ハンス・オフトと森保一 2人の日本代表監督誕生に深く関わった今西和男先輩を悼む
野村尊敬(元日本サッカー協会副会長/84歳)
同じ広島県人の今西先輩の人となりを聞かれたら「真面目」という言葉が真っ先に浮かんでくる。
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最初の出会いは、ワシが広島大付属高サッカー部2年の時じゃった。
今西さんは舟入高の1年先輩。3年生でDFラインの真ん中に立ちはだかり、屈強なフィジカルを生かしたパワフルな守備が際立っとった。ワシは左のサイドバックだったのでマッチアップするような場面はなかったが、愚直に相手FWをつぶしていくタイプじゃったな。
早稲田大に進んだワシは、東京教育大(現筑波大)の今西さんと何度か対戦したが、相変わらず「真面目一本槍」のプレースタイルじゃった。
今西さんは東洋工業に入社してマツダのサッカー部(現サンフレッチェ広島)の選手、コーチ、監督、総監督、GMを務めた。そして「2人の日本代表監督誕生」にキーパーソンとして深く関わった。
80年代の半ば、マツダの監督時代に「プロの外国人コーチを招いて欧州サッカーを学ぶ」ことを決断。オランダ国籍のハンス・オフト氏を招き入れた。後の初の外国人日本代表監督じゃ。
2人目は、現代表指揮官の森保一監督。
旧知の長崎日大高サッカー部・下田規貴監督から届いた年賀状に「見てもらいたい選手がいます」と書いてあり、オフトと一緒に長崎を訪れたという。
即戦力が欲しかったオフトさんは興味を示さなかったみたいだが、今西さんは「視野が広くて三歩先が読める」「大人と意思の疎通が図れる」「伸びしろがある」と評価してマツダに引き入れた。
今西さんの慧眼には、ただただ恐れ入る。
マツダ、J広島の選手として成長していった森保監督は、1992年にオフト監督率いる日本代表選手となった。引退後はJ広島で3度の優勝を成し遂げ、母国開催の東京五輪で陣頭指揮をとった。そして今、4年前のW杯カタール大会に続いて2度目の檜舞台となる北中米W杯を控えとる。
ピッチ外でも真面目な今西さんから「社会人として恥ずかしくない立ち居振る舞いを教えていただいた」という森保監督のコメントを読んだ。
森保監督のことは20代前半から知っとるが、今でも「何ごとにも真面目に取り組む」「他者に敬意を表して礼節を持って接する」という人柄は何ひとつ変わっとらん。
森保監督が指揮する東京五輪の代表チームが、福岡県で国際親善試合をやった日の夜、森保監督や現JFA技術委員会の山本昌邦委員長など8人ほどの食事会に同席させてもろうた。
森保一は制止を聞かず胡麻をすり始めた
人数分の小さなすり鉢があり、店員さんに「すりこぎで胡麻をすって料理にかけて食べてください」と言われた。すると森保監督が「私にやらせてください」と全員分の胡麻をすり始めた。
最年長のワシが「疲れているのに自分の分だけすればいい」と言うたんじゃが、森保監督は「いえ、このくらいはやらせてください」と頑として聞き入れんかった。
JFA関係者、代表コーチ陣、スタッフ、歳の離れた選手たちに対しても「気遣いの人・森保監督」は、まったく変わらないと聞いとる。「今西イズム」の継承が森保ジャパンの一体感を作り上げ、強さの一端にもなっとるのじゃろう。
長崎日大・下田監督は2025年11月に亡くなられた。森保監督は「今の私を育てていただいた大きな大きな存在」と涙ながらに追悼しとったが、今西さんの訃報に接した今も同じ気持ちでいるはずじゃ。
大恩人2人に北中米W杯で采配をふるう姿を見せることはできんようになったが、2人から学んだことを森保監督はしっかりと噛み締め、勝利のために最善を尽くしてくれるに決まっとる。
北中米W杯の森保ジャパンの奮闘を期待して見守ろうじゃないか。合掌。(談)
