第2次世界大戦でドイツ軍は、陸軍大国フランスが築いた大要塞「マジノ線」を難なく無力化した。現代史家の大木毅氏は「戦線中央部のアルデンヌ森林にマジノ線は延びていない。そこを迅速に突破して連合軍を分断、撃破する計画を実行したのが、戦車将軍グデーリアンだった」という――。

※本稿は、大木毅『戦車将軍 グデーリアン』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■ナチス・ドイツのフランス侵攻作戦の骨子

ドイツによるベネルクス三国ならびにフランスへの侵攻作戦、秘匿名称「黄号」の企図は、端的にいえば中央突破にあったといえる。

ハインツ・グデーリアン(写真=SZ Photo/時事通信フォト)

フランスは、1929年以来、膨大な予算をつぎこんで、ドイツとの国境地帯に要塞線を築いてきた。有名な「マジノ線」である。

このドイツ側からみて左翼の正面を攻撃すれば、第1次世界大戦の陣地戦の二の舞いになるのは眼にみえている。

さりとて、右翼を強化して、ベルギー・オランダに開進し、英仏海峡地域に進撃すれば、連合軍の主力と激突し、停止を余儀なくされるのは必至だった。

だが、戦線中央部にあたるアルデンヌ森林には、マジノ線も延びてはいない。そこを迅速に突破して連合軍を分断、各個撃破するというのが、「黄号」作戦の骨子であった。

しかも、連合軍は、ドイツ軍は右翼に重点を置いて攻勢に出てくるだろうと考え、その場合には主力をオランダに進出させるという計画を立てていたから、アルデンヌから英仏海峡沿岸諸港への突進は、彼らの裏をかくことになる。

■「黄号」作戦の命運を握るドイツ装甲部隊

というのは、連合軍がオランダ方面に突出すればするほど、その南側面、あるいは後背部が、西進するドイツ軍によって脅かされることになるからだ。リデル=ハートは、こうして生じた両軍の作戦構想の相互作用を「回転ドア」にたとえている。

連合軍が東に向かえば、ドイツ軍が西に進み、両軍の構成する回転ドアが動くのである。

この「黄号」作戦の成否は、集中された装甲部隊が、アルデンヌの森から英仏海峡沿岸諸港まで、作戦的な次元で独立機動できるかに懸かっている。

第一の関門は、アルデンヌの森を抜けた先、自然の防御陣であるムーズ川の町スダンだった。普仏戦争において、1870年にナポレオン3世が、包囲された麾下の軍とともに降伏したところだ。

■アルデンヌの森を突破し、ベルギー国境へ

1940年5月10日、「黄号」作戦は発動された。ドイツ軍右翼のB軍集団が、オランダ・ベルギー方面で攻撃を開始する。これはオランダ方面に連合軍の注意をひきつけ、主力を誘引するための陽動だった。

とはいえ、B軍集団は、一部の装甲師団、さらには空挺部隊までも投入していたから、連合軍はそくざに反応し、フランス第七軍がオランダに、イギリス遠征軍がベルギーに向かう。

しかし、ドイツ軍の真の主力である三個の自動車化軍団は、アルデンヌの森に展開していた。

北から第15自動車化軍団、第41自動車化軍団、グデーリアンの第19自動車化軍団である。グデーリアンは、麾下軍団右翼に第2装甲師団、中央に第1装甲師団、左翼に第10装甲師団と「大ドイツ」連隊を配置し、進撃を開始する。

5月10日午前5時35分、第1装甲師団の陣頭に立ったグデーリアンは、ルクセンブルクの国境を越え、午後にはベルギー国境に達した。

「諸快速師団〔装甲師団・自動車化歩兵師団〕が、その数千両の車輛とともに、当初、最先頭の線に配置されている歩兵師団のあいだを抜けて、円滑に前進し、さらに補給と後送を実施できるように、地形困難な山岳地帯とムーズ川を越えて、三本の通路が確保された。この『トロッコ軌道』と称された道は、常に、もしくは当分のところは、快速師団だけが使用するものとされたのである」(ネーリング『ドイツ装甲部隊史』)。

