「私…現場に入ります!」「待て!」“震度7の震源地”に実家がある地元紙記者は涙目で…《熊本地震から10年》
2016年4月14日夜と16日午前に熊本県で震度7を観測し、県内や九州各地で大きな揺れと甚大な被害を生んだ「熊本地震」から10年。地震で輪転機が止まりながらも、必死に新聞を人々へ届けた地元紙「熊本日日新聞」の被災1週間の記録「ドキュメント熊本日日新聞編集局」(月刊「文藝春秋」2016年6月号)より一部を特別に公開する。(年齢や肩書きなどは掲載時のまま)
【写真】この記事の写真を見る(2枚)

「熊本日日新聞」本社外観とはためく社旗(「熊本日日新聞」ウェブサイトより)
◆ ◆ ◆
東京出張中のニュース速報「おい。熊本で地震だ」
四月十四日(木)二十一時二十六分
東京都渋谷区
熊本日日新聞社編集局長の丸野真司(59)は道玄坂上交番近くにある熊本料理店「新市街」で東京出張最終日の夜を迎えていた。同席しているのは東京支社長の荒木正博、東京編集部長の清田幸子のほか、旧知の他社の新聞記者たちである。
杯を重ね、食事も一段落つき、宴が終盤に差しかかろうとしていた時だった。丸野の携帯電話が一通のメールを受信した。共同通信のニュース速報だ。
〈熊本で震度7。震源は益城(ましき)町〉
「おい。熊本で地震だ」
丸野は携帯を持ったまま、すぐに店の外に飛び出した。そして、熊本にいる同期入社で編集総務の永森睦夫(58)に電話をかける。即座に考えたのが、永森に編集局トップの全権を委任することだった。
「家族の安全が確認でき次第、編集局全ての部に招集をかけてくれ。明日は朝刊の次に号外を出すぞ」
荒木、清田も遅れて店から出てきた。早々に会計を済ませ、三人は、熊日東京支社が入っている丸ビルへと向かうべく、タクシーに飛び乗った。清田は「気象庁の会見があるはずだから、すぐに行って」と東京支社の記者たちに指示を出している。丸野は電話で本社に指示を飛ばしながら、明日の帰熊手段を考えていた。飛行機の時刻を早め、六時二十五分発日本航空の始発便で帰ろう。空席があると良いが……。
仕事、家族、家。大切なものはすべて熊本にある。丸野は焦れていた。携帯を握る手に力が入った。
「降版」まで時間がないが…「すべて地震ネタでいくぞ」
二十二時十五分 熊本市・本社
永森は、息子が運転する車で熊本市中央区世安町にある熊日の本社に向かっていた。
「編集部門」のキャリアが二十年以上の永森は、紙面の見出しやレイアウトを付ける「整理」のエキスパート。柔和な性格のため、編集局の信頼を集めている。地震発生直後に局長の丸野がまっさきに永森に電話をかけたのはその証左だ。現在は編集総務として、各局の折衝などを行う“調整役”を務めている。
地震は永森が家族とともに市内の自宅で食事をとっていたときに起こった。テーブルの下に避難したのは生まれて初めてだった。強く、経験したことのない揺れだった。いつもは自らハンドルを取って出勤するのだが、すでに晩酌を始めていたので、息子に運転を頼んだ。
本社に着くと、停電でエレベーターが停止していた。永森は編集局がある四階まで駆け上がった。編集局は見たことがない姿を晒していた。本棚は倒れ、記者たちの机の上に置かれた書類のほとんどが床にまき散らされ、スクラップ類も散らばっている。
「一面はすべて、二面、三面、一社面(第一社会面)、二社面もすべて地震ネタでいくぞ」
部屋の中央で陣頭指揮を執っているのは、十五日朝刊の編集責任者である「ニュースセンター長」の花木弘(56)だ。新聞づくりは一日も欠かさず行われるため、センター長はローテーション制である。花木は運動部長も務めたスポーツマン。キビキビと指示を出している。
通常、大きな事件や事故が無い場合、朝刊の一面には三〜四本のネタが入る。十五日朝刊のネタは決まっていた。熊本大学発生医学研究所の研究グループが世界で初めて腎臓の元細胞を増殖することに成功したというニュースがその一つだ。
花木とタッグを組む編集一部長の末廣淳(55)は、このネタを四面に追いやり、紙面に大きな空白をたくさん作る方針を打ち出していた。
一方で「そんな分量を埋められるほどの材料が来るだろうか」という懸念も末廣は感じていた。現場に向かった記者たちから写真やデータが送られてくるのは早くても二十三時を回るだろう。印刷局にまわす「降版」まで一〜二時間しかない。
永森は末廣のもとに歩み寄って声をかけた。
「大丈夫。埋まらないことはない。必ず来るから。県民誰も経験したことのない大きな地震だ。出来る限りの材料を紙面に盛り込もう」
「私……現場に入ります!」
しかし、編集局の一角では厳しい顔をして腕を組んでいる男がいた。社会部長の泉潤(54)だ。堂々たる体躯と立派な髭のおかげで強面に見られがちだが、情に厚く、涙もろい社会部一筋の熱血漢。
地震があるまで、泉の頭の中は五月に大々的に展開する予定の「らい予防法廃止二十年」と「水俣病公式確認六十年」関連記事のことでいっぱいだった。しかし、もはやそれどころではない。今回のような大規模な自然災害が発生した場合、取材の中心になるのは社会部である。
泉は困っていた。甚大な被害が出ているという震源地の益城町までは本社から約十五キロの距離。すでに記者を何人か行かせているが、道路は寸断され、交通渋滞も酷いという。降版までに十分な取材をする時間を確保できるのか、心もとない。
局の入り口に社会部付の編集委員・浪床(なみとこ)敬子(45)の顔が見えた。泉は浪床にアンカーを務めてもらう予定だった。現場から上がってくる情報をまとめる役割である。
しかし、浪床は遠くから泉を確認するやいなや、「私……現場に入ります!」と大きな声を出した。見ると、浪床の目は真っ赤だった。
「待て!」と泉が声をかけた時にはすでに浪床の姿はなかった。浪床の実家は、益城町にあった。
直後、隣の政経部から「ウチに益城在住の奴がいる。町役場に入れるそうだ」という声がかかった。益城町にいるのは政経部デスクの奥村国彦(50)。かつて、泉が社会部デスクだった時代の直属の部下だ。
「奥村か。助かった! そのまま現場に入ってもらおう」
泉は叫んだ。部の垣根を超えた「オール熊日」での闘いがはじまった。
(文中敬称略、文責=「文藝春秋」編集部)
〈地元紙記者も「実家の両親とは連絡が取れてない」ホワイトボードには生き埋め者の情報が…《熊本地震から10年》〉へ続く
(「文藝春秋」編集部/文藝春秋)
