《ワインのことを何も知らなかったんです》ミシュラン店のスーパーソムリエが語る ワインとの偶然の出会いと2万本に囲まれたパリ修行の日々【連載「酒と人生」】
歓送迎会の多い春。酒を交わしながらの歓談からこそ見えてくる人柄や人生観もあるだろう。酒のあるところには言葉がある。日々ワインとお客様に向き合うソムリエもまた、「言葉の人」だ。どのような言葉を聴き、紡いできたのか。酒場ライターの大竹聡氏が東京・銀座にフレンチの名店「エスキス」総支配人兼ソムリエの若林英司さんにうかがった。【前後編の前編】
【写真を見る】日本が誇るスーパーソムリエ・若林英司さん 酒を提供するときに大事にしていることとは…?
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日々の暮らしの中で、人は酒とどのように付き合っているか。酒の味を知ってから40年以上の歳月を経て、私はふと、そんなことが気になっている。大いに酒を楽しむ人、酒を造ることを生業とする人、さらには、忙しい日々の傍らで酒にしばしの憩いを求める人。この世には様々なお酒との付き合い方があるはずで、私はその様々な酒と人生のありようを、聞いて歩いてみたくなった。
そして、この「酒と人生」シリーズを開始し、まずは酒飲みの兄貴と慕うフォークシンガーなぎら健壱さんを訪ね、次には「イチローズモルト」を生み出したベンチャーウイスキー社長の肥土伊知郎さんにお話を聞いた。そしてこのたびは、酒を供することを生業とするプロフェッショナル、若林英司さんをお訪ねした。
若林さんは、銀座のミシュラン2つ星レストラン「エスキス」の総支配人であり、日本やフランスの最高級のレストランで修業を積んだスーパーソムリエである。「タイユバン」と「ロブション」というフランスの名店が手を組んで日本に出店した「タイユバン・ロブション」に30歳で移り、その後、フランス本国の「タイユバン」でソムリエとしての実力をつけ、30代後半には「タテルヨシノ」そして40代で現在の「エスキス」へと活躍の場をかえた。常にソムリエ界の先頭を走ってきたその経歴は実に華々しい。しかし、ソムリエを目指すきっかけは、偶然と言ってもいい出会いだったという。
「高校卒業後、長野県大町市のホテルに就職しました。入社式で、当時でも1万円くらいするいいワインを飲みましたが、全然おいしいとは思わなかった。レストランで朝、昼、夜の食事のサービスを担当していたのですが、サドヤワイナリーという甲州随一の老舗が出しているワインや、ボルドーの五大シャトーのひとつであるシャトー・マルゴーのワインを冷蔵庫で冷やしたりしていましたね。ワインのことを、何も知らなかったんですよ」
ある朝、前日の夕食のサーブをしたときに仲良くなった宿泊客が、朝食のレストランにやってきて、これを飲んでごごらんと、1本のワインをすすめてくれた。
「そのワインが、とてもおいしかった。今から思い返せばたぶんブルゴーニュだと思うのですが、ワインというのは、こんなにうまいものなのかと驚いたんです。それまで興味はなかったのに、この出会いがきっかけで、ワインのことを知りたくなり、料理の専門書を手に入れました。そこに、ソムリエコンクールの記事があった。神戸のポートピアホテルの『アランシャペル』というレストランにいらっしゃった木村克己さんが、日本人として初めてソムリエの世界コンクールに出場し、4位になったという記事でした。この記事を見た瞬間、私もソムリエになりたいと思うようになりました。そして20歳の頃、木村さんのいる店に出かけてみました。ワインリストがカリグラフィー文字で書かれていて読めない。赤ワインか白ワインかもわからない。それでもお料理に合うワインをくださいと頼んで、1万円くらいするワインを飲んだ。食後に、木村さんが来てくれたので、お話をしたら、おもしろいし、格好いいし、ソムリエへの憧れはますます強くなりました」
薦められたワインの値段は9万9000円
しかし、当時若林さんが住んでいた街でワインを売っている店は1軒しかなかった。ワインを学びたいが、チャンスもない。東京へ行くしかないと思いつつ悶々とした日々を過ごすうち、このまま長野にいたのでは、木村さんのようにはなれないという思いを強くしていった。そこで若林さんは一念発起し、東京のレストランの総支配人になっていた木村克己さんに、木村さんの店で働きたいと直談判した。すると、もうすぐ店を辞めてワインスクールを始めるので、そこに来なさいと誘われた。
