鎌倉幕府滅亡の理由は実は「いまだに不明」だった…その前夜から振り返れば見えてくるもの
先般完結したばかりのマンガ『逃げ上手の若君』でも描かれた鎌倉末期から南北朝期。研究の進展により、この時期の世界像は近年、続々と塗り替えられている。例えば、新田氏は北条氏に抑圧され、困窮していた貧乏武士……ではなく、北条氏と密接な関係にあったことも分かってきている。しかし、それでも不明なのが鎌倉幕府滅亡の理由である。なぜ未だに不明とせざるを得ないのか?
新田義貞は源氏の嫡流ではなく足利氏庶流だったことを洗い出し、『太平記』の影響力を指摘した歴史学者・谷口雄太氏が解説する。
※本記事は、谷口雄太『太平記史観 日本人の歴史認識を支配した物語』(角川新書)から抜粋・編集したものです。
鎌倉幕府滅亡の理由はいまだに不明
事態が大きく転回するのは、元弘三年(一三三三)四月〜五月のことです。
配流先の隠岐国から脱出して勢力を拡大する後醍醐天皇に対峙すべく、幕府は名越高家(北条一門)と足利高氏(足利尊氏)の連合軍を鎌倉から進発させます。両者は西上するも、四月二十七日、名越高家は突如戦死し、これを受けて足利高氏は一気に反乱軍へと加担するにいたったのです。
なお、足利高氏が幕府を裏切った、見限ったことにつき、足利氏にもともとそのような計画があったかのような見解もあります。『太平記』にもそのようにあります。足利氏が北条氏に対して思うところは、いろいろとあったのかもしれません。否、不満などは当然多々あったはずです。むしろ、「ない」という方がおかしいというべきでしょう。これは別に足利氏に限らず、北条一門・被官・外様の人々の全てについていえることです。また、わたしたちと社会の関係でもいえます。
とはいえ、不平不満という思考を抱くことと、実際に叛逆という行動を起こすことの間には、相当の懸隔・飛躍があるのではないでしょうか。
そこで、鎌倉幕府の滅亡前夜に戻ってみましょう。
元弘三年三月、幕府は荒れる西国情勢を前に、鎌倉から新たな大軍を派遣します。大将は北条一門の名越高家と、足利高氏でした。ここでまず留意すべきは、足利氏が幕府の支柱と目されていて、実際に足利・北条両者は密接な関係にあったことです。本来、敵ではないのです。
最盛期を迎えた幕府が突如崩壊
足利高氏の妻は赤橋守時(北条一門で執権)の妹で、子の足利千寿王(足利義詮)とともに鎌倉にいました。『神皇正統記』も、「これ(足利氏)は(北条氏の)外孫なれば、取立て、領ずる所などもあまたはからひをき、代々になるまでへだてなくてのみありき」とあります。『太平記』にも、「骨肉の如」・「水魚の思」と見えます。足利氏と北条氏の緊密な関係は、当時、よく知られていたのです。むろん、両者には緊張関係もあったでしょう。ですが、協調関係には強いものがあったのです。
四月、名越・足利の両軍は入京します。このときの様子を『竹むきが記』は、「東国の夷ども近づくと聞ゆれば、皆人色を直す」、つまり、「ほっとした」と記しています。『太平記』も、「足利殿・名越殿両勢又雲霞の如にて上洛せられたりけれは、何しか人心かはりて今は何事か有へきと色をなほして勇合り」と記しています。要は、戦場となっていた京都やその周辺での合戦もこれでおわる、ようやく幕府が勝利すると、このとき、多くの人々が確信したものと思われるのです。
実際、関西の幕府軍を見渡してみますと、京都には名越・足利の援軍、六波羅を城塞化して頑強に防衛していた探題軍、南には楠木正成のよる河内国金剛山千早城を包囲していた大軍がいました。さらに関東には鎌倉の本隊もいるわけで、この時点で鎌倉幕府の将来は明るいものだったと見られるのです。現代の研究者も、幕府は最盛期に突如崩壊し(筧雅博『蒙古襲来と徳政令』)、滅亡の理由は不明であるといいます((呉座勇一『戦争の日本中世史』、谷口雄太「足利氏はなぜ特別な存在になれたのか」『歴史地理教育』九三一、木下竜馬「滅亡は必然か?偶然か?」山田徹他『鎌倉幕府と室町幕府』))。
そのような状況が大きく変化したのは、一体いつのことでしょうか。
多くの研究者が指摘しているのは、四月二十七日の出来事です。
その日、後醍醐天皇のよる伯耆国船上山を目指し、名越高家は山陽道、足利高氏は山陰道を進んでいったのですが、その途中で名越高家が突然戦死したのです。
偶然に偶然が重なっての勝利
