【豊臣兄弟!】豊臣時代の城が“真空パック” 「天空の城」は雲海上に眺めるより歩いたほうがスゴイ
生野銀山を押さえる要衝だった
「風雲!竹田城」というサブタイトルに、往年のバラエティ番組『風雲!たけし城』を連想した人は多いのではないか。たけし城は野外スタジオにそびえ立つ城だったが、竹田城(兵庫県朝来市)は標高353メートルの山上に、いまも石垣が累々とそびえ立っている。近年は、雲海の上に石垣が浮かぶ「天空の城」として有名になり、「東洋のマチュピチュ」の異名もある。
【写真】そうは言ってもスゴイはスゴイ 雲海に浮かぶ「竹田城」&歩いて注目したいポイント
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第21回(5月31日放送)は、この竹田城が舞台になるようだ。秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)の兄弟は、織田信長(小栗旬)から毛利輝元(濱正悟)の勢力圏である中国地方への進攻を命ぜられ、まず播磨(兵庫県南西部)と但馬(同北部)を攻めることになる。太田牛一の『信長公記』には、次のように書かれている。

〈十月二十三日、羽柴秀吉は、毛利輝元の勢力下にある播磨へ出陣した。播磨国中を夜を日についで駆け廻り、在地の諸将からことごとく人質を提出させた。(中略)しかし、秀吉はこれだけでは格別の働きでもないと思い、播磨から直接、但馬の国へ攻め入り、まず、山口岩洲の城を攻略し、余勢をかって太田垣輝延が立て籠る竹田を攻め、これまた退散させた。そうしてここに砦を築かせ、羽柴秀長を城代として配備した〉(中川太古訳)
これは天正5年(1577)のできごとで、竹田城は但馬の守護代だった太田垣氏の居城だった。秀長は秀吉とは別軍を率いて但馬に侵攻し、まず岩洲城を1日で攻め落としてから竹田城を攻略。攻め落として竹田城代になったのである。この城は直線距離で南に15キロほどの生野銀山を押さえるためにも、重要な拠点だった。
もっとも、しばらくすると太田垣輝延が竹田城に戻っているが、天正8年(1580)1月、ふたたび秀長の前に開城。そのまま但馬一国が秀長のもとで平定され、それからしばらくは秀長が、但馬統治の拠点として竹田城代(事実上の城主)をつとめている。
豊臣時代の城の真空パック
天正10年(1582)の本能寺の変を経て、その翌年、柴田勝家を討った秀吉が本拠地を姫路城(兵庫県姫路市)から大坂城(大阪市中央区)に移すと、秀長が姫路城に入って、竹田城は配下の桑山重晴にまかされた。その2年後、秀長が大和郡山城(奈良県大和郡山市)を拠点にすると、桑山は和歌山城に移り、赤松広秀が竹田城主になった。
現在、山上には南北約400メートル、東西約100メートルにわたって、壮大な石垣が残されているが、この状態に整備したのは、秀長でなくて赤松広秀だった。秀長が城代だったころは、それなりに石垣が積まれていたにせよ、もっと荒々しい積み方で、現況より簡素だったと思われる。
一方、いま山上に残る竹田城は、当時としてはかなり高度な技術で築かれた総石垣の城だが、なぜ赤松広秀がそういう城を築けたのか。広秀は2万2000石の大名にすぎず、自分だけの力でこれほどの城を築けたはずがない。この城はたんに一大名の居城にはとどまらなかった。豊臣政権として、生野銀山を押さえるとともに、大坂城を守るための城で、すなわち秀吉の意向があったから、立派な城が築かれたのである。
そして、豊臣政権下で築かれた状態がそのままいまに伝えられている。というのも、赤松広秀は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に属し、その後、東軍に協力したものの、鳥取城を攻めた際に、城下町に大火を招いてしまった。徳川家康はこの責任を問うて広秀に切腹を命じ、その後、竹田城は廃城になってしまった。
