なぜ習近平は台湾を譲らず、日本に強硬な姿勢をとるのか。『中国は覇権を握るのか』を書いた李虎男さんは「中国の攻撃的な振る舞いの根底には、西洋列強への敗北よりもはるかに深刻な“恥辱の記憶”がある。その記憶こそが今日の戦狼外交と対日強硬路線の原動力になっている」という――。(第1回)

※本稿は、李虎男『中国は覇権を握るのか』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

北京の人民大会堂で演説を行う中国共産党の習近平総書記。2022年10月23日(画像=中国新闻社/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

■習近平が最初に訪れた「意外な場所」

2012年11月、中国共産党第18回党大会で最高指導者の座についた習近平主席が、政治局常務委員7人とともに最初に向かった場所は、北京の国家博物館だった。

そこで開催されていたのは、「復興の道」と題された特別展示会である。この場所を選んだのは、決して偶然ではなかった。展示会場には、中国5000年の歴史が織りなす光と影が劇的に展開されていた。四大発明(紙、火薬、羅針盤、印刷術)に代表される輝かしい文明の遺産と、1840年のアヘン戦争以降の「恥辱(ちじょく)の近代史」が対比的に配置されている。西側諸国や日本との戦争での敗北、数多くの不平等条約の締結といった屈辱的な歴史が、豊富な史料、写真、文物によって生々しく再現されていた。

この場で習近平は、中国の未来を決定づける歴史的演説を行った。

「わが民族が近代以降受けてきた苦難と犠牲は信じられないほど甚大である。これは世界史でも例がないほどの出来事である。しかし、わが民族は屈服しなかった」

彼は1840年のアヘン戦争から続く中華民族の不屈の精神を強調し、中華人民共和国建国から100周年を迎える2049年までに、必ず中華民族の偉大な復興という「中国の夢」を実現させると力強く宣言したのである。

北京の国家博物館と天安門広場(画像=xiquinhosilva/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

■「恥辱」という言葉を使ったワケ

この演説で初めて使用された「恥辱」という概念は、現在の中国を理解する上で極めて重要なキーワードとなる。恥辱とは、羞恥と侮辱を合わせた概念であり、単なる敗北感とは質的に異なる。それは、本来自分が相手より優れているにもかかわらず、不当に敗北し、侮辱を受けたという被害認識を前提としているのだ。

中国人が西側諸国や日本に対して抱く複雑な感情の根底には、まさにこうした恥辱感が横たわっている。彼らは自らを「天朝(てんちょう)」と称し、世界の中心であると信じていたがゆえに、異民族からの侵略や支配を「一時的な恥辱」と捉え、その回復を民族の使命と位置づけるのである。

習近平指導部が「復興の道」展示会から政権をスタートさせたのは、単なるパフォーマンスではない。屈辱の記憶を国民統合の原動力に変え、中華民族の復興という壮大な目標に向けて国民を結束させる戦略的意図があった。

この手法は、その後のナショナリズムの強化として具現化され、現在の中国の内政・外交政策の根幹をなしている。彼らは、過去の栄光を再確認し、失われた威信を取り戻すことが、現代中国の最優先課題であると国民に訴え続けているのだ。

■自称「美しく華やかな理想的な国家」

習近平の演説における「恥辱感」の背景を理解するためには、中国人が持つ中華文明に対する深い自負心を理解する必要がある。

18世紀前半まで、中国は間違いなく世界で最も優れた文明を誇る国家だった。科学技術分野では四大発明に代表される革新的な技術を生み出し、人文学や芸術などの分野でも他国の追随を許さない高い水準を維持していた。

詩歌、書画、哲学、建築など、その多岐にわたる文化は、東アジア全体に大きな影響を与え、周辺諸国はその文化を学び、取り入れることに努めた。この歴史的な輝かしさこそが、中国人が持つ中華文明に対する強烈な自負心の源泉である。

