「不法投棄される廃屋」育ちのバットボーイズ・清人「目の不自由な祖母を支えた幼少期」に知った衝撃の事実「あなたが父親!?」
お笑いコンビ・バッドボーイズの清人(きよと)さん。物心ついたころから母親がおらず、目が不自由な祖母を支えながら3人の「おじさん」とすき間風吹く家で暮らしていました。現在では「ヤングケアラー」についての講演会も行う清人さんに、幼少期の暮らしについて話を聞きました。
【写真】「衝撃」清人さんが暮らした「廃屋のような実家」(6枚目/全12枚)
目の不自由なおばあちゃんが母親がわりだった
── 母親がいない家庭で育ち、目の不自由なおばあちゃんが母親代わり。その息子であるおじさんたちが父親代わりと感じて暮らしていたそうですね。幼少期はどんなお子さんでしたか?
清人さん:ばあちゃんからは、シャイで人見知りな子だったとよく言われていました。僕のばあちゃんは目がほとんど見えなかったので、普段の買い物や出かけるときは僕が手をつないでいました。それを見た近所のおばちゃんから「清人くんえらいねー、こんにちは」と声をかけられることがあったのですが、僕は「こんにちは」が言えず、笑顔が挨拶代わりという感じで、ずっとヘラヘラしていました。ばあちゃんは雰囲気でわかるのか「ヘラヘラしなさんな」と、よく怒ってましたね。
保育園も途中入園で友達となじめず、みんなが鉄棒で遊んでいるのを後ろでずっと見てるような子でした。そのなじめない様子を保育園の先生がばあちゃんに伝えたようで、ばあちゃんは僕の手を引いてぐいぐい鉄棒の列まで連れて行き、「清人も入れてあげて」と強引に仲間に入れさせていました。
── 自分に母親がいないということは、そのころにはもうわかってたんですか?
清人さん:母親は、僕を産んですぐに亡くなったと聞かされていました。まだそのときははっきりと、母親がいないというのがどういうことか理解していなかった気がします。ただ、テレビで誰かのお母さんが出るシーンになると、何か少しせつないような感覚になったのだけは覚えています。
── おばあちゃんの目は、生まれつき不自由だったのでしょうか?
清人さん:いや、僕が本人から聞いた話では、40~50代ごろから悪くなったそうです。緑内障と、トラックに追突されて後頭部を打ち、その衝撃で視力が落ちたと言っていましたが本当のところはわからないです。
廃屋のような家の7畳1間で5人が寝起き
── 目の不自由なおばあちゃんのお世話をするというのは、今でいう「ヤングケアラー」だったと思うのですが、具体的にどんなお手伝いをされていたのですか?
清人さん:夕飯の買い物は必ず一緒に手をつないで行っていました。膝の具合が悪く、すぐに水が溜まるようだったので、週3回は病院の送迎もありました。月末になると公共料金や家賃の払い込みも僕がしていました。当時は周囲にコンビニはありませんでしたし、ガス屋、米屋、大家さんなどを一軒ずつ回っていたんです。でも、みんな「おばあちゃんのお手伝いしてえらいね」「すごいね」と言ってかわいがってくれましたし、お菓子やジュース、ときにはこづかいをもらえるので、それが楽しみでしたね。
── 借りていた家はどのような間取りだったのですか?
清人さん:7畳1間におばあちゃん、僕、3人のおじさんの5人で寝ていました。家のあちこちにすき間があり、四季折々の虫や草木などが入り放題で半分外のような状態。お風呂にはナメクジが大量発生するような家でした。廃屋だと思われて、不法投棄の粗大ごみを捨てられていることがありました。
── その家でおばあちゃんは、家事をひとりでこなしていたのですか?
清人さん:家事全般、何でもこなしていましたが、夕飯づくりは僕が補助をしていました。「それは塩」「こっちがしょうゆ」と言って手渡すようなことです。ほとんど目が見えない状態で調理をするので、ところどころ野菜が生煮えだったり、食品トレーに敷いてあるシートとか食材じゃないものが料理に入ったりしていることもありましたが、僕にとってはそれが日常でした。おじさんたちはそれぞれ仕事で帰る時間もまちまちでしたし、家事は母親任せという感じでした。
── とはいえ、まだ小学生なので放課後にお友達と遊べないのは寂しくありませんでしたか?
清人さん:本当にご近所さんにはチヤホヤされてかわいがってもらえたので、寂しくはなかったんですよね。お手伝いがあって友達と遊べないことに関しては、ある程度、諦めている部分はあるんですけど、やっぱりまだ子どもだからイライラすることもありました。友達みんなが放課後グラウンドに集合してサッカーをするような日は「頑張って早く用事を済ませたら、みんなと遊べるんじゃないか」と期待しながら走って帰るんです。すぐにチラシとペンを持って、ばあちゃんに「今日は僕、ひとりで買い物に行ってくるから早く買うもの教えて!」と聞くと「まだ献立が決まってなくて…自分で店に行かないとわからん」と言われるんです。
じゃあ早く行こうと手をつないで買い物に行くんですけど、ばあちゃんは早く歩けないし、スーパーではいちいち値札を読み上げないといけない。一周回るうちに、ほかの買い物客や店員さんなどいろんな人が話しかけてくるし、結局どんどん時間が過ぎて…。やっと買い物が終わったと思ったら、そういう日に限って通院の日なんですよね。僕はプリプリしながら病院へ行って、夕飯づくりの補助をして、やっとのことでグラウンドに駆けつける。するともう友達は帰り支度をしているという…。
── 手伝いを放り出して遊びに行かず、そこまでお世話をしてあげるのが偉いです!
