1997年に初めて日本人選手と契約してから、何度も期待外れを経験しているにもかかわらず、メッツはまだあきらめていないというコラムを12月21日付でニューヨーク・タイムズが掲載した。

 メッツはメジャー球団中、初めて日本人投手ふたりをローテーションに入れ、初めて日本人野手と契約し、最年長日本人投手がデビューし、その上、禁止薬物規定に反したとして日本人選手が初めて出場停止になっている。

 出場停止処分を受けた入来祐作は当時マイナー所属で、メジャーに昇格することはなかった。これまでメッツには9人の日本人メジャーリーガーがいたが、その中にはマック鈴木は含まれていない。鈴木は1999年に2日間だけユニフォームを着たが、一度も登板しなかった。

 吉井理人と新庄剛志はそこそこの成績を残したが、それ以外の選手はすべて失敗に終わった。1997年に当時監督だったバレンタイン氏が読売ジャイアンツのファームから引っ張ってきた谷口功一は、春季キャンプに参加しただけで終わった。

 柏田貴史はメッツの登録選手25人枠に入った初めての日本人だったが、1997年シーズンに35試合に登板しただけだった。

 同じ年、メッツはドラフト外の高校生、後松重栄を獲得。アマチュアで初めてアメリカの球団と契約した選手だったが、交通事故で背中を痛め、アメリカ球界に復帰することはなかった。

 2001年、新庄とイチローが初の日本人野手としてメジャーと契約。イチローは成功したが、打者としての新庄はあまりぱっとしなかった。それでもバレンタイン監督のもとでしばしば4番を任され、56打点はチーム4位、10本塁打もチーム4位だった。

 強肩で知られていたが、一番の思い出は、スティーヴ・トラクセルの1安打完封試合で、最後の外野フライを獲った新庄がその記念ボールを客席にプレゼントしてしまったことだ。

 メッツはその後も日本人選手を獲得し続けた。2002年の小宮山悟はすでにピークを過ぎていたうえ、当時のGMが彼をベテランのリリーフ投手と勘違いしていた。

 石井一久、高津臣吾、高橋建とあまり印象に残らない投手が続いた。だが、もっとも期待外れだったのは松井稼頭央だ。初めての日本人内野手で、日本では8シーズン連続試合出場を記録していたが、メッツでは最初の春季キャンプで指を負傷した。

 その後、松井は2007年のワールドシリーズに進出したコロラド・ロッキーズで、2塁手として.288の打率を残した。メッツではプレッシャーに押しつぶされ、自信を失ってしまった。

 日本人選手9人の大半が期待外れだったが、メッツはまだあきらめていない。2010年は五十嵐亮太に8回を任せるつもりだ。