小柄なフィアットからタフなランドローバーまで 米国の廃車置き場で見つけた欧州車 62選(2)【ジャンクヤード探訪記】
フィアット600
1958年、フィアットはリアエンジン搭載の600を米国へ輸出し始めた。1年前に米国市場に導入した500よりわずかに大きく、633ccの水冷エンジンを搭載し、最高速度は100km/hに達した。その優れた燃費性能が評価され、予想外に好調な売れ行きを見せた。
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しかし、他の地域ではさらによく売れた。世界6か国で生産が行われ、1985年に旧ユーゴスラビアで最後の1台が生産ラインを降りるまでに、492万1626台という驚異的な販売台数を記録した。アーネスト・オート・レッキングで見つけた車両だ。

フィアット600
MG MGB
マツダ・ミアータ(日本名:マツダ・ロードスター)が登場するまで、MGBは史上最も売れたスポーツカーだった。1962年から1980年の間に約50万台が生産され、その半数以上が米国へ輸出された。現存率は驚くほど高く、今も多くの車両がジャンクヤードなどで眠っているため、部品に事欠くことはない。
この個体の3本ワイパーに注目してほしい。これは1960年代後半以降、米国市場における規制要件だった。一方、生産地の英国では、引き続き2本ワイパーのままだった。アーネスト・オート・レッキングからの紹介。

MG MGB
メルクールXR4Ti
1985年〜1989年にかけて、ドイツ製フォード車は『メルクール』というブランドとして米国で販売されていた。ラインナップされたのは、XR4Ti(フォード・シエラ XR4iを若干改良したもの)とスコーピオ(フォード・グラナダ)の2車種のみ。
30年前のエドセルと同様、メルクールも失敗に終わり、XR4Tiはわずか2万6000台、スコーピオは2万2000台しか売れなかった。この個体は、サウスダコタ州ミッチェルのダコタ・サルベージ(Dakota Salvage)で見つけたものだ。

メルクールXR4TI
ジャガーXJシリーズ2
リアのナンバープレートライトから判断すると、このジャガーXJ6はシリーズ2のようだ。1972年から1977年にかけて生産されたシリーズ2は、フロントエンドのデザインに違いがあり、バンパーが高く、グリルが小さくなっている。これは米国の衝突安全基準に適合させるためのもので、米国が最大の輸出市場であったことを考えれば、不可欠な変更だった。
シリーズ2の総販売台数は9万1227台。この写真で際立っているのは、このモデルのユニークな特徴の1つであるツイン燃料タンクだ。これもダコタ・サルベージの車両である。

ジャガーXJシリーズ2
ボルボ・アマゾン
ボルボ・アマゾンは1956年から1970年に生産されたが、米国での発売は1959年まで待たなければならなかった。用意された3つのボディスタイルのうち、最も希少なのは、特徴的な2ピースのテールゲートを備えたステーションワゴンだ。同車の総販売台数66万7791台のうち、ステーションワゴンは7万3220台にとどまる。アマゾンの約60%は輸出され、かなりの割合が米国に流入した。
この1台は状態が極めて良く、4本のタイヤすべてにまだ空気が入っている。これもダコタ・サルベージの車両だ。

ボルボ・アマゾン
ナッシュ・メトロポリタン
アイダホ州のジムズ・ヴィンテージ・オートモーティブ(Jim’s Vintage Automotive)は、ナッシュ・メトロポリタンの代名詞とも言える存在だ。訪問中、筆者はさまざまなメトロポリタンを数台目にした。
ちなみに、ニューヨーク市警(NYPD)は右ハンドル仕様のメトロポリタンを数台保有していた。駐車違反取締官たちは駐車中の車列を通り過ぎながら、長い柄のチョークでタイヤに印をつけ、後で戻ってきてタイヤが動いていないか確認していたのだ。

ナッシュ・メトロポリタン
テムズ・フレイター800
筆者は30年以上にわたり米国のジャンクヤードを探索してきたが、これまでに発見したフォード・テムズのバンはこの1台だけだ。1957年から1965年に英国で生産され、パネルバン、ピックアップトラック、ミニバスのバリエーションがあった。販売は好調で、テムズ800や輸出モデルであるテムズ・フレイターを含め、英国エセックス州ダゲナム(ロンドンのすぐ東)にあるフォード工場から18万7000台が出荷された。
このジャンクヤードの事業者であるジム・ハインズさんによると、この1台(手作りの木製バンパー付き)は現役時代にはアイダホ州で活躍していたという。取材時点ですでに英国のコレクターの関心を引いており、ジムさんは取引が成立間近だと確信していた。テムズは、フォードが展開したブランドの中でも特に知名度の低いブランドの1つで、1939年から1965年まで英国で事業を展開していた。アイダホ州のジムズ・ヴィンテージ・オートモーティブで見つけた車両だ。

テムズ・フレイター800
MG MGB
米国のジャンクヤードに、かなり多くの1970年代製MGBが残っていることには、いつも驚かされる。とはいえ、通常はこの個体よりも少し状態が良いものだ。この個体の唯一の救いは、あの恐ろしいゴム製バンパーが外されていることくらいだろう。米国はMGにとって最大の市場であり、1962年から1980年の間に生産された51万2243台のMGBのうち、約29万8052台が大西洋を渡った。こちらもアイダホ州のジムズ・ヴィンテージ・オートモーティブの車両である。