廃城になった城は、破城といって破壊の対象になることが多い。竹田城も徳川幕府によって建物は取り壊されたが、石垣の破城は免れ、地震などの被害にも遭わなかったので、豊臣時代の壮大な石垣が、現在まで良好な状態で残っている。秀長が直接手がけた遺構は、あまりないとしても、豊臣時代の城が真空パックのような状態でいまに伝えられているという点で、きわめて貴重な城である。
天守のほか20もの櫓が建ち並んだ
山頂まではいくつかのルートがある。券売所をとおると最初に出迎えるのが、東北方面の尾根に築かれた最北端の曲輪(城内に造成した平坦地のこと)「北千畳」で、その東側の一段下には大手虎口(虎口は城の出入口のこと)がある。まっすぐ進めない食違い虎口で、その一角に大手道を見下ろす見附櫓が建つなど、相当厳重に警備されている。
北千畳から一段登ると「三の丸」、さらに一段登ると「二の丸」で、どの曲輪も完全に石垣造りで、石垣はあちこちに折れがもうけられ、横矢を掛けられる(側面攻撃できる)ようになっている。
二の丸から食違い虎口を通り抜けて一段登ると「本丸」で、平面は東西12.7メートル、南北10.6メートル、高さ10.6メートルの天守台がそびえる。関ヶ原合戦以前の山城の天守台としてはかなり高く、おそらく三重の天守が建っていた。また、本丸の周囲は細長い帯曲輪がめぐり、結局、本丸は二重の総石垣で囲まれている。かなり堅固で、同時に連なりそびえる石垣が壮観だ。
本丸、とくに天守台の上からは、三方向の尾根に展開する曲輪が一望のもとだ。多くの山城は、木々が邪魔して城域全体を見渡すことができない。だが、竹田城は山上の木々がかなり伐採されるなど整備が行き届いているので、城の全体を俯瞰し、その構造を把握することができる。
もちろん、どの城も現役だったころは、山上に樹木は最低限しか生えていなかった。それどころか建物が所狭しと、ひしめくように建っていたのである。竹田城の場合は、天守のほか、櫓だけで20程度も建ち並んでいたと推定されている。
人気に比例して整備される好循環
本丸から西の方向の尾根には「花屋敷」という曲輪があって、そこには石塀の跡が残っている。また、南の「南千畳」の方向を眺めると、石垣が段をなし、その塁が複雑に折り曲げられていて、圧巻の光景だ。実際、南千畳のほうに歩いていくと、虎口がかなり厳重で、曲輪と曲輪のあいだに高低差があり、そのうえ通路が折り曲げられているので、進行は頻繁に妨げられる。
そして、先端部に南千畳という広い曲輪がある。北千畳も同様だが、「千畳」とはいわゆる「千畳敷」のことで、御殿や居館など、それなりに広大な建物があったと考えられる。
また、非常に凝っていると思うのは、3つの尾根の先端部の曲輪、つまり北千畳と花屋敷と南千畳が、いずれも標高331メートルでそろえられていることだ。いずれの曲輪も、もとの地形を活かしながら非常に計画的に配置されていたことがわかる。さすがは豊臣政権の肝いりで築かれただけのことはある。
石垣は自然石と粗く割った石を、基本的に横長方向に積んで、築石と築石のあいだに間詰石をはさんだ積み方で、秀長の時代の積み方よりは進化したものだ。文禄(1592〜96)のころの石垣の特徴がよく出ている。
竹田城は交通の便がいいとはいいがたい場所にあるが、訪れる人は多い。そして、人気に比例して整備が進む、というよい循環も生まれている。標高353メートルの高所に築かれながら、ここまでしっかり整備されている城は全国にもあまりない。
秀長時代の遺構自体は少ないにしても、豊臣兄弟の夢には、山上でどっぷり浸かることができる。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
