に斬り込んだ。その間に義弘主従は辛うじて逃げ切ったのである。

退き口は当然ながら、多くの犠牲を伴った。とりわけ、副将格の豊久と家老の長寿院盛淳の戦死は壮絶だった。その様子は数多くの史料から辿ることができる。

■「退き口」の戦場で起こっていたこと

すでに石田勢も宇喜多勢も背後に敗走した。島津勢だけが戦場で孤高を保っていた。東軍は両勢を追い崩した勢いで、島津の陣中に矛先を向けてきた。陣中には発砲を禁ずる軍令が出ていた。だから、島津勢は一糸乱れず静まりかえっていた。

島津勢の先手は豊久で、その右備えには山田有栄(ありなが)がいる。豊久率いる先手衆は、すでにいつでも突進する支度ができていた。これまで溜めに溜めた反発力を決戦ではなく、戦場離脱に用いらねばならなくなったが、薩摩兵児(へこ)にとっては、そうした思いは些末なことである。

島津勢はあらかじめ鉄砲の事前準備である「前積(まえつみ)」をせず、したがって「繰抜(くりぬき)」という鉄炮戦術も採用せず、ひたすら沈黙を守った。豊久が少ししびれを切らしたのか、「時分よきかな」と言って馬上の人となり、弓を手に持った。当年31歳とまだ若い豊久はだいぶ気負っていた。その様子を見た赤崎丹後が「まだちと早うござる。膝に敵が懸け上がるくらい寄せつけるべきかと」と制した(「黒木左近兵衛申分」)。

■敵も味方も判別できない乱戦模様

敵が眼前に迫った。赤崎が「時分よく御座候」と告げたので、豊久は再び馬上の人となった。島津の軍法は武者鉄炮といい、足軽ではなく武士がみな鉄炮を放つ仕組みである。折り伏しているところへ、敵が間近に近づいたと見るや、筒先を揃えて一斉射した。

敵がバタバタと倒れる。しかし、その屍(しかばね)を乗り越えて敵が湧くように押し寄せてきたため、次弾を放つ暇がない。敵味方入り乱れてしまったので、鉄炮が役に立たなくなり、鉄炮を腰に差す者、また細引(細めの紐)で琵琶を懸けるように首にかける者、また捨てる者もいたりという有様ながら、みな刀を抜いて前方に打って出た(同書)。

最初に押し出したのは、豊久の備えに付属された右備えの山田有栄の一手だった。そのなかでも、真っ先に駆け出したのは長野勘左衛門だった。前夜、夜討ちを唱えた男である。義弘が前年正月、北薩出水を加増されたとき、普請奉行として出水に移った。義弘の危急を知り、同郷の中馬大蔵(ちゅうまんおおくら)とともに出水からはせ参じていた。

勘左衛門は敵中に駆け入ると、さっそく敵の首を取り、その鑓や刀も持ち帰り、川上忠兄に見せて「今日の太刀初め」と豪語した。そしてまた敵中に切り入って討死を遂げた(『新納忠元勲功記』)。

有栄の手記によれば、敵味方とも識別のための合い言葉を使っていたが、敵方の合い言葉が「ざい」で、島津方のそれも「ざい」だったため、乱戦のなかでよく敵味方を間違えたという。同士討ちがあったり、味方と思って安心したところを斬られたりするという場面もあったのだろう(「山田晏斎覚書」)。

■島津勢は敵の大軍のなかでもがき戦った

島津勢は身軽になろうとしたのか、蛭巻(ひるまき)や削掛(けずりかけ)を打ち捨てて押し出した。蛭巻は太刀の柄・鞘や長刀(なぎなた)の柄に細長くて薄い金属板をらせん状に巻きつけたもの。これをはずせば、太刀や長刀はだいぶ軽くなる。削掛は柳の枝などを細く削り、先を花のように折り返した棒で、長さ一尺二寸(約36センチ)以下で、味方の合印に使う。これを二本所持し、一本は後ろの帯に、もう一本は左の脇前に差した(『島津家御旧制軍法巻鈔』下)。

数の少ない島津勢は正面や左右から押し寄せる東軍の大軍のなかに飲み込まれながら、敵味方入り乱れて、もがくように戦った(「黒木左近兵衛申分」)。

「此方軍衆(島津勢)、右も左も敵を刈られ候、猛勢入り乱れ、敵味方分かちもこれなく候」

三、四町(3、400メートル)ほど進むと、敵影が薄くなった。東軍諸勢は西軍首脳である石田三成や宇喜多秀家を追うことに熱中していたのか、島津勢にかまう武将が少なかったのも幸いした。

■豊久を見失い、引き返した山田有栄

有栄は常に豊久の馬標(うまじるし)を見てその位置を確かめながら戦っていたが、一息ついて「中書様(豊久)はどこにおいでか」とまわりに尋ねた。いつの間にか豊久の姿を失ってしまったらしい。家来の荒木嘉右衛門や上田蔵助が「あとからおいでになるでしょう」と答えると、有栄は「どうしたものか」と豊久の安否が気になり、馬首をめぐらそうとした。嘉右衛門と蔵助が馬の手綱に取り付き、黒木左近兵衛や荒木助左衛門も馬の尾房(おぶさ)に取り付いて引き留めた。

