お聴きいただいてお分かりになった方は、かなり古くからのファンだと思うのですが、実は今作では新録でございます。歌もオケもオリジナルとは違うんですね。今回の『STANDARD〜THE BALLAD BEST〜』には、そういう曲が何曲かあります。『I LOVE YOU,OK』には「キャロル」という曲もありまして、ご自分のキャロル時代のことを歌っているんですが、「キャロル」も歌い直されています。1975年に彼がソロデビューしたときは25歳。当時の曲が今、70歳の歌になって収録されています。この『STANDARD〜THE BALLAD BEST〜』や『ALL TIME BEST ALBUM』の時も気付いたのですが、全曲の解説には何年にリリースしたかだけではなく、何歳の時の曲かということまで書いてあるんです。そうやってこのアルバムを聴くと、また違った聴き方ができるかと思います。続いて、1976年6月に発売になった2枚目のアルバム『A Day』から「親友」。でもこのバージョンは、49歳の時の歌です。

親友/矢沢永吉

1976年6月に発売になった2枚目のアルバム『A Day』から「親友」。矢沢さんが26歳の時のアルバムですね。今お聴きいただいたのは、1976年のオリジナルバージョンではなくて、1998年のアルバム『SUBWAY EXPRESS』というセルフ・カバーアルバムのバージョンで、当時は49歳。親友というテーマですから、友情ソングです。矢沢さんはああいう生き方をされてきた人ですから、男同士の友情をテーマにしている曲も何曲かあり、その中のスタンダードがこれですね。でも26歳で感じる友情や親友と、49歳で感じる親友や人間関係だと、想いの込め方も違いますよね。ご興味のある方はオリジナルの方もお聴きいただければ、20代にとっての友情と言うのも感じられるかもしれません。

今回改めて特集を組むにあたって、『ALL TIME BEST ALBUM』や『STANDARD〜THE BALLAD BEST〜』を聴いていて気付いたことがあって。矢沢さんはとても年齢に拘られてきたんだなあと思いました。去年リリースのアルバム『いつか、その日が来る日まで...』は9月4日発売で、矢沢さんはまだ69歳。チャートが発表されるときには70歳になるわけです。そうなると、70歳の1位という風に世の中に伝わる。69歳の曲を収録して、それが世の中には70歳最初のアルバムとして史上最年長1位というところまで、細かく考えていたんじゃないか? ということが新たな発見でした。来週からはこれまでの45年間を振り返っていこうと思うのですが、そのときにも当時何歳だったか付け加えながら進めていこうと思います。次の曲はご存知の方が多いでしょう。『STANDARD〜THE BALLAD BEST〜』からディスク1の5曲目「燃えるサンセット」。これも49歳の時の歌です。

燃えるサンセット / 矢沢永吉

1977年に発売になった3枚目のアルバム『ドアを開けろ』の中の「燃えるサンセット」。『ドアを開けろ』は時代を変えた一枚という意味で、史上最も劇的だったロックアルバム。アルバムについては来週詳しく話しましょう。その中に入っていた「燃えるサンセット」は矢沢さんの代表曲の一つですが、これは先ほどの「親友」と同じく『SUBWAY EXPRESS』で歌い直された曲です。オリジナルはもっと前のめりなんですね。前のめりな「燃えるサンセット」なんですが、このバージョンは染み込むような歌で表現しておりますね。これが27歳と49歳の違いなんだろうなと思ったりもします。

棕櫚の影に / 矢沢永吉

続いても『STANDARD〜THE BALLAD BEST〜』から「棕櫚の影に」。こちらは1984年のアルバム『E』に入っておりました。雑誌ローリングストーンの今月号は矢沢さんの巻頭特集なんですが、アルバムのインタビューが載っておりまして。その中で「棕櫚の影に」についてかなり話されてます。「若い頃は、寝ても覚めてもメロディーが浮かんできた。お酒を飲みながらでも曲を作って、それをカセットに入れていて、そういう宝物のようなカセットがいっぱいある。10年くらい経ってからそのカセットを聴いたときに、良いと思った曲があって完成させたのが「棕櫚の影に」だった」、と言っているんですね。曲を書いたのは1970年代半ばだったそうです。矢沢さんの活動は1970年代と1980年代でガラッと変わったところがありまして、1980年代に入ってアメリカに拠点を移すんですね。その中で色々なミュージシャンと出会って、プロデュースも依頼している。その中の1人にアンドリュー・ゴールドという全米でヒット曲もある西海岸を代表するシンガー・ソングライターがいるんですが、その人と初めて矢沢さんがあったのがこのアルバム『E』の時なんですね。彼の家に行って音源を聞かせて、彼が音を付けてくれた。彼が打ち込みの16ビートを選んで音を作っているのを見て、矢沢さんはとても幸せだったという話をしていました。つまり裸一貫で音楽を始めて、日本で頂点を極めてアメリカに行って色々なことを勉強する中で、そのリズムやサウンド、そしてメロディが生まれたという代表的な一曲、矢沢さんにとっても思い入れがある一曲でした。