昭和の大女優は威風堂々としていた

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「そんなにお知りになりたいのなら…」

 若尾文子さん(92)といえば、日本映画史に燦然と輝く大女優である。出演映画本数は150本以上。特に、最盛期の大映(現KADOKAWA)を、京マチ子(2019年、95歳没)、山本富士子(94)とともに支え、“大映三大女優”と呼ばれた。シリアスからコメディ、文芸、サスペンス、時代劇、女子高生から艶っぽい人妻まで、どんな役柄でも見事にこなした。

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 いまでも、若尾文子映画祭が開催されるたびに、名画座は大盛況となる。それどころか近年は、旧作邦画ファンの若者にも愛され、〈あやや〉の愛称で呼ばれている、“昭和アイドル”の大先輩である。

昭和の大女優は威風堂々としていた

 そんな若尾さんは、1963年にパリで知り合った商業デザイナーの西館宏幸氏と結婚したが、1969年に離婚している。

 当時は、結婚でも離婚でも、マスコミの前に出て堂々と語る芸能人が多かった。そのかわり、記者とのやり取りは丁々発止の真剣勝負である。この離婚会見でも、記者があまりにしつこく聞くので、「そんなにお知りになりたいなら、何日か、家に泊まり込むつもりで取材に来ていただきたいわ」と名コメントを発し、記者たちを黙らせている。

 以後ずっと、若尾文子さんは、“独身大物映画女優”として、芸能マスコミに注視されつづけてきた。

 1977年、そんな彼女に、意外な“お相手”がいることが判明した。すでに40歳を過ぎ、大映倒産後はTVや舞台に活躍の場を移していたが、相変わらずの美しさでファンを魅了していた時期である。

 そのお相手とは、建築家・黒川紀章氏(1934〜2007)であった。ユニークな形状で知られた「中銀カプセルタワービル」(2022年解体)をはじめ、「BIG BOX高田馬場」「青山ベルコモンズ」(2014年閉館)、「国立文楽劇場」「国立新美術館」等々……誰もが知る名建築をことごとく手がけてきた、日本を代表する建築家である。

「彼女の美こそ、バロック」

 2人はその前年の1976年、TBSの対談番組「すばらしき仲間」で初めて顔を合わせた。ここで黒川氏は「あなたはバロックです」と、不思議なことばで賞賛しつづけた。どうも若尾さんは、この“口説き文句”にまいってしまったようだ。

 これを機に、2人は交際しているとの噂が広まり始めた。だが当時、黒川氏には家庭があり、成人前の子どももいたので、本当ならば、いわゆる不倫関係となる。

 さっそく週刊新潮が、動きはじめた。そして、2人の仲が“決定的”であることを、突きとめる。

 その記事が《近来の大型恋愛と囃される若尾文子さんと黒川紀章氏》(1977年10月6日号)である。

 当時、若尾さんは、三田の高級マンションに住んでいた。ここの駐車場で、最近、外車の「アストンマーチン」に乗った、建築家の黒川紀章氏の姿を見かけるとの噂が、近所で広まっていた。黒川氏の愛車が、イギリスの名車「アストンマーチン」であることは有名だった。映画「007」シリーズで、ボンド・カーとして有名になった、高級外車である。どうやら、2人が半同棲に近い状態であることは、確実である。ところが、当のお2人は、この事実を突きつけられても、逃げも隠れもしなかった。週刊新潮の取材に応じ、平然とコメントしているのだ。

 まず、若尾文子さんである。

〈「黒川さん…、素敵な方だと思います。(略)黒川さんと私の間には接点が多いと思います。それだけにお会いすれば楽しいし…といっても、去年、テレビでお会いして以来、お食事のお誘いを受けたりしますので、ごいっしょすることがあるという意味ですわ」〉

 見事なコメントだった。一方、黒川氏は、

〈「私は、彼女の美こそバロックだと思っているんですよ」「ドールスというスペインの美術史家が、そのバロック論を説いた本の中で、“バロックとは否定と肯定を同時に併せ持つものだ”と書いている。この概念は、元来のヨーロッパにはなかったものです。ヨーロッパの概念は…」〉

 と、週刊誌記事とは思えない“バロック論”を、えんえんと開陳するのである。そして最後に、

〈「私は恐らく死ぬまで“バロック論”を彼女と結びつけて叫び続けるでしょうね」「若尾さんとの関係は、あくまで私の美意識の中の女性論でしかないんですよ」〉

 と、あいまいに結んでいるのだ。2人とも、役者が一枚も二枚も上手なのである。

新橋演舞場の出口は2か所なので

 とにかく、これで2人の仲は、“公然”となった。2人は、黒川氏が所有するマンションで同棲生活となり、いっしょの姿が目撃されるようになる。しかし、先述のように黒川氏には家庭があった。どうやら夫人が離婚に応じないようだと伝えられ、“不倫同棲”状態がえんえんと続いた。

 その間、週刊新潮の報道も続いた。《若尾文子・黒川紀章が気にする「時間」》(1979年10月11日号)や、《街の掛け率〜「黒川紀章・若尾文子」は結婚するか 9:1》(1981年1月15日号)などという、いまでは「不適切にもほどがある」記事が掲載された。