しかし同時に、この悠久な歴史がもたらしたのは、中国人特有の文化的傲慢(ごうまん)さでもあった。魯迅(ろじん)はかつて、この傲慢さを「中央にそびえ立つと競争する相手がなかった。そのため自尊心が一層高くなり、自分のものだけを大切に考え、万物を見下すのが当然だと考えた」と厳しく批判している。中国の歴史は、王朝交代を繰り返しながらも、常に自らが世界の中心であるという「天下思想」に裏打ちされてきた。

​魯迅(画像=The Legacy and Works of Lu Xun/PD China 1996/Wikimedia Commons)

中国人の傲慢さと自尊心は、様々な自称からも読み取れる。中国は自らを「華夏」「中華」「神州(しんしゅう)」などと呼んできた。「華夏」の「華」は服装に刺繍された美しい花柄を意味し、華やかで美しいことを表す。「夏」は礼楽(れいがく)によって統治される理想的な秩序が整った状態を指す。つまり「華夏」とは、「美しく華やかな理想的な国家」という意味なのである。

■「戦狼外交」が生まれた背景

「中華」の「中」は単なる地理的な中央という意味にとどまらず、高級文化を有する世界の中心という意味を内包しており、「神州」は「天が降りた国」という意味で、天の下で自分の民族が特別な存在であるという一種の選民意識を表している。つまり、中華思想の根底には、中国が世界の文明的中心であり、周辺の民族や国家はすべて「蛮族」であるという世界観が存在するのだ。

こうした中華思想は長い間、中国人のアイデンティティの核心として形成されてきた。ところが、近代に入って経験した屈辱は、この伝統的世界観を根底から揺るがすものだった。強烈な民族的自負心を持つ中国にとって、西洋の「蛮族」はもちろんのこと、自分たちより文明水準がはるかに劣ると考えていた日本にまで敗北したことは、想像を絶する屈辱だったのは間違いない。

彼らは、自らが「文明」の中心であり、他者は「未開」であるという根強い信念を持っていたため、その「未開」な存在に敗北したという事実が、精神的基盤を根本から揺るがしたのである。

この屈辱感は現代中国の対外関係にも大きな影響を与えている。中国が見せる攻撃的な外交姿勢、「大国としての尊厳」を強調するいわゆる「戦狼外交」スタイルの背景には、この歴史的な屈辱の記憶と、それを克服しようとする強い意志が存在している。彼らは、過去の屈辱を二度と繰り返さないために、自らの力を誇示し、国際社会における発言力を高めようと躍起になっているのだ。

■大英帝国が仕掛けた最悪の罠

中国近代史で避けて通れないのが、1840年のアヘン戦争である。この戦争は世界でも最も「不道徳な戦争」と呼ばれ、中国の屈辱的な近代史の出発点となった。

アヘン戦争末期、鎮江府を占領するイギリス軍(画像=Thomas Allom、G. N. Wright/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

18世紀半ばのイギリスの産業革命の成功が、アヘン戦争の背景にある。大量生産体制を確立したイギリスは、その商品を販売する市場を必要としていた。イギリスが目をつけたのが中国だったが、中国は自給自足が可能であり、イギリスとの自由貿易に無関心だった。

しかし、イギリス王室や貴族社会では中国の茶文化が急速に広まり、イギリスは中国から大量の茶を輸入するようになった。当時の貿易決済は主に銀で行われていたため、イギリスは大量の銀を中国に流出させ、深刻な貿易赤字に陥った。

イギリスはこの問題の解決手段として、東インド会社を通じて、インドで栽培したアヘンを中国に販売する策略を選んだ。販売をスムーズに拡大させるため、まず港の荷役労働者に無料で提供し、大量のアヘン中毒者を作り出した。この販売戦略は次第に都市部まで拡大し、ついには一般家庭にまで浸透し、アヘン中毒者が溢れるようになった。

