『グリーンブック』の精神は健在か “おバカ映画”『ボールズ・アップ』の高度なユーモア
『グリーンブック』(2018年)でアカデミー賞作品賞を手にしたピーター・ファレリーが、史実を基にしたコメディ『史上最高のカンパイ!~戦地にビールを届けた男~』(2022年)、悪ふざけコメディ『俺らのマブダチ リッキー・スタニッキー』(2024年)を経て、再び自らの原点ともいえる、フルスロットルの“お下劣バカ映画”の領域へと帰還した。新作『ボールズ・アップ』は、まさに彼がかつて『ジム・キャリーはMr.ダマー』シリーズなどで見せていたコメディジャンルへの先祖返りともいえる作品である。
参考:『グリーンブック』はアカデミー賞作品賞にふさわしかったのか? 批判される理由などから考察
本作の主人公は、新作コンドームの開発者とセールスマンというコンビだ。彼らがワールドカップ決勝戦の熱狂に沸くブラジルへと乗り込み、そこで国際的な騒動を引き起こしたことで、国中から命を狙われる逃亡劇を繰り広げることになる。この、設定を聞いただけでその“くだらなさ”が予想できてしまう。
しかし、本作公開後の評判は、かなり悪いと言わざるを得ない。大手レビュー集計サイトでは低いスコアを記録し、批評家からは「時代遅れ」だったり「主人公たちが不快」などといった厳しい言葉が投げつけられた。しかし、このオスカー監督が再び手がけた「おバカ映画」は、単なる才能の衰えによる失敗作なのだろうか。ここでは、本作が真に提示しようとしたものについて、多角的な視点から検証していきたい。
この物語のあらすじを詳しく書き出していくこと自体、少しバカらしく思えてくる。マーク・ウォールバーグとポール・ウォルター・ハウザーが演じるのは、“ボール(陰嚢)”までも完全にカバーするという画期的なコンドームの開発者とセールスマンのコンビだ。彼らがブラジルW杯の観戦中に犯してしまうミス」は、国際的な騒動を引き起こしてしまう。この二人は、サッカーを崇めるブラジル国民たちから文字通り命を狙われる標的となってしまうのだ。
周知の通り、ブラジルは世界でも最高といえるほどの歴史や文化を背景に持つサッカー王国である。そんな場所でサッカーファンを敵に回した二人が追われるのは、正気を失った暴徒や、冷酷な麻薬王やギャング、さらにジャングルのアリゲーターといった面々だ。このように、倫理観を無視したようなスラップスティックは、かつてのファレリー監督のそれを強く想起させる。
本作が批判された理由は、劇中にちりばめられた、アメリカ人の異文化に対する無知にあるといえそうだ。劇中のブラジル描写はステレオタイプな描写の連続である。国民たちがサッカーに狂い、街は麻薬を扱う凶悪なギャングに支配され、警察は強権的で人権を軽視している……。そこに描かれるのは、偏ったイメージを増幅させた“記号”としてのブラジル像なのである。
そこには一部のアメリカ人が心の奥底で抱いている「サッカーなんて退屈なスポーツだ」という、ある種傲慢な偏見までもが含まれる。とくに批評家たちがこうした描写を嫌ったのは、そうした偏見を助長しかねないという意味では、当然の反応といえるのではないか。
とはいえ、ここで一度立ち止まって考えてみたい。『グリーンブック』で人種間の軋轢を描き、オスカーを手にしたのちのピーター・ファレリーが、果たしてステレオタイプ満載の偏見に満ちたコメディを、こうして悪気なく発表できるだろうか。むしろ本作は、そうしたアメリカ人の無知や傲慢さそのものを、一歩引いた冷徹な目線で、笑いの対象として見せているのではないだろうか。