■真価を発揮した「委任戦術」

奇襲は成功した。フランス軍は航空捜索により、アルデンヌにドイツ軍の車輛が密集していることを確認していたのだが、B軍集団の攻撃に眩惑された連合軍首脳部は、主攻はオランダと北部ベルギーで、アルデンヌのそれはさしたる脅威ではないと判断したのである。

侵略を受けたベルギーが、この方面に配置したのは、猟兵師団一個と騎兵師団一個を基幹とする弱体な支隊だけだったから、とうていドイツ装甲部隊を拒止できるものではなかった。かくて、アルデンヌの困難な地形で敵を押しとどめるチャンスも、空しく費消されてしまう。

第19自動車化軍団のムーズ渡河攻撃は、ゼークト以来磨きぬかれてきたドイツ軍の用兵思想の優秀性をみせつけるものであった。下級指揮官への大幅な権限委譲をよしとする「委任戦術」が、その真価を発揮したのである。

現場は、攻撃目標を指定されるだけで、どうやるかについては、いっさい掣肘を受けなかった。彼ら自身が、前線の状況から、いちばん良い方法を練り上げ、実行したのだ。

その結果、人員60000、車輛22000を幅10キロの正面に集中した第19自動車化軍団の作戦にあっても、「準備、攻撃、渡河、突破。すべてがまったく時計仕掛けのように進んだ」(当時、第1装甲師団の首席伝令将校だった男爵フライターク・フォン・ローリングホーフェン中佐の回想)。

■大打撃を招いたフランス軍司令官の誤算

一方、ムーズ川の陣地を守っていたフランス軍は、ここでも奇襲を受けた。

従来の常識からすれば、砲兵支援なしの渡河攻撃は自殺行為にひとしい。従って、フランス軍の司令官も、ドイツ軍の攻撃は、後続の砲兵隊が到着するのを待って行われるにちがいないと判断していた。

しかしながら、すでに触れたごとく、グデーリアンは「空飛ぶ砲兵」、すなわち航空機に頼っていたのだ。

ドイツ空軍は、スダン周辺わずか4キロほどの地区に、延べ1215機の爆撃機を投入、間断なく波状攻撃を実施して、フランス軍の指揮系統と、兵士たちの神経を切り裂いてしまったのである。

かくて、第19自動車化軍団はムーズ渡河に成功、橋頭堡を確立した。

けれども、当初、戦車や重火器を対岸に渡すのに使用できるのは、たった1本の臨時架設橋にすぎなかった。空襲によって、これを破壊し、地上部隊の反撃を加えれば、ドイツ軍の好機が一転して窮地に変じるのは必定であろう。

■蜂の巣に飛び込む恰好となった連合軍機

5月14日、連合軍は満を持して、控置しておいた空軍部隊を投入した。だが、ドイツ軍も、そうした可能性を見過ごしていたわけではない。

大規模な空襲があると予想していたグデーリアンは、スダン周辺、とりわけ架設橋付近に、手持ちの高射砲303門を集中配置し、待ち構えていた。ドイツ空軍も、前日の爆撃機に代えて、戦闘機814機を迎撃に差し向けた。

ゆえに蜂の巣に飛び込む恰好となった連合軍機は、目的を達成できぬまま、大損害を被る。出撃した戦闘機250機(延べ数)および爆撃機152機のうち、167機が撃墜されるか、戦闘不能とされたのだ。

