元祖侠客”国定忠次”の美談は「でっち上げ」だったのか…公共工事を隠れ蓑に賭場を開き、テラ銭を稼いだ伝説の博徒の裏側
かつて20万人もの構成員を擁した暴力団。
覚せい剤の輸入や賭博、みかじめ料の徴収で莫大な収益を上げ、1980年代の年間収入は推計8兆円に達したと言われる。だが平成に入って以降、暴対法の制定や警察の行き過ぎた捜査、メディアによる批判的な報道が原因となり、暴力団は衰退の一途をたどってきた。
では、暴力団が社会から消えていくことは、我々一般国民にとって「良いこと」だけなのだろうか?しばし「必要悪」として語られてきた“やくざ”の実態を、『やくざは本当に「必要悪」だったのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。
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博打で生計を立てる
国定忠次は任侠の徒として人気はあるのだが、実際はどうだったのか。前出の田村栄太郎によれば、やはり高く買える人物ではない。
以下、田村栄太郎『江戸やくざ列伝』により国定忠次のおおよそを見てみよう。
忠次は上野国佐位郡国定村(現・群馬県伊勢崎市国定町)の富農の家に生まれた。家は赤城山の南麓の村で米と麦、養蚕を営んでいた。忠次は長男だったが、家督は弟の友蔵が継いだ。忠次は19歳の時、初めて博打に手を出したという。
忠次の賭博の根城は、国定村の隣村田部井村であった。国定村の名主又兵衛が忠次を排斥したため、田部井村を根城にするようになったのである。田部井村は国定村よりも機業地の伊勢崎にやや近いし、桐生・大間々の機業地にも通路がある。
田部井村名主は西ノ目宇右衛門だった。この宇右衛門はすこぶる強欲であったから、忠次には都合が良かった。忠次は同村のタツという女戸主の家、また同村の又八という者の家を借りて賭場を開いていた。田部井村を中心に2里または3里の間が、忠次の縄張りであった。
忠次の子分として重きをなした代貸元は国定村有宿の清五郎、同郡植木村の無宿浅次郎、新田郡3ツ木村の無宿文蔵、境村無宿安五郎などである。
天保5年(1834)3ツ木の文蔵は自分の住んでいるところに近い島村の博徒、無宿伊三郎と賭銭取引のもつれで喧嘩して殴られてしまう。これを忠次にいうと、忠次は、
「このまま放任しておくと、伊三郎の強気に、国定一家が臆したことになり、他の遊び人から嘲られるのが口惜しい、伊三郎を殺してしまおう」
といった。
伊三郎の殺害
忠次の目的は伊三郎の縄張りを奪うことにあった。伊三郎は資産隠匿のため無宿になったのだが、人を殺したこともなく、旅に出ないで長い間掛かって縄張りを広げてきた。
忠次は伊三郎の闇討ちを計画した。伊三郎を自分の縄張りの境村におびき出し、忠次、文蔵、清五郎など大勢で暗殺してしまい、一同はしばらく行方をくらました。
忠次の美談として、世に喧伝されていることが2つある。一つは、小沼を掘って旱魃を防止したこと、もう一つは天保飢饉に莫大な米金を出して村民を救助したということである。この2つが「義侠」という美服となって凶暴醜悪なギャング博徒忠次の肉体をおおい、ますます彼を有名にし、真山青果、子母澤寛の作品となっている。
田部井村には2つの溜井があって、村内の灌漑の用に供していたが、それが埋まったため、しばしば旱魃におそわれた。そこで忠次は名主の宇右衛門と共謀し、溜井浚いの土木工事で大儲けをする計画を立て、宇右衛門から領主の平岩七之助へ、溜井浚いの資金下付の願書を出させた。旱魃の損害は領主も受けているため、平岩は資金を下付した。
溜井浚いの工事請負人になった忠次は土木工事の人足を多く集めて、公然と人足溜まりといって小屋を掛け、ここを賭場にした。そうして昼夜の別なく、人足をはじめ集まってきた者に博打を打たせ、寺銭を取った。寺銭の一割か2割は、宇右衛門にやる約束だったのだろう。17両を宇右衛門に贈った。当時は米一石が一両以下だったと思うから、17両といえば、莫大な金である。
しかし宇右衛門と忠次は、領主から溜井浚いの金が出たことは村民に隠しておいて、友蔵から17両の寄付金で、この浚いができたように宣伝した。そうでもないと、名主が人足溜まりの賭場を許したことが問題になるからである。この一件のため、宇右衛門は、後に死刑に処せられた。
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