財津和夫「生ける屍になった気分だった」大腸がん手術、抗がん剤治療、うつ状態…過酷な経験から得た2つのこと
1972年に「魔法の黄色い靴」でデビューし、「心の旅」「青春の影」「虹とスニーカーの頃」などのヒット曲を生み出したミュージシャン・財津和夫さん。財津さんが所属するバンド「チューリップ」は、2027年に55周年を迎えます。そこで今回は、財津さん初の自伝『大丈夫さ 私の履歴書』より一部を抜粋し、財津さんの言葉をお届けします。
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病気
2017年5月、福岡での仕事を終えて散歩していたら、左側の鼠径部の少し上が猛烈に痛み出した。数カ月前に右側の鼠径ヘルニアを手術したが、様子が違う。そういえば少し前から便秘が続いていた。タクシーで救急病院に駆け込み、問診の途中で意識を失った。腸閉塞だった。急いで手術してもらった。
手術の際に、がん細胞が膨らんで腸閉塞になったのではないかとの医師の見立てがあり、検査をするとやはり大腸がんだった。ステージ3.5。かなり進行していた。チューリップの45周年ツアーの最中だったが、残りの5公演を中止し、治療に専念した。
手術は無事終えたが、つらかったのは4カ月続いた抗がん剤治療だ。なかでも味覚障害には閉口した。喉が渇いてジュースを飲むだけで気持ち悪い。喉を通るのはシャケとパンとバターくらい。
なんとか命をつないだが、生ける屍になった気分だった。ともあれ今に至っても再発はなく、寛解状態といえるだろう。
うつ状態も経験した
50代半ばの2年ほどはうつ状態も経験した。それまでも大小のストレスはあったが、加齢に伴ってはね返す力が減ったのかもしれない。
思春期の子供たちに難しい問題がいろいろ発生し、父親の役目を果たせていないという自責の念も影響したように思う。

『大丈夫さ 私の履歴書』(著:財津和夫/日経BP 日本経済新聞出版)
コンサートの前日などに眠れなくなった。眠気を催すという酔い止め薬をベッドサイドに置いて横になるのだが、なるべく薬には頼りたくない。
結局、薬は飲まなかったが、体が震えたり、脂汗をかいたり、ほてったり、さまざまな症状がでてきた。不安が募り、クリニックにも通った。
音楽が救いになる
病気を経験して得た収穫のひとつは、病人の気持ちが理解できたことだ。「頑張れ」は禁句だとよくいうが、身をもって経験した。
もうひとつは音楽が救いになる実感を得たことだ。マーラーの交響曲第5番第4楽章アダージェットと、ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調の第2楽章を繰り返し聴いた。
マーラーは私にとって健康なときに聴くと苦しくなりそうな曲だが、当時の私の精神を持ち上げてくれた。
元気づけてくれるのではなく、地上から天上へ引き上げてくれるような。ラヴェルは以前から愛聴していたが、ゆったりした気分になる。昼はラヴェル、夜はマーラーの日々だった。
「頑張れ」ではなく「大丈夫さ」と
私は2004年に大阪芸術大学の教授に就任し、今は作詞を教えるゼミを開いている。19年からは福岡でも作詞講座を始めた。
作詞といっても、初心者がメロディーを意識したら出来合いの言葉のパッチワークになってしまうので、まずは思いの丈を吐き出してもらうのだ。言葉を発することが、受講者たちの救いになることを目の当たりにした。
音楽が人を救うといっても、私にマーラーやラヴェルのような曲が作れるわけがない。ならばせめて歌詞で聴き手に寄り添う曲を作れないか。若い頃はサウンドやメロディーが優先で歌詞は二の次だったが、ここに至ってほぼ初めての歌詞からの曲作りを始めた。
難産の末にできた曲が、22年3月に発表した「人生はひとつ でも一度じゃない」だ。「頑張れ」ではなく、「大丈夫さ」と繰り返す。この曲を作っている最中はがんの後で体力も落ち、「引退」の2文字が頭の中をちらついていた。だから「大丈夫さ」は自分に向けた言葉でもあったのだろう。私にとって初めてのメッセージソングで、目下の最新曲だ。
※本稿は、『大丈夫さ 私の履歴書』(日経BP 日本経済新聞出版)の一部を再編集したものです。
