「末代の恥」から6年。開星前監督・野々村直通が見た甲子園
阪神甲子園球場の三塁側スタンドに、テンガロンハットを被った強面(こわもて)の男性が座っていた。
「不思議と感慨は何も湧いてこんね」
その男性、野々村直通氏が春のセンバツのために甲子園にやってきたのは6年ぶりだった。隣で妻の喜代子さんが「テレビで『開星高校は6年ぶりの甲子園出場です』って出るたびに、なんだか6年前に思い出すことがあってイヤなのよね」と茶目っ気たっぷりに野々村氏に微笑みかけた。
野々村氏はあらためて聖地のグラウンドを眺めながら、静かにつぶやいた。
「今は自然体で野球が見られる。名将と言われる監督は、こんな感じの冷静さでサインを出しているのかな。ワシもこれくらいの冷静さで試合に入れていれば、甲子園でもうちょい勝てたかな?」
6年前の春のセンバツ──。野々村氏は当時、開星高(島根)の監督としてセンバツにやって来た。巨漢の2年生エース・白根尚貴(現・DeNA)、安打製造機・糸原健斗(現・JX-ENEOS)を擁して前年秋の中国大会で優勝。「全国制覇」を意識して挑んだ大会で、まさかの1回戦負けを喫してしまう。
相手は21世紀枠で出場した向陽(和歌山)だった。
試合後、野々村氏は敗軍の将として報道陣に囲まれた。常々、勝負に対して「生きるか、死ぬか」という覚悟で臨んでいる野々村氏は、悔しさのあまりずっと押し黙ったまま。沈黙に耐えかねた報道陣が、苛立ちながら「なぜ黙っているんですか」と問い詰める。野々村氏はカッとなり、なかば自棄になってこう発言してしまう。
「21世紀枠の学校に負けたのは末代までの恥。腹を切って死にたい」
このコメントはすぐさま日本全土を駆け巡り、野々村氏は「向陽高校に対して失礼だ」と日本中から批判にさらされた。
その後、謝罪会見を開いたものの、その際に着ていた派手な彩色のシャツがまた「不謹慎だ」と槍玉にあがり、野々村氏へのバッシングはさらに過熱する。その結果、野々村氏は監督辞任に追い込まれ、長い謹慎生活を送ることになった。
野々村氏はこの舌禍事件以前から「超」がつく個性派監督として知られていた。いかつい風貌で、ついたあだ名は「やくざ監督」。甲子園の抽選会にはいつもひとりだけ羽織袴を着用して参加していた。
あるとき、明徳義塾の馬淵史郎監督を見つけ、名刺を差し出そうと懐に手を入れたら、馬淵監督から「拳銃でも出すんかと思った」と恐れられたという逸話がある。また、高校野球監督としては異色の美術教師で、「山陰のピカソ」という異名まで持っている。
そんな強烈なキャラクターの野々村氏だったが、教育と野球にかける情熱は凄まじく、多くの教え子、指導者、メディア、高校野球ファンから愛されてきた。そして、野々村氏は日頃からこんなことも言っていた。
「試合に負けたら誰にも会いたくないし、死んでしまいたくなる」
このように勝負にかける決死の思いが募るあまり、2010年のセンバツではそれが悪い方向に出てしまった。
謹慎中の野々村氏を支えたのは妻の喜代子さんをはじめ、家族たちだった。喜代子さんが当時について、「時間ができて、いろんなところに旅行ができました。人に気づかれることも多かったけれど、芸能人のお忍び旅行みたいで楽しかったですよ」と言ってのけるような胆の据わった女性だったことも、野々村氏を救ったに違いない。
だが、内心は不安に思うこともあったのだろう。当時、喜代子さんはこんな願掛けをしていたという。
「洗濯物を干すときに、この人の下着をいつも白いハンガーにかけて干していました。(敗戦や危険を想起させる)黒や黄色のハンガーにはかけないようにしていたんです」
そして、喜代子さんは続けて「でも、そのときこの人自身が干されていたんですけどね」とオチをつけて笑った。
その後、開星高の野球部保護者が中心となって、野々村氏の監督復帰嘆願署名運動が起こり、約8000名分の署名が集まった。そのなかには向陽高の保護者の署名も入っていたという。そして事件から1年後の2011年に監督復帰すると、同年夏の甲子園で1勝を挙げる。さらに、この大会で優勝することになる日大三を相手に、8対11と善戦した。
同年限りで開星高校を定年退職したため、結果的にこの夏の甲子園が野々村氏の「花道」となった。ちなみに、野々村氏は夏の甲子園が終わった後の9月に鼠径ヘルニア(脱腸)の手術を受け、期せずして「腹を切った」ことはあまり知られていない。
現在は教育評論家として講演活動をするかたわら、松江市に「にがお絵&ギャラリー ののむら」をオープンさせ、観光客や訪れた野球関係者に似顔絵を描いて過ごしている。野々村氏の似顔絵の腕前は、島根県警に対して長年、似顔絵講師をしていたほどだ。
「この前は『おばあちゃんの白寿(99歳)のお祝いに』という依頼があって、写真をもらって似顔絵を描きましたよ。元気になってほしいと思って描いたら、すごく喜んでもらえてうれしかったなぁ......。ワシがやっていることは『芸術家』なんて大それたものじゃない。似顔絵を描いて人に喜んでもらえたら、それで十分ですよ」
ギャラリーをオープンしたため、開星野球部の練習や試合を見に行くことはだいぶ減ったという。
「もう部外者だし、選手たちは元気よく挨拶してくれるけど、ワシは何もしていませんよ。山内(弘和監督/野々村氏の教え子でもある)がよく指導していますよ。昨年の秋もそうだったけど、接戦で勝てるチームをつくっています」
そして野々村氏は自虐的に「ワシにはできなかったことだわ」と言って、顔をほころばせた。
新生・開星の6年ぶりのセンバツは、初戦で東北の強豪・八戸学院光星(青森)と対戦した。序盤から3点を失う苦しい展開も、3回表に重量打線が2点を奪い返し、場内を大いに盛り上げた。だが、その後は小さなミスが重なり、打線も好投手・櫻井一樹の前に沈黙。結局2対6で敗戦した。
長年にわたって野々村氏をサポートした村本克部長は試合後、「ウチは失点をとどめて接戦に持ち込めないと勝てない」と悔しさを滲ませながら、それでも「ウチのチームはこれで終わりじゃない。上には上がいるということを知って、夏に挽回します」と前を向いた。
今も開星に残る「野々村イズム」は何でしょうか? そう訊くと、村本部長はこう答えた。
「開会式の入場行進を見てくれた人なら、それが伝わったと思うんです(開星ナインは雄々しく両手両足をそろえて行進し、場内からの喝采を浴びていた)。野球は技術ももちろん大事ですが、その前に取り組む姿勢や学校生活が大事。そうした野々村先生が築いた礎は、これからも踏襲していきます」
開星の主将で遊撃手を務める門脇諒は、小学校2年生から開星野球部に憧れ続けてきたという。
「野々村先生は"ザ・開星"という人。そして、開星野球部をつくってくださった人です。野球に対しての情熱や、人としてあるべき姿を教わってきました。これからも自分たちは魂でプレーしていきます」
超個性派監督がつくりあげた"魂"は、これからも......ひょっとしたら末代まで、開星野球部に伝承されていくのかもしれない。
菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