「信濃大町から中央線の特急あずさ号で新宿へ出て、そこから渋谷のアカデミー・デュ・ヴァンという学校まで、片道4時間半かけて通いました。学校は毎週1回で合計20回。行くたびに6、7本のワインを買って帰りました。必死でした。目標はソムリエになること一択になっていたし、東京へ行かなければ何も覚えられない。その一念で通いました」
1987年、若林さんがホテルに入社して3年目のことだ。1964年生まれの若林さんが23歳になる年だ。まだ社会人としては駆け出しで、遊びたい盛りだったろう。けれど若林さんは、時間とカネを大胆に費やして、これと決めた学びの道を、自らの手で切り開いていった。
ちなみに1963年生まれの筆者はというと、1987年の春まで大学に籍を置きながらロクに講義も聞かず、ただ安酒を飲んでは惰眠をむさぼっていた。
ああ、これぞ、酒を巡る人生模様の明暗くっきり。後に、スーパーソムリエになる若者と単なる飲兵衛になる若者と、すでにして、ふたつの道を歩き始めていたということだ。
話を戻そう。ワインを学ぶうち、もっともっと知りたくなった若林さんは、ホテルニューオータニの「トゥールダルジャン」を訪ねた。
「有名な熱田貴さんに会いたくなったんです。それで店へ出かけて、ソムリエになりたいと伝えてから、鴨料理を頼み、お薦めのワインを尋ねたら、ロマネコンティ1972年はどうですか、と言われました。値段は9万9000円です。当時の月給より高かった。ワインスクールで勉強していたから、このワインのことは知っていましたが、結局、飲まなかったんですね。飲んでおくべきだったなと思いますよ。今、その頃と逆の立場になることがありますが、私は若い子たちに、20万円、30万円するようなワインを薦めることがあります。若いうちに最高のものを知っておくことには大きな意味がありますから」
最高級のレストランに赴き、最高の料理を味わい、そして、最高のソムリエのサービスを受ける。若い頃に、なかなかできることじゃない。若林さんにはしかし、それをしなくては収められない気持ちがあった。
なぜ同じ店で同じワインを頼んでも味が違うのか
長野を出ることにした若林さんは、浜松の「エピファニー」、小田原の「ステラ・マリス」などで、当時の一流のシェフのもとでソムリエとしての修業を積み、30歳になる頃、「タイユバン・ロブション」に誘われた。
パリの「タイユバン」のオーナーであるジャン・クロード・ヴリナ氏の面接に合格し、ソムリエとしての充実したキャリアが始まった。
「ロマネ・コンティとか、ラトゥールなどが普通に出る店で、私も毎日、30本から40本のワインを抜いていました。オーナーのヴリナさんからは、セラーの整理を任された。ランチの営業が終わるとセラーに行く。2万本くらいのワインがあった。整理するのはたいへんな仕事ですが、私は好きなワインとずっと一緒にいられるからこの時間が好きでした」
そんな暮らしが4年ほど続いた頃、若林さんはヴリナさんからパリへ来いと言われた。
「それまでにも何度もパリには行っていましたが、暮らしたのはこのときが初めてでした。パリでも私は、ソムリエとして働きながら、ワインの管理を任されました。毎日、カーヴに入ってワインの整理です。同じ銘柄、同じビンテージでも、ワインは瓶の状態によって味が違います。瓶を横にしているブルゴーニュのワインだと、そのまま抜栓して注ぐと澱が混じるので、ボトルを立てて澱を下げます。5日間くらいかけてこの作業をするのですが、そのとき、液面の高さと、コルクの状態をチェックする。コルクが硬いのは乾燥しているからで、ワインも辛く強い感じ。柔らかいのは湿っていて、ワインにも甘味が出ています。このとき、ボトルの肩のあたりの液面を見て、少し下がっているくらい、つまり瓶の中で少し熟成しているのがジャスト飲み頃です。私はセラーの整理をしながら、『タイユバン』が仕入れる高品質のワインの中でも状態のいいものを選り分け、自分用の箱に入れていました。するとどういうことが起こるか。お客さんからしたら、同じ店で同じワインを頼んだのに、私が抜くワインのほうがおいしいということが起こる。状態のいいワインを、あらかじめ選んでいるのだから、当然です」