■ボロ負けしたのに危機感ゼロ

社会の荒廃と民衆の健康被害は深刻を極め、清朝政府は国家の存亡に関わる危機感を抱いた。清朝は直ちに重臣の林則徐(りんそくじょ)を広東に派遣し、アヘンの没収と処分を断行した。清朝からの予想外の強硬策に激怒したイギリスは、1840年4月に賛成271票、反対262票のわずか9票差で中国との戦争を正式に決定した。80万人の大軍で参戦した中国は、わずか7000人(終戦直前で2万人)のイギリス軍に惨敗する。近代兵器と戦略の差は歴然としており、中国の伝統的な軍事力は西洋列強の前には無力であったことを露呈した。

惨敗した中国は1842年にイギリスと「南京条約」という不平等条約を締結し、香港をイギリスに割譲しただけでなく、上海、広州など5つの沿海都市をイギリスに開放した。

この不平等条約の締結を見たアメリカ、フランスなどの西側諸国も、清朝にイギリスと同様の条件での条約締結を迫り、さらに教会の建設、宣教活動の自由なども確保することに至った。

このような西側諸国との不平等条約を相次いで締結したにもかかわらず、清朝の官僚、知識人などに危機意識はあまりなかった。彼らは中華文明が西洋文明よりはるかに優れているという自負感を持ち続けていたのである。彼らは西洋の技術を「奇技淫巧(きぎいんこう)(取るに足らないつまらない技術)」と見下し、その本質的な脅威を理解しようとしなかった。

■「格下の日本」に負けた屈辱の記憶

この驕りに決定的な打撃を与えたのが、1894年の日清戦争での日本への敗北、そして「下関条約」という屈辱的な不平等条約の締結だった。今でも多くの中国人が、日清戦争での敗北こそが中国人に真の危機意識を植えつけたと指摘する。

下関講和談判 永地秀太筆(画像=明治神宮崇敬会/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

当時、清朝の官僚や知識人にとって、中国より文明レベルがはるかに低いと捉えていた日本に敗北することは全く想定しておらず、この敗北は衝撃をはるかに超える出来事だった。これまで「蛮族」と見下していた存在に自らが屈服させられたことは、民族的自尊心に対する深刻な打撃となった。

文学者の郭沫若(かくまつじゃく)は自伝で、かつて日本留学時に経験したことについて次のような記述を残している。

「日本人よ、日本人よ、恩知らずの日本人よ。中国が一体どこが君たちより下手なのか、君たちがこのように僕たちを蔑視するのか。君たちは支那人という三文字を書くとき、すでに君たちの極端な悪意を表現する。君たちは支の字を言う時は鼻をしかめ、君たちが僕を話す時は鼻声を長く伸ばす」

■蔑称「小日本」に隠された意味

日清戦争の勝利以後、日本人は中国人を過去のように「清国人」と呼ばず、卑下する意味で「支那人」と呼び始めた。中国人としては到底受け入れられない侮辱だった。

李虎男『中国は覇権を握るのか』(光文社新書)

郭沫若は、かつて中国が日本に文化などすべてを伝えたのに、日本が力を持つと恩知らずにも中国人を支那人と呼び、無視し、侮辱することに憤っているのだ。

この屈辱の記憶は現代の中日関係にも深い影を落としている。中国の愛国主義教育において日清戦争は重要な位置を占め、「小日本」という蔑称に込められた複雑な感情は、かつて見下していた相手に敗れた屈辱感の裏返しでもある。

この歴史的経緯が、現代の中国の対日感情、そして国際社会における中国の振る舞いに、深く影響を与えていることは疑いようがない。

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李 虎男(り・こうなん)
前延辺大学科学技術学院教授
1993年、中国・延辺大学朝鮮言語文学科を卒業後に来日。上智大学大学院文学研究科、中央大学大学院法学研究科を経て、2005年に中央大学より法学博士号を取得。韓国・西江大学、慶南大学極東問題研究所客員研究員を歴任し、延辺大学科学技術学院教授、創価大学法学部客員教授を務めた。主な著作に『韓国歴代政権の統一政策変遷史』(共訳、2011年)『朝鮮民族の歴史』(共著、2016年)、などがある。
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(前延辺大学科学技術学院教授 李 虎男)