「ちょっと来てほしいの」深夜、78歳母から震える声の電話。急行した長男が台所で見た〈予想外の光景〉
高齢の親が一人で暮らしている場合、子どもが異変に気づくきっかけは、必ずしも大きな事故や病気とは限りません。「少し不安」「なんとなく様子が違う」といった小さな違和感の積み重ねが、生活の限界を知らせることもあります。親が「大丈夫」と言っていても、実際の暮らしは見えにくいものです。
「ちょっと来てほしいの」…深夜の電話に急行した長男
健一さん(仮名・52歳)の携帯が鳴ったのは、午後11時を過ぎたころでした。
画面には、母・節子さん(仮名・78歳)の名前が表示されています。父を亡くしてから、節子さんは一人暮らしを続けていました。日中に電話が来ることはあっても、夜遅くにかかってくることはほとんどありません。
「どうしたの?」
健一さんが出ると、母は小さな声で言いました。
「ちょっと来てほしいの」
「具合悪いの? 救急車呼ぶ?」
「違うの。大丈夫。でも、来てほしい」
要領を得ない返事に不安を覚え、健一さんは車で母の家へ向かいました。玄関の鍵は開いていました。居間の電気はついているのに、母の姿がありません。
「母さん?」
声をかけると、台所から返事がありました。
そこにいた節子さんは、冬用の上着を着たまま、流しの前に立っていました。足元には鍋、保存容器、調味料が散らばり、コンロには火の消えた鍋が置かれています。鍋の中では、味噌汁のようなものが焦げついていました。
「何してるんだよ、こんな時間に」
健一さんが言うと、節子さんは困ったように笑いました。
「夕飯を作ろうと思ったの。でも、何を作っていたのか分からなくなって」
冷蔵庫を開けると、同じ豆腐が4丁、卵が3パック、期限切れの総菜がいくつも入っていました。テーブルの上には、スーパーのレシートが何枚も置かれています。同じものを何度も買っていたようでした。
健一さんは、その光景を見て言葉を失いました。
最近、母は電話で同じ話を繰り返すことがありました。しかし、年相応の物忘れだと思っていました。通院も一人で行っており、「まだまだ元気」と本人も言っていたのです。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』では、65歳以上の一人暮らしの人は増加しており、令和7年時点で65歳以上人口に占める一人暮らしの割合は男性18.3%、女性25.4%と推計されています。高齢の親が一人で生活を続ける家庭は、決して珍しくありません。
一方で、厚生労働省などが公表している認知症及び軽度認知障害(MCI)の将来推計では、令和4年時点で認知症高齢者数は443.2万人、MCI高齢者数は558.5万人とされています。もの忘れがあるからといって、すぐに認知症と決めつけることはできません。それでも、生活の中に異変が出始めたときは、見守りや受診を考える重要なサインになります。
「大丈夫」を信じすぎない…一人暮らしを続けるための準備
翌日、健一さんは母と一緒に台所を片づけました。焦げついた鍋を洗い、期限切れの食品を処分し、冷蔵庫の中身を紙に書き出しました。
「昨日のこと、覚えてる?」
健一さんが聞くと、節子さんは少し考え込んでから答えました。
「覚えてるけど…、どうしてあんなに慌てたのかは分からない」
病院で相談すると、医師からは「加齢による物忘れだけでなく、認知機能の変化も含めて様子を見た方がよい」と説明されました。すぐに施設入居が必要という状態ではありませんでしたが、火の管理や買い物には注意が必要だと言われました。
介護保険サービスを利用するには、市区町村に要介護認定の申請をし、心身の状態に応じて要支援・要介護の認定を受ける流れになります。厚生労働省の介護保険制度の説明でも、要介護認定は市区町村が介護認定審査会の判定結果に基づいて行うとされています。
健一さんは、地域包括支援センターにも相談しました。母には配食サービスを利用してもらい、ガスコンロは安全機能付きのものへ交換。週に数回、ヘルパーに入ってもらうことも検討しました。
最初、節子さんは嫌がりました。
「まだ一人でできるわよ。そんな大げさにしないで」
健一さんも、母の気持ちは分かりました。これまで家族を支えてきた母にとって、「助けが必要」と認めることは簡単ではありません。
それでも、あの夜の台所の光景を思い出すと、見過ごすことはできませんでした。
「母さんを責めたいわけじゃない。できるだけ長く家で暮らせるように、先に準備したいんだよ」
高齢の親の一人暮らしでは、「本人の希望」と「安全」の間で家族が悩む場面が少なくありません。すぐに同居や施設入居を決める必要はなくても、火の扱い、服薬、食事、買い物、金銭管理など、生活のどこに不安が出ているのかを確認することは大切です。
夜中の一本の電話は、健一さんにとって、母の暮らしを見直すきっかけになりました。
親が「大丈夫」と言ううちは、子どもも安心したくなります。しかし、生活の異変は、冷蔵庫の中、台所、郵便物、同じ買い物の繰り返しといった場所に表れることがあります。
親の自立を尊重しながら、必要な支援につなげる。その線引きは簡単ではありません。だからこそ、異変が大きな事故になる前に、家族が一緒に確認する時間を持つことが大切なのかもしれません。
