88歳・林家木久扇が語る東京大空襲「腸閉塞も2回のガンもあのときの恐怖に比べたら何でもない。わたしがどんな困難にも負けないのは、空襲を経験しているから」
最古参・最年長として55年間レギュラー出演した番組『笑点』を、2024年3月に卒業した落語家・林家木久扇さん。怪我や大病を乗り越え、88歳の今も現役で高座に上がり、仕事にプライベートに大忙しの日々を送っています。今回はそんな林家木久扇さんの著書『88歳! 元気な秘訣、教えます 人生は夕方からが美しい』から一部を抜粋し、明るくたくましい言葉をお届けします。
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日本橋生まれの下町っ子です
戦争に比べたら屁みたいなもの
わたしは昭和12(1937)年に、日本橋久松町で生まれました。家は竹ぼうきや、たわしなどを小売店に卸す雑貨問屋。裕福な暮らしをしていたので、いいとこのぼんぼんだったんですよ。
ところが小学校にあがるころ、太平洋戦争が始まって、状況が一変するんです。
小学1年生のときには、毎晩のように空襲にあいました。生涯であれほどこわかったことはなかった。近所に爆弾が落ちるたびにあたりがぱあっと昼間みたいに明るくなるんです。
ものすごい音と地響き。空はまっ赤。わたしはおばあさんの手を引いて、無我夢中で小学校の防空壕に逃げ込みました。もうこわいのなんの。小さいながら「ここで、死んじゃうんだ」と思いました。
成人になってからは腸閉塞で死にかけたり、2回もガンにかかったりしましたが、あの小さいときの恐怖に比べたら、どれもこれも何でもない。
わたしがどんな人生の困難にも負けないのは、東京大空襲を経験しているからなんです。
疎開先で身につけた、外交術
戦時中、わたしとおばあさんは父方の縁を頼って、青森県八戸に疎開しました。
その途中でもこわい目に合っています。満員の汽車に乗って仙台あたりまで来たときだったかな。突然「敵機襲来。避難してください」とアナウンスが流れたんです。「避難しろ」と言われたって、周りは野原、遠くに林が見えるだけ。夢中で汽車の車輛の下にもぐり込みましたよ。その上を敵機がバババババッと機銃掃射したんです。目の前の小石がバチバチッと跳ねていってね。こわいなんてもんじゃなかった。

『88歳! 元気な秘訣、教えます 人生は夕方からが美しい』(著:林家木久扇/PHP研究所)
ようやく八戸の疎開先にたどりついて、叔父さんのところでお世話になることになるんですが、東京から来た子だから地元の子にいじめられる。クラスでも一人だけ標準語で話すから「なんだあいつは。かっこつけやがって」と、ランドセルに砂を入れられたり、トイレでおしっこしていると押されたり、上履きをかくされたり。
そういうときは、得意な戦闘機や戦車の絵を描いて、みんなの注目を集めました。その絵をあげると、「へえ〜」といじめっ子も感心して、そのうちクラスで尊敬されるようになった。
絵が“外交”に使えることを、知ったんです。
小学生にして「小さいお父さん」になりました
野犬に追いかけられながら続けた新聞配達
父は「戦争ボケ」というんですか、日本橋の家や店や財産が、あの3月10日の東京大空襲で全部焼けてしまって何も残らなかったので、気が抜けて、全然働かなくなったんです。
日本橋の家が焼けてしまったものだから、我が家は杉並に引っ越したんですが、結局、両親はわたしが小学生のとき、離婚します。
それからが大変でした。長男だったので、“小さいお父さん”になって、母を助けなければならなかった。
まだ小学4年生でしたが、毎朝4時半に起きて、新聞配達をしていました。西荻窪の自宅から、荻窪にある新聞の販売所までひと駅近く走って通うんです。
朝4時半というと夏は日がのぼっていますが、冬はまっ暗で寒い。当時は野犬がたくさんいましてね。8匹くらいに毎朝追いかけられるんです。
どうしたらいいか、あれこれ試した結果、踏み切りから線路づたいに隣駅まで行くのが一番いいことがわかりました。線路が銀色に光っていると、犬も気味が悪かったんでしょう。もう追いかけてきません。
だけど枕木をずっと走っていくと、ときどき鉄道自殺した人の血だまりがあって、消防署の人が焚火をしていたり。いろんなこわい思いもしました。
遠足に行って、300円稼いで帰ってくる
新聞配達のほかにもいろいろ働きました。夏は伝手を使って映画館でアイスキャンディー売りをしたり(大好きな映画も見られて一石二鳥)。空き缶拾いもやりました。当時は廃品回収の業者がいて、金属が高く売れたんです。
大きいU字型の磁石を買ってきて、ロープをつけて焼け跡を歩く。ただそれだけでも鉄くずがいっぱい磁石についてくるんです。それを業者に売ってお金に換え、おふくろに渡していました。
とにかく家は貧乏でした。学校で河口湖へ遠足に行ったときも、みんなはお弁当に玉子焼きやシャケなんか入れてきて、おかずの交換会をやっている。わたしの弁当はご飯に梅干しが一個のっているだけ。
恥ずかしいから人に見せられない。みんなから一人だけ離れて食べていました。
そしたら、目の前にガラス瓶が落ちていたんです。「あれ、もしかしてこれ、酒屋に持っていけばお金になるかも」と思って注意して周囲を見回すと、あちこちに瓶が捨てられている。
「そっか、これを洗って酒屋に持っていこう」。昼の弁当もそこそこに、せっせと空き瓶拾いに精を出したんです。
ビール瓶は3円、バヤリースオレンジの空き瓶は17円。
それを駅前の酒屋に持っていったら300円になった。当時はかけそばが一杯17円くらいでしたから、300円は大金ですよ。遠足に行って、お金稼いで帰ってきたのは、わたしぐらいじゃないかな。
それをおふくろに渡すと「お兄ちゃんは頭がいいね。ありがとう」なんて喜んでくれて。
小さいときから“お父さん”をやっていて、転んでもタダじゃ起きない。たくましかったですよ。
※本稿は、『88歳! 元気な秘訣、教えます 人生は夕方からが美しい』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