同日、足利高氏は丹波国で幕府から離反する決断を下し、以後、反乱軍(後醍醐軍)に与していきます。足利高氏が以前から反幕府的な活動を展開していた確証はなく、そもそも名越高家の死がないまま裏切ったとしても勝算は低く、逆に足利軍は壊滅し、東国の妻子も危険に晒される可能性が高いわけです。名越高家の戦死という偶然が大きいとされているゆえんです。実際に五月上旬、関東では足利高氏の裏切りを知った妻子(赤橋登子と足利千寿王)が何とか鎌倉を脱することに成功しますが、別の子(足利竹若)は幕府の手の者に見つかって討たれているのです。
とはいえ、この時点においても、足利氏(後醍醐軍)が北条氏(六波羅軍)に勝ち切れるかは未知数でした。関西には六波羅探題軍・金剛山包囲軍がいますし、関東にも軍が控えています。事実、探題軍はこの二者との連携を模索していたようであり、『梅松論』には、「且ハ関東ノ合力ヲ相待、且ハ金剛山ヲカコメル大軍ニ事ノ由ヲ通ジテ合戦ヲトグベシ。然者、再洛中ニ攻入ン事、時剋ヲメグラスベカラズ」とあります。『太平記』にも同じような内容が記されています。たしかに、六波羅探題軍─金剛山包囲軍─鎌倉幕府軍が協力・機能できれば足利氏にとっては脅威でしょう。
結果的に五月七日から九日という僅かな期間の決戦で、足利氏は勝利を収めます。ですが、勝ち切った足利氏と、敗れ去った北条氏(六波羅探題は壊滅しました)を、『神皇正統記』は「運の極」・「不思議」としています。このような言葉でしか両者の運命を表現できなかったといえます。足利高氏からすると、名越高家の死という偶然を受けて、ギリギリの選択をし、その後、何とか六波羅軍との死闘も制し、京都を押さえることに成功します(金剛山を包囲していた幕府軍は大和国奈良へと移動・降伏しました)。
わたしたちは「結果」を知っていますので、足利高氏の裏切りと六波羅への勝利をスムーズなものと自明視しがちです。けれども、実際には「偶然」の要素が想像以上に強かったのであり、そもそも勝負事には予測不可能性や不確定さがついてまわります。
未来のことは分からない。当時の立場に立つことが重要です。
新田氏と北条氏の関係は密だった
そうしたなか、関東では足利一門・岩松経家のもとに、連絡が届きます。それは四月二十七日付けの、足利高氏からの文書でした。なお、当該史料=「正木文書」(新田岩松古文書之写)には「四月廿二日」とありますが(ちなみに、「廿」は「二十」の意味です)、四月二十二日段階ではまだ事態は少しも動いておらず、加えて、足利高氏が蹶起を促す文書を諸方面に出していくのも、現状確認されているものは全て(明確に幕府を裏切ってからの)四月二十七日以降のものばかりですので、これは「四月廿七日」の誤写(写し間違い)であろうと見られています。
つまり、足利高氏は、幕府への叛逆を決行したその日、関東(上野国)の足利一門・岩松経家に、「先代退罰御内書」(北条高時追討命令)を送ったのです。岩松経家のもとには、他にも足利高氏の「御書」(書状)や「内状」(内密の書状)も届けられています。後者についていえば、鎌倉から逃避する足利千寿王を支えた紀五氏から、岩松氏に近い足利一門・田島氏に出されており(田島氏が岩松氏の代官・代理人として動いていたことは、「相馬文書」からもうかがえます)、足利千寿王と足利一門・岩松氏のつながりがうかがえます。足利千寿王は、五月上旬頃、鎌倉から上野国世良田のあたりへと脱出し、岩松氏に連絡していたのでしょう。
そして、足利高氏は、足利千寿王とともに鎌倉幕府軍と戦うよう、新田義貞に催促・命令しています。『保暦間記』には、足利高氏が新田義貞に「(足利)高氏カ息男(足利千寿王)アリ、共ニ合戦ヲ致スヘキ」と催促し、これに「(新田)義貞、彼(足利高氏の)命ヲ受テ」戦ったとあります。岩松経家も「将軍家より御教書を賜り」と、足利高氏からの命令を受けて新田義貞と「両大将」になったと、「正木文書」(新田岩松古文書之写)は記します。要するに、西国にいた足利高氏は、東国にいた足利一門に、続々と蹶起を促したことがうかがえるのです。
他方、実は新田氏は、北条氏と密接な関係にあったことも分かってきています。従来、新田氏といえば、北条氏から抑圧されて、困窮し果てた貧乏武士であったかのように思われてきたわけです。ところが、歴史学者の田中大喜さんによりますと、上野国新田庄の世良田長楽寺の再建事業に関する再検討からは、むしろ新田─北条両者は緊密な関係にあったこと、また新田氏は「都市的な場」である上野国世良田宿を押さえるなど、地域の有力な武士であったことが分かるのだといいます(田中大喜「長楽寺再建事業にみる新田氏と「得宗専制」同『中世武士団構造の研究』)。そもそも、新田義貞の妻は、北条氏(得宗)被官・安東氏の娘と見られ、新田氏と北条氏の関係は密なものがありました。新田氏と北条氏のつながりも存在したのです。