MG MGB
オースチン・カンブリアン
とても希少だが、人気は低い英国からの輸入車。オースチンA55ケンブリッジだが、プリムスがすでに『ケンブリッジ』の名称を使用していたため、米国では『カンブリアン』として販売された。この個体は火災による損傷があるだけでなく、リアドアに見られるように銃撃を受けた跡もある。実際、この状態から部品取りで売り上げを得られることはまずないだろう。
英国では、オースチン・ケンブリッジと、MG、モーリス、ライリー、ウーズレーのバッジエンジニアリング車は、1970年代から1980年代にかけて「バンガー・レーサー」(欧州版デモリション・ダービー)の定番車種だった。オーバルトラック上で、何万台もの車両が破壊された。こちらもアイダホ州のジムズ・ヴィンテージ・オートモーティブの車両だ。

オースチン・カンブリアン
ランドローバー・ディスカバリー
ボンネット、ルーフ、サイドの擦り傷から判断すると、この歪んだランドローバー・ディスカバリーは明らかに横転したようだ。一体どうやって、ルーフバーは外れずに済んだのだろうか?
この個体は改良後のディスカバリー・シリーズ2で、大型のヘッドランプで容易に識別できる。2002年から2004年の間に生産されたもので、このヤードで見かけたクルマの中では間違いなく最も新しいものだ。アイダホ州のジムズ・ヴィンテージ・オートモーティブで見つけた車両だ。

ランドローバー・ディスカバリー
オペル・マンタ
1970年代、フォードとゼネラルモーターズの両社は、欧州子会社が生産したクルマを輸入していた。フォードがマーキュリーの販売店を通じてカプリを販売していた一方で、ゼネラルモーターズはこのようなドイツ製の初代オペル・マンタを輸入し、ビュイックの販売店を通じて販売していた。
当初は売れ行きが良かったものの、為替レートの変動とそれに伴う目もくらむような価格高騰により、1970年代半ばには販売が打ち切られた。その代わりにGMは日本で生産されたいすゞ車の輸入を開始し、米国でのオペルの販売を打ち切った。初期のマンタは欧州で絶大な人気を誇っているため、もっと多くの車両が欧州に帰らないのが不思議だ。この個体は、アリゾナ州サッチャーのバレー・オート・レッキング(Valley Auto Wrecking)で見つけた。

オペル・マンタ
ユーゴ(1988年)
ユーゴは欧州でも珍しいが、米国ではさらに希少だ。旧ユーゴスラビアのザスタバ・モーターズが生産したこのクルマは、信じられないことに1985年から1992年の間に米国で14万台も販売された。しかし、信頼性は極めて低く、1990年代末までにはその大部分がスクラップにされていた。
なぜ修復したいと思う人がいるのかはよくわからないが、もしその気があるなら、アリゾナ州のデザート・バレー・オート・パーツでは2台の中から選べる。ちなみに、この1988年式の個体は取材時点で1200ドル(約19万円)で販売されていた。

ユーゴ(1988年)
トライアンフTR7(1975年)
伝説的なイタリア人自動車デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロ氏がトライアンフTR7を初めて目にした時、じっくりと観察し、少し間を置いてから反対側へ回り、「なんてことだ!こっち側も同じことをやってしまったのか」と叫んだという逸話がある。
このウェッジシェイプのスタイリングは確かに万人受けするものではなく、親会社であるブリティッシュ・レイランドが期待したほどの成功を収めることはなかった。1975年から1981年の間に約11万5000台が生産され、米国が最大の市場となった。この部品取り車は1975年に生産された個体で、生産地である英国で発売される1年前のことだ。デザート・バレー・オート・パーツで見つけた車両だ。

トライアンフTR7(1975年)
フィアットX1/9(1975年)
トライアンフTR7に似たスタイルを持つ、イタリア製ミドシップのフィアットX1/9は、主に輸出向けとして設計された。実際、1972年から1989年の間に生産された16万台のうち、およそ3分の2が米国に輸出されている。この個体は、米国での販売が開始されて2年目にあたる1975年に生産されたもので、950ドル(約15万円)という破格の値段で手に入れることができる。デザート・バレー・オート・パーツにある車両だ。

フィアットX1/9(1975年)
ヒルマン・ミンクス
米国風のスタイリングを採用した英国製ヒルマン・ミンクスは、比較的よく売れ、1958年だけで1万9000台が輸入された。実際、米国メーカーが独自のコンパクトカーを投入するまで、小型ファミリーカーとして人気だった。
しかし、今ではほぼ姿を消しており、この2台は極めて珍しい光景だ。どちらも火災による損傷を受けており、価値はほとんどないだろう。これらもデザート・バレー・オート・パーツにある。

ヒルマン・ミンクス
フォード・カプリ(1971年)
オペル・マンタの直接のライバルだったのが、英国設計でドイツ生産のカプリであり、1970年に初めて米国に上陸した。リンカーン・マーキュリーのディーラーを通じて販売されたため、欧州向けとは異なり、フォードのエンブレムは付いていなかった。かなりのヒットを飛ばし、ある年にはフォルクスワーゲン・ビートルに次ぐ、輸入車販売台数第2位を記録している。こちらもデザート・バレー・オート・パーツで見つけた車両だ。

フォード・カプリ(1971年)
フォード・カプリII(1977年)
フォード・カプリMkII(米国では単にカプリIIと呼ばれた)も、再びリンカーン・マーキュリーの販売店を通じて販売された。先代モデルと同様、欧州仕様と非常によく似ていたが、最も大きな違いは4灯式のシールドビームヘッドランプ、グリルに組み込まれたターンシグナル、そして大型バンパーである。
1976年から1978年の間に、このスポーティなハッチバックは5万6000台以上販売された。この車両もデザート・バレー・オート・パーツにある。

フォード・カプリII(1977年)
(翻訳者注釈:この記事は「3」へ続きます。)