■更なる西進に「待った」をかけるヒトラー

スダンの門は破られた。同じころ、北の第15・第41自動車化軍団もムーズ川渡河に成功している。しかしながら、グデーリアンは、きわめて悩ましい状況にあった。

3月15日、A軍集団麾下の軍司令官を集めた会議で、ムーズ川渡河以降はどう行動するつもりかと問われたグデーリアンは、さらに西進すると答えたものであった。

ところが、第19自動車化軍団の上部組織、クライスト装甲集団、A軍集団、OKHは、いずれも、そのような突進には反対であった。歩兵が追いついてきて、橋頭堡を確保・拡大するまで、装甲部隊は足踏みしたまま、そこで待っていろという認識だったのである。

ハルダー陸軍参謀総長は、1940年3月12日付のA軍集団参謀長ゲオルク・フォン・ゾーデンシュテルン中将宛書簡で、ムーズ渡河攻撃に参加した装甲部隊を、そのまま、つぎの作戦に投入することはしないと明言している。

充分な兵力を持った歩兵部隊が活動できるだけの基盤が、ムーズ川の西岸につくられた時点で、どう使うかを考えるというのだ。ヒトラーも、突進する装甲部隊の側面が開いたままになることを恐れ、「ムーズ渡河決行後の措置」は、自らの専権事項にするとしていた。

■戦車将軍、独断専行で西進続行を決める

グデーリアンにとって、それは我慢のならぬ優柔不断でしかない。スダンの防御陣を覆滅し、西方への道が開けた今こそ、第1次世界大戦で突進部隊がやったのと同様、装甲部隊が側背を顧みず進撃し、敵を混乱におとしいれるべきであろう。

そうして無力化された連合軍部隊は、たとえ後方に残っていたとしても脅威にはならぬ。やはり第1次世界大戦末期に、後続の歩兵によって、突進部隊がマヒさせた敵を撃滅したように、掃討していけばよい。

焦慮を深めるグデーリアンのもとに、決断を迫る報告が届く。第1装甲師団が、アルデンヌ運河にかかる橋を無傷で確保したというのである。西方に通じる扉が、よりいっそう大きく開かれたのだ。

予想される連合軍の反撃に備え、命令通りに橋頭堡を固めるか。敵の混乱につけこみ、第19自動車化軍団の総力を挙げて、西へ進むか。

2つに1つの難しい問題に直面し、思い悩むグデーリアンだったが、第1装甲師団作戦参謀のヴェンク少佐が背中を押した。同師団の指揮所を訪れ、西への旋回は可能かと問うたグデーリアンに、少佐は、「ちびちび遣うな、つぎ込め」という、あのスローガンを呟いたのちにうなずいてみせた。

これに力づけられたグデーリアンは、5月14日午後2時、第1および第2装甲師団に、全兵力を以て西へ向かえと下命する。

西方侵攻作戦の決定的瞬間であった。グデーリアンは、ヒトラーや陸軍上層部の意に背いて、独断専行で作戦次元の機動戦を続行すると決めたのである。

■グデーリアンの決断でフランスの運命は定まった

多くの軍事史家は、スダンの敗北と5月14日のグデーリアンによる決断で、フランスの運命は定まったとしている。

大木毅『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』(KADOKAWA)

まさしく、敢えて装甲部隊を突出させ、長駆進撃するとのグデーリアンの決定が、連合軍の敗北を招いたのだ。

今日、グデーリアンの戦略次元における能力に対する批判や疑義は、けっして少なくない。にもかかわらず、彼の作戦次元での能力は卓越していたとの評価はなお盤石である。

かかる称賛も、1940年5月14日に示されたようなグデーリアンの作戦的判断力に鑑みれば、ゆえなきことではない。しかしながら――グデーリアンは、この勝利を完成させることができなかった。

 

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大木 毅(おおき・たけし)
現代史家
1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、著述業。著書に、『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書、2019)、『ドイツ軍事史』(作品社、2016)ほか。訳書にエヴァンズ『第三帝国の歴史』(監修。白水社、2018─)、ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社、2018)、フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳。中央公論新社、2003)ほかがある。
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(現代史家 大木 毅)