 そんなジリジリした時間が「7年間」も続き、ついに《華麗な醜聞「七年目のケジメ」》(1984年1月12日号)となった。記事には、黒川氏夫人が離婚に同意したとの、友人の証言コメントが。ならば、いよいよ正式に入籍ではないか……さっそく芸能マスコミが一斉に動いた。特に某スポーツ紙が(いまではありえないことだが)黒川氏の住民票を確認してみたら、なんと2人が入籍していたことが判明。さらに大騒ぎとなった。

 ところが、肝心の黒川氏はなぜか雲隠れ。若尾さんひとりが、舞台出演中の劇場入口で、即席の会見に応じたのだ。だが、ストレートヘアにサングラス姿の若尾さんは「仕事はこれからも続けますので…」と、口少なに語るのみだった。

 週刊新潮でも、さっそく取材班が組まれた。「会見はあまりに中途半端だった。なんとか2人のどちらかに、ここに至った経緯を話してもらえないだろうか」と、編集長からの厳しい指示が飛ぶ。

 このとき、若尾さん担当になったのが、若手記者のM氏だった(現在60歳代後半)。そのM氏の回想。

「このとき若尾さんは、新橋演舞場の新春公演、石井ふく子演出の『鹿鳴館物語』に出演中でした。共演は、10代目市川海老蔵(のちの12代目市川團十郎=当代團十郎白猿の父)という、話題の舞台です。もちろん、正式取材を申し込みましたが、拒否。そこで、終演後、新橋演舞場から出てきたところで話をうかがうしかないと思い、早めに偵察に行きました。ところが、新橋演舞場は、楽屋口と地下駐車場の出入り口が、まったく反対側に位置してるんです。どちらか一ヶ所で待っていて、ちがうほうから出てこられたらアウトです」

「もう、お話しすること、ありませんので…」

 そこでM氏は、おなじ取材班の後輩、Y氏に助けを求めた。

「わたしが楽屋口で、Y君が駐車場口で待ち、おたがい、トランシーバーをもって連絡を取り合うことにしました」

 いうまでもないが、まだ当時は、ケータイやスマホなどない時代である。段取りは、

「どちらかが若尾さんをキャッチしたら、なんとか、その場で話をうかがう。もし聞けない場合は、片方が先に、当時2人が住んでいた虎ノ門の高級マンションの前で帰りを待ち、もう一度、お願いする」

 舞台公演、夜の部が終わり、寒空の下、M氏は楽屋口で若尾さんの出を待ちはじめた。ところが、意外と早く、駐車場口のY氏から、トランシーバーに連絡が。

「こっちでした! いま車で出てこられました」

「OK! じゃ、なんとか話をうかがってくれ。こちらは、念のため、マンション前で待っているから」

 M氏は、すぐに虎ノ門のマンションへ先回りした。

「マンション前で、若尾さんの帰着を待ちました。やがて、付き人らしき女性が運転する車で、若尾さんが帰ってきました。Y君の姿が見えないので、たぶん、話はうかがえなかったのだと思い、もう一度、取材申し込みをしたのですが、『もう、お話しすること、ありませんので…』と、断られてしまいました。これ以上、しつこくしては、あまりに失礼なので、さすがに、ここで取材は終了しました」

 しかし、肝心のY氏は、どこへ行ってしまったのか。

「わたし、いい奥さんではなかったわねえ」

 やがて15分ほどすると、Y氏がタクシーで到着した。

「おいおい、いったい、いままで、どこに……?」

 すると、Y氏は、頭をかきながら、

「いやあ、もうしわけない。てっきり若尾さんだと思って、駐車場口で車が一時停止したところで、取材の申し込みをしたのですが……ひとちがいだったんです」

「ええ? じゃ、誰だったの?」

「長山藍子サンでした。サングラスをしていたので、わからなかったんです」

 無理もない。どちらもストレートヘアで、ほぼおなじ背格好で、色白。サングラスをされたら、区別などつかないだろう。その場で、2人は、大笑いしてしまったという。

 そのときの記事が《「若尾文子」を入籍させた黒川家の「家族会議」》(1984年1月26日号)である。結局、ここに至る経緯は、公私ともに黒川氏を知る錚々たる経済人たちに語ってもらい、何とか形にはなった。M氏いわく、

「いまは、さすがにこんな取材はできません。でも、時代がちがうといえばそれまでですが、こういう取材で抗議をしてくる芸能人は、当時は、まずいませんでした。若尾文子さんは、いわば、“昭和の大物芸能人”の代表格でもあるように思えます」

 現に、その後、若尾さんは、週刊新潮の長期連載《私の週刊食卓日記》(2001年1月4・11日号)に登場し、〈五時起床。ニュースを見乍ら体操。八時半、黒川起こす。家政婦さん来る。ぶりてりやき、しじみ味噌汁…〉などと、ほのぼのとした様子を平然と寄稿しているのである。

 このあと、黒川氏は政党を立ち上げ、都知事選や参院選に立候補。若尾さんも応援演説に奔走したが、当選には至らなかった。黒川氏は、2007年10月、すい臓がんで逝去。

 2人の最後の会話は「わたし、いい奥さんではなかったわねえ」「そんなことないよ」だったという。これも、マンションに詰めかけた記者たちに、インターホン越しではあったが、若尾さん自身が明かしたのである。まことに堂々たる対応であった。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部