ブラジル代表を牽引した29歳のペレ(黄)。70年大会では、記録に残らない伝説を紡ぎ出した。(C)REUTERS/AFLO

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 北中米ワールドカップが6月11日に開幕を迎える。4年に一度、これまでも世界中のサッカーファンを魅了してきた祭典は、常に時代を映す鏡だった。本稿では順位や記録の先にある物語に光を当て、その大会を彩ったスター、名勝負、そして時代背景などをひも解いていく。今回は1970年の第9回大会だ。

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●第9回大会(1970年)/メキシコ開催
優勝:ブラジル
準優勝:イタリア
【得点王】ゲルト・ミュラー(西ドイツ):10得点

 1964年10月8日、五輪の開会式を2日後に控えた東京で行なわれたFIFA総会で、6年後のワールドカップのメキシコ開催が決まった。東京の次に五輪を開くメキシコは、対立候補のアルゼンチンに比べてインフラ整備が進んでいた。

 初めて欧州と南米を離れるワールドカップには、疑念の声も少なくなかった。試合は欧州のテレビ放映時間に合わせて灼熱高地のメキシコでの日中開催になるので、選手の健康状態やパフォーマンスの質が懸念材料だった。

 だが、史上最も強く美しいブラジルの躍動や、20世紀最高の試合と賞賛される準決勝(イタリア4−3西ドイツ)など、サッカーの素晴らしさが満載の大会となり、テレビのカラー化が浸透した時期とも重なり、地球規模でのワールドカップの人気や価値が定着する重要な契機となった。

 予選にエントリーしたのは71か国。北中米ではエルサルバドルとホンジュラスが直接対決を機に戦闘状態に突入。後に「サッカー戦争」と語られる文字通りの激闘の末に、エルサルバドルが初出場を果たした。

 アジアで有力視されていたのは2年前のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本だった。しかし、残念ながら同大会得点王の釜本邦茂が予選を前に肝炎に倒れて敗退。だが代表チームの参加は叶わなかったが、丸山義行がFIFAに指名され本大会で副審を務めた。
 
 南米予選ではブラジルが圧倒的な強さを見せ、6戦全勝で突破。ところが本大会を2か月半後に控えたチリとの親善試合で、ジョアン・サウダーニャ監督はペレを外してしまう。ブラジル連盟(CBF)の決断は速かった。即座に現体制に見切りをつけると、試合終了の数時間後にはボタフォゴへ赴く。同チームを指揮し、現役時代には58、62年大会の連覇に貢献したマリオ・ザガロに、セレソン(代表)の後任監督を依頼するのだった。

 29歳のペレは、大会前年の11月20日に自身通算1000ゴールを記録。メキシコワールドカップを最後に代表を退くことを決めていた。ペレ以外にもトスタン、リベリーノ、ジェルソン、クロドアウド、ジャイルジーニョが10番並みの展開力、得点力を持つブラジルは、文字通りドリームチームだった。同じようなタイプを並べることへの批判もあったが、ザガロ監督は「逆に彼らを使わないほうがありえない」と意に介さなかった。

 円熟期を迎えたペレは、ピッチ上で記録に残らないいくつかの伝説を紡ぎ出した。グループリーグ(GL)のチェコスロバキア戦(4−1)では、センターライン手前で相手のGKイヴォ・ヴィクトルが前に出ているのを見て約70メートルのロングシュートで華麗にゴールを狙った。

 また前回王者イングランドとの試合(1−0)では、ジャイルジーニョのクロスを滞空時間の長いヘディングでライン上に叩きつける。だがこのお手本のようなヘッドを、GKゴードン・バンクスが奇跡的にセーブ。一気にバンクスの名声が高まることになった。

 さらに準決勝のウルグアイ戦(3−1)では、左からのスルーパスに反応して右から抜け出して疾駆。ところがペレはエリア手前でボールに触れずにスルーしてしまう。これにはウルグアイの名守護神ラディスラオ・マズルケビッチも騙され、ボールは自身の背後へと抜けていく。その刹那、ボールに触れずにGKをかわしたペレが回り込んでゴールを狙った。ペレはこうして異次元の創造性を卓越した技術で体現し、世界中のファンを魅了した。