象徴的なのは、サシャ・バロン・コーエン演じる麻薬王の演技だ。一見、対話不能な狂気に満ちた悪役に思えるが、彼は意外にもアメリカ文化に精通していて、あまつさえサッカーという競技自体を批判してみせる。主人公たちが逃亡の過程で遭遇する自然保護活動家たちも同様だ。彼らはジャングルに隠れながら、環境破壊の象徴としてワールドカップに反対している。
2014年にブラジルで実際にワールドカップが開催された際、世界中に報じられたのはサッカーへの愛だけではなかった。大会の開催に反対する市民によるデモが、大規模に展開されたのである。筆者も当時、あれほどサッカーを愛しているはずの国民が、自国開催のワールドカップに、これほどまで異を唱えるのかと、自らのステレオタイプな認識を破壊されたことを覚えている。
劇中にジャングルの先住民が登場するくだりも、確かに偏見に満ちている。しかし、ブラジル国内のマイノリティや民衆の多様な声を拾い上げ、傲慢なアメリカ人の主人公たちがそれらに翻弄されながら各地を巡っていくという構図には、ある種啓蒙的なものを感じさせる。差別的な白人が黒人ピアニストとの旅を通じて自分の偏見に気づかされる『グリーンブック』で描かれた精神は、そんな本作のふざけた物語にも共通するといえないだろうか。
たしかに本作の表面的だけを見れば、ブラジルのステレオタイプな姿を笑うだけの映画だと捉えられるかもしれない。しかし、その騒ぎの結果としてわれわれ観客が突きつけられるのは、“ブラジル人もまた、アメリカ人と同じように多様な思想を持ち、いろいろな立場や考え方を基に世界を見ている”という、至極真っ当で、当然といえる真理に他ならない。
だがこうした当然の描写は、偏見に凝り固まっている人々にとって一つの“発見”として機能するのではないか。「イギリスの料理はまずい」、「イタリア人は口先ばかり」、「アメリカ人は自国以外のことには無知」……このような言い古された雑な記号化には、ある種の傾向を示す側面があるかもしれないが、その認識だけで他者や民族、共同体全体を語ることは極めて危険だ。こうした安易な思い込みの積み重ねは差別を助長し、ひいては憎悪や争いに繋がりかねない。
『グリーンブック』もまた、偏見にまみれた白人男性が、ステレオタイプとかけ離れた人物と長い時間を共有することで、いかに自分が身勝手な思い込みに支配されていたかを思い知らされる物語だった。本作『ボールズ・アップ』がそれと異なるのは、劇中に分かりやすい反省の描写や、道徳的なカタルシスが分かる形で用意されていないということだろう。
そうした分かりやすい反省を描かないことで、本作はあくまでお気楽なコメディとして、とにかくお下劣要素を楽しめる作品に仕上がっている。その意味において本作は、ある種『グリーンブック』よりも高度な試みをおこなっているといえるかもしれない。もし、この構造が批評家や観客に届かず、単なる無神経な映画やくだらない空騒ぎに過ぎないと切り捨てられるのだとしたら、その原因はむしろ受け手の側にあるだろう。
例えば『グリーンブック』には、白人の農場主が黒人の天才ピアニストを招いてその技術を絶賛しながらも、彼を当然のように屋外の黒人専用トイレへと案内するシーンがある。この、差別を糾弾するための過激で残酷なユーモアこそが、本来のファレリー監督の真骨頂であったはずなのだ。
周知の通り、アカデミー賞をはじめとする賞レースにおいて、本作のようなお下劣コメディ作品が評価されることは稀だ。しかし同じような思想や価値観を、単にシリアスな味付けで提出すれば「格調高い」と賞賛され、ナンセンスコメディに仕上げれば、賞はおろか背景にある意図さえ汲み取ってもらいにくいのだとすれば、不公平な状況だと言わざるを得ない。こうした特定のジャンルに対する視線もまた、われわれが知らず知らずのうちに抱いている一つの“偏見”なのかもしれない。(文=小野寺系(k.onodera))