「中書様のお馬があとから参られるのを見たのは間違いない。あとへ引き戻り確かめてみたい」

有栄は家来たちが引き留めるのもきかずに引き返した(同書)。

■残された愛馬と大量の血に「戦死疑いなし」

そのときだろうか。有栄は赤崎丹後とめぐり合った。赤崎は先ほど押し出すとき、逸る豊久に忠告した人物。義弘の家来で、岩屋城の戦いや朝鮮陣で勇名をはせた。伏見城攻めでも背中に古莚(ふるむしろ)を指物(さしもの)にして戦った。大垣城で石田三成が陣中見舞いにやってきたとき、義弘が赤崎を「この者は国許で武辺に秀でております」と紹介すると、三成が「随分と働き、討死するがよい」と励ましたという(『本藩人物誌』)。

二人がめぐり合ったのは関ヶ原宿口あたりという。すると、豊久の乗馬とおぼしき馬がやってきた。主人は乗っていない。二人が豊久の愛馬に間違いないと近づくと、鞍つぼに大量の血が残っていた。二人は「さては中務殿(豊久)戦死疑いなし」と直感した。このうえは、かようなものを見ながら、退くのもどうかと申し合わせ、二人で取って返し敵中に切り入った(「雑抄」)。

■豊久はどこで最期を迎えたのか

豊久は関ヶ原盆地から南に抜ける伊勢街道沿いの烏頭(うとう)坂で討死したというのが通説で、同坂の脇には豊久の供養碑も建立されている。また一説によれば、豊久は重傷を負って上石津(かみいしづ)の柏木村あたりで息絶え、近くの瑠璃光寺(るりこうじ)(現・岐阜県大垣市上石津町上多良)に埋葬され、「島津塚」と呼ばれたと伝承されている(『倭文麻環(しずのおだまき)』上)。同寺には豊久のものとされる墓や位牌(いはい)が現存している。

関ヶ原の戦いでの島津豊久奮戦の地(烏頭坂)に立つ島津豊久碑(岐阜県大垣市上石津町)(写真=立花左近/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

しかし、先に見たように、山田有栄と赤崎丹後は関ヶ原宿口あたりで、豊久の乗っていた馬を見つけたという説もある。中世から戦国時代の関ヶ原宿の場所はどこなのか不明だが、江戸時代の中山道の関ヶ原宿は関ヶ原盆地のほぼ真ん中にあり、現在の関ヶ原町の中心部にあたる。このあたりで豊久が討死したならば、伊勢街道をめざすも、烏頭坂よりだいぶ手前で力尽きたことになる。

■家康の家臣が豊久の首だと証言

なお、豊久が関ヶ原盆地で討死を遂げたのが確実なことを示す史料がある。家康に島津氏の取次を命じられた家臣の山口勘兵衛直友という人物がいる。庄内の乱や関ヶ原の合戦後の和睦交渉などで南九州の島津氏領国まで派遣されたこともあり、義久・義弘・忠恒はじめ、主だった一門や重臣と何度も顔を合わせていた。当然、豊久とも顔見知りだった。

直友は元和8年(1622)9月に他界したが、徳川期の編年史料である『大日本史料』12編之48に収録された直友の卒伝(故人の略伝)に興味深いことが書かれている。合戦が終わったあと、東軍諸将が家康の本陣近くに集って首実検の儀式が行われた。そこに集められた西軍将士の首級のなかに豊久のそれとされるものがあったが、ほとんど豊久の顔を知る者がいない。そこで、家康が直友を召し出して確認させた。

「その首に、勘兵衛様(直友)を召させられ、(家康が)見知り候かとお尋ねに成られ候、中務(豊久)首に疑い御座なしと、仰せ上げられ候」

桐野作人『関ヶ原 島津退き口』(ワニブックスPLUS新書)

家康から豊久の首かと確認を求められた直友は「疑いなし」と答えたのである。

このことは豊久の討死した場所が関ヶ原盆地内の戦場だったことを示しており、盆地からだいぶ離れた上石津での死去説を明確に否定している。

豊久の最期の様子はよくわからない。退き口で生き残った者たちの覚書や書上にも豊久の最期をうかがわせる記事はない。主従もろとも討死してしまったからだろうか。

のちの記録によれば、豊久は中村源助・上原貞右衛門・冨山庄太夫・以下13騎で東軍の大軍のなかに駆け入り戦死したという。敵は福島正之(正則の養子)だった。豊久の首級(しるし)を挙げたのは小田原浪人の笠原藤左衛門という(『本藩人物誌』)。

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桐野 作人(きりの・さくじん)
歴史作家
1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、武蔵野大学政治経済研究所客員研究員。歴史関係の出版社編集長を経て独立。戦国・織豊期や幕末維新期を中心に執筆・講演活動を行う。主な著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)『本能寺の変の首謀者はだれか』(吉川弘文館)『真説 関ヶ原合戦』(学研M文庫)、『島津義久』(PHP研究所)、『さつま人国誌 戦国・近世編』1.2.3(南日本新聞社)など。
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(歴史作家 桐野 作人)