同じレシピのカクテルを同じ材料、同じ条件でつくっても、バーテンダーによって味は違う。そのことは筆者なども知っているのだが、同じワインを抜いても、ソムリエが違うとワインの味も違う。そういうことが起こるのだ。
「セラーの整理の後は午後4時半に賄いを食べて、5時半からお客さんが入ります。ご自身はこれとこれ、奥さんはこれとこれ、と、お料理を注文して、さて、1本抜くとしたら、どんなワインがいいかな? そんな難しい問いかけをしてくるお客さんがたくさんいました。鍛えられましたね。遅いときは午前2時くらいまで店にいました。今では考えられないけれど、1日14時間くらい働いていた。でも、あの経験を30代にできたから、今があると思います。やりきった感じがあるし、実際、本当にたくさんのワインを抜きました。密度の高い日々に、お客さんの高い要求に対応してきました。そうしているうちに、私がサーブしないといけないお客さんが増えていましたね」
この料理にはどんなワインがいいか。その相談ができるのがソムリエだ。客はソムリエを相手に、ワインと料理について言葉を交わし、実際に味わってみて、そのマリアージュに対して感想を抱く。それをソムリエに話すことで、楽しさを分かち合えるわけだ。つまり、ソムリエは、できるかぎりいい状態のワインを提供するだけでなく、どの料理にどんなワインを合わせるかという対話を通じて客を喜ばせる役割を果たしているのだ。
「私はワインも、料理もつくっていません。私がすることは、料理そのものはもちろん、ワインの醸造家やシェフのことを説明すること。そして、こんな組み合わせがおいしいですよと提案することです。シェフの料理をよりおいしく食べていただくために、最高のワインを選ぶ。それがソムリエの仕事です。しかし、提案すればOKというわけではないんです。フランス時代には、私がこのワインはいかがでしょうとお薦めするのに対し、お客さんが、いや、こっちはどうだろう? と訊いてくることが多かった。フランス語の"mais"(メ)は英語のbut、しかし、の意味ですが、フランス人は、すぐに、メ、と言うんです。それもいい。しかし、これはどうかな? と意見を出すわけです。それをひとくさりやらないと気が済まない(笑)」
通り一遍の答えで、客は満足しない。このような難しい客に、最高級レストランのシェフソムリエとなった若林さんは、どんな気持ちで対応していたのか。
「酒を提供するときに大事なことは、自分の感じ方です。その酒に対する思いや、お薦めするだけの素敵なところ、あるいは造りの特徴などをきちんと整理して、この酒がすばらしいと感じていることが必要です。それを感じていない人は、お酒のサービスをしてはいけないと思うんですよ」
自分が本当にいいと感じたものを薦める。それによって、今日のボトルを何にするか、あるいは次のグラスを何にするかを考え、迷い、語るという楽しい時間が醸成される。ソムリエは、至福の食卓という交響曲の、作曲家であり指揮者だ。
(後編に続く)
【プロフィール】
若林英司(わかばやし・えいじ)/1964年長野県生まれ。エスキス総支配人兼ソムリエ。1995年より東京・恵比寿の「タイユバン・ロブション」シェフ・ソムリエ、2003年より「レストラン タテル ヨシノ」の総支配人を務める。2012年から銀座、エスキス勤務。エグゼクティブシェフ、リオネル・ベカの料理をペアリングで華やかに盛り上げる。2023年「ゴ・エ・ミヨ2023」ベストソムリエ賞、2024年「ミシュランガイド東京2025」ソムリエアワード受賞。テレビ等でも活躍し、ペアリングの醍醐味を伝える。
取材・文 大竹聡(おおたけ・さとし)/1963年東京都生まれ。出版社、広告会社、編集プロダクション勤務などを経てフリーライターに。酒好きに絶大な人気を誇った伝説のミニコミ誌「酒とつまみ」創刊編集長。『中央線で行く 東京横断ホッピーマラソン』『下町酒場ぶらりぶらり』『愛と追憶のレモンサワー』『五〇年酒場へ行こう』『酒場とコロナ』など著書多数。マネーポストWEBにて「昼酒御免!」が好評連載中。