清人さん:ばあちゃんは怒ったらしつこいんですよ。大人気ないくらいプイっとして無視するんです。後のこと考えたら怒らせたほうがめんどうだし、付き添ったほうがいいか、という考えでした。一度、病院について行かずに遊びに行ったことがあったんですよ。そのとき、めちゃくちゃ怒られて晩ご飯抜きになったので、お手伝いをさぼった代償がでかすぎると悟りました。
同居していた「おじさん」のひとりが実は父だった
── 同居していた3人の「おじさん」たちは、働いていたから家の手伝いができなかったんでしょうか。どんな「おじさん」だったのでしょうか。
清人さん:3人ともばあちゃんの息子だったのですが、長男の「マサおっちゃん」は港町で積み荷の上げ下ろしを、次男の「かーぼ」は木材所で働いていて、三男の「のり兄ちゃん」は土木作業員をしていました。
── 働き手が3人いらっしゃっても金銭的に厳しく…?
清人さん:それ、よく言われるんですよ(笑)。僕も不思議なんですけど、たぶん借金のせいじゃないですかね。
── 後に3人のおじさんのうちのひとりが、実は父親だということが判明したそうですね。どんな経緯でわかったのですか?
清人さん:おじさんたち3兄弟には姉がいました。つまりばあちゃんにとっての長女ですね。関西のほうに住んでいて、たまに自分の娘を連れて家に遊びに来ていたんです。そのおばさんから聞きました。
小学校低学年のころ、僕がお手伝いをほめられて、近所の人から500円もらったんですよ。当時はお札だったので、その500円札を同居しているかーぼに「かーぼ、これでバイクを買ったら?」って渡したんですよ。それを見たおばさんから「あんた、昔から『かーぼ』って言ってるけど…。お父さんになんて口聞いてんの?」と怒られて、そこで初めて「かーぼ=父親」ということを知りました。母親がいない家だっていう意識はあったんですけど、おじさんは3人もいてそれぞれかわいがってくれたし、父親的な役割に関しては満たされていたんですよ。いま考えると、それまでなぜ父親が誰だと考えなかったのか不思議ですけど、僕もよくわからないんです。ぼんやりした子どもだったし、大人を問いただしていろんなことを明らかにしようという考えがなかったんでしょうね。
── その後のお父さんとの関係性はどうだったのですか?
清人さん:最初は照れ臭かったのですが、だんだん「おじさんの中のひとり」から「親父」という認識を持つようになりました。よく一緒に遊んでくれましたし、パチンコのついでですが、映画館なども連れて行ってくれた思い出があります。ほかの「マサおっちゃん」や「のり兄ちゃん」は酒に酔うと暴れたり、めんどうになると働かなかったりしていたイメージがあるのですが、親父はちゃんと働いて僕を気にかけてくれていたと思います。
「ヤングケアラー」周囲の大人が寛容でいてあげて
── 清人さんは当事者として「ヤングケアラー」についての講演もされていますよね。講演会ではどんなことを伝えていらっしゃいますか?
清人さん:ヤングケアラーの子どもに対してというより、周囲の大人に対して理解を深めてほしいという内容の講演が多いです。先日は幼稚園から高校までの先生や、養護施設の方などの教育関係者が300人集まりました。1時間半くらい、いろんな話をしますけど、最後に必ず言うのは「周囲の大人が寛容でいてください」ということです。
「ヤングケアラー」って、僕が子どものころにはなかった言葉ですし、僕のなかでは「ズッキーニ」ぐらい知らなかった言葉で、いまいちピンときてないから使い慣れない(笑)。それに「ヤングケアラー」という言葉には広い意味があるけれど、そう呼ばれる子どもがちょっとかわいそう、みたいなイメージで使われることが多いじゃないですか。
もちろん、家族のケアでしんどい思いをしている子にいちばん目をむけなくちゃいけないのは当たり前なんですけど、でも実際はそこまでつらいと感じていない子もいる。だから「ヤングケアラー」という言葉でひとくくりにして、大人が何かしてあげなくちゃ、ということじゃなくて、当事者の子どもが困ったときに何でも発信できるよう、寛容でいてほしいなと。
周囲の人が寛容でいてくれると、家族をケアしている子どもたちも、気持ちに余裕ができるんじゃないかなと思います。僕自身が近所のおばちゃんたちに、受け入れてもらっていたように。
── 経験者ならではの目線ですね。
清人さん:僕の勝手な解釈ですが、家族のケアに悩む子も、いじめに悩む子も孤独と闘ってどうしようもなくなって追い詰められていくような気がしていて。特に日本では、幼いころから「(世間や他人に)迷惑をかけたらだめだよ」と言われ続けて育つので、誤解を恐れずに言うなら、「子どもってもっと迷惑をかけて生きていいんだよ」という言葉をかけたいです。迷惑をかけちゃいけない、恥ずかしい、申し訳ないという気持ちから、親にも誰にも悩みを打ち明けられなくて孤独に陥っていくことは、自分との闘いだからいちばんつらい。だから周囲が「迷惑かけていいんだよ」というような気持ちで寛容でいてあげるといいんじゃないかと思っています。
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目が不自由なおばあちゃんのお世話をしながら、子ども時代を過ごしていた清人さん。小学校3年生のとき、自分を産んですぐに亡くなったと聞かされていた母親が、実は生きていたという衝撃的な事実を知らされます。そして、大人になってから思いがけない形で再会を果たすことに。ただ、それまで理想の母親像ができあがりすぎてしまったため、思い描いたような「感動の再会」にはならなかったそうです。
取材・文/富田夏子 写真提供/清人

