「今月もダメだった」…日本で行ったタイミング法ではいい結果が得られなかった。妊娠判定薬は残酷に結果を示し…

写真拡大

 駐在妻とは、夫の海外赴任に同行する妻のこと。駐妻は一見、華やかそうなイメージがあるが、実はさまざまな問題を抱えるケースも多い。実母も駐妻であり、自身も駐妻を経験した、臨床心理士で公認心理師の前川由未子さんは、そういった「まわりに理解されづらい駐妻問題」専門のメンタルカウンセラーだ。前川さんが相談を受けた事例から、駐在生活にまつわるさまざまなトラブルや実態を紹介する。

 ***

【写真を見る】これぞ「駐妻」…!上品かつ知性にあふれた美貌の前川さん。自死してしまった元モデル実母もまた駐妻を経験している

 物流会社に勤務する夫・紀之さん(仮名、37歳、以下同)のタイへの赴任に伴い、現地へ帯同することを選択した妻の彩さん(38歳)。それまでは共働きで家計を支えていたが、渡航を機に勤めていた会社を退職した。

「今月もダメだった」…日本で行ったタイミング法ではいい結果が得られなかった。妊娠判定薬は残酷に結果を示し…

「キャリアを捨てるのは痛手でしたが、年齢を考えると妊娠適齢期の猶予が少なく、夫と離れて暮らす選択肢はありませんでした。赴任と自身の年齢を考慮すると、キャリアや帯同の有無について、自分の意志というよりは、外軸で決まってしまった感覚があり、選択の幅が狭まってしまったのは辛かったです」(彩さん、以下同)

 海外生活という限られた時間の中、退職してまで選んだ道でなんとか授かることができれば――。そんな祈るような思いを抱えて、彼女は一路、タイへと渡った。

言葉の壁と見通しの持てない不安

 妊活の第一歩として始めたのは、クリニック探し。タイは不妊治療の先進国といわれ、海外からも多くの患者が訪れる。

「ネットの限られた情報から手探りで実績や通いやすさを調べ、不安の中で手続きを進めました。日本語通訳が常駐している病院を選びましたが、やはり言葉の壁は厚かったです。医師との密な信頼関係が重要な不妊治療において、細かいニュアンスが伝わらず、『今この進め方でいいのか』『この検査は本当に必要なのか』と、常に先行きが見えない不安がつきまといました」

 日本でタイミング法を試していた彩さんは、現地で人工授精からスタート。思うような結果が出ず焦りが募る中、身体的・金銭的負担の大きい体外受精へのステップアップを決意した。体外受精などの場合、受精卵の移動ができないため、いつ帰任命令が出るかわからない駐在生活において、その決断には大きな不安があったという。

 祈るような思いで臨んだ初回で待望の妊娠を果たしたが、妊娠3か月のとき、流産という過酷な現実が彼女を襲った 。

「ようやく授かったのに、何がいけなかったのかと自分を責めては涙する日々でした。どうして私だけ、と周りを羨む気持ちも抑えられませんでした」

流産したら自己負担。冷酷な線引きが追い打ち

 心身ともにボロボロになった彼女をさらに追い詰めたのは、夫の勤務先の保険規定だった。

 日本国内では、2022年から不妊治療が保険適用となったが、この時はそれ以前。また、海外派遣中の出産にかかる諸費用の支援は、企業によって対応が大きく分かれているのが実情。紀之さんの会社では出産費用には支援があり、不妊治療は補助対象外だったのだが、彩さんが絶望したのはその後の対応だった。

流産した途端、それまでの妊婦検診費用が全額自己負担になるという規定を突きつけられました。金額そのものよりも、心身ともにボロボロの状態だった私たちにとって、その事務的な線引きはあまりにも容赦がなく、残酷なものに感じられました」

 当時は、「不妊治療は自腹」と割り切れていた部分もあった。しかし、この思いやりのない「追い打ち」が彩さん夫婦を深く傷つけたのだった。

医師によって価格がバラバラの自由診療

 タイをはじめとする海外の医療事情は、日本とは根本的に異なる。自身もタイでの生活、出産経験を持つ心理カウンセラーの前川さんによれば、「タイの私立病院では、医師が個人事業主のように病院に集まっており、診察代を医師が自由に設定できるケースが多い」という。

「同じ妊婦検診でも、数千円で済む医師もいれば、1回3万円を請求する医師もいます。最新の4Dエコーを備える医師もいれば、いまだにお腹に聴診器を当てて音を聞くだけの医師も。質のバラツキが激しく、信頼できる先生を選ぼうとすれば必然的に高額な費用が発生します」(前川さん)

 結果として、手厚い保険でカバーされる恵まれた層がいる一方で、不妊治療や妊婦健診の費用を自腹で賄わなければならない層も存在してしまう。

偏ったコミュニティの中での孤立

 さらに駐妻たちを苦しめるのが、海外特有の日本人コミュニティという限定的な人間関係だ。タイの日本人社会は、人数的に子連れ世帯で、かつ仕事を持たず育児に専念する層が圧倒的な多数派を占める。

「未婚の方、子なし夫婦、あるいは仕事に専念している方の割合が、日本での生活に比べて極端に少ないと感じました。その偏った環境の中で、なかなか子どもができない自分を否定的に捉えてしまう機会が多かったです」(彩さん)

 また、不妊治療は非常にデリケートな問題なため、日本にいる時と同様、現地でも周囲に相談できる相手はほとんどいなかった。彩さんは当時、当事者同士のピアグループ(互助会)に参加したこともあったが、専門家が関与しない場だったために、心ない言葉でかえって傷つく経験もしたという。

後悔しないために

 前川さんは、赴任の辞令が出た際に、保険がどこまでカバーするのか、流産時の対応はどうなるのかを事前に調べるべきだと指摘する。また、家族計画について夫婦でしっかり話し合い、納得感を持って進むことが不可欠だと話す。

 彩さん夫婦は、その後2年半の駐在を終えて帰国。ほどなくして自然妊娠で赤ちゃんを授かった。現在は、自らの経験を活かし、不妊で悩む人のために、専門性と安全性の高いコミュニティを作れないかと模索中だという。

 キャリアを中断し、夫を支えるために海外へ渡る駐在妻たち。彼女たちが、企業の制度の歪みの犠牲となり、悲しい思いをすることがないように。企業側の柔軟な制度の見直しや、家族間での深い対話が求められている。

前川由未子さん
金城学院大学経営学部 准教授。臨床心理士、公認心理師。産業組織領域を専門に、これまで5000人以上の支援に携わる。2025年、海外居住者のメンタルヘルスケアを提供する(株)Taznaを設立。

取材・文/荒木睦美

デイリー新潮編集部