明治のシンママ大関和の就職難。文明開化の東京で最強のスキル「英語」を身につけ高収入を狙うが…【朝ドラ『風、薫る』】
2026年度前期朝ドラ『風、薫る』の主人公のモデルとなった大関和(チカ)はどんな人物?近・現代歴史作家の青山誠さんが考察する(第2回)。
文・写真=青山誠
仕事を得るため上京。しかし…
離婚成立後の明治14年(1881)、和は子供たちと母や妹の一家を引き連れて上京した。黒羽には女を雇ってくれる仕事がなく、このままでは、蓄えが尽きて野垂れ死ぬのを待つばかり。そうなる前に賭けに出ることにした。文明開花の東京ならば、女が自立して働ける場所があるかもしれない、と。
江戸時代に人口百万人を超えた世界最大級の大都市は、維新後の明治2年(1869)に布告された「桑茶令(くわちゃれい)」により大変貌する。東京府は外貨の稼ぎ頭である生糸と茶の増産をめざし、空家となった武家屋敷を桑畑や茶畑に転用する政策を推し進めたのだが…。結果、102万坪の武家地が桑茶畑になり、都心は肥臭い農村地帯になってしまう
しかし、東京の土壌は農地に向かず収益はさっぱりあがらない。また、西南戦争後は中央集権が強化され、東京に人や金が集まる一極集中が顕著に。維新後に激減した人口もV字回復し、住宅需要が高まっていた。
採算のあわない茶畑や桑畑は、借家経営や宅地開発に転用されるようになる。都心が再び都市化されてゆく、和が上京したのはそんな過渡期の頃だった。
同郷人の借家で新生活スタート
和の一家は神田五軒町(現在の千代田区外神田)に家を借りて住んだ。
“五軒町”の名称は江戸時代に5つの大名屋敷が建っていたことに由来し、その北西の一角にはかつて黒羽藩大関家上屋敷があった。黒羽藩邸も桑畑になっていたが、敷地の一部は維新後も大関家が所有し、上京してきた旧藩士やゆかりの者たちを住まわせていた。
近年は新参者が増え、桑畑の中に次々と真新しい家が建つようになっている。畑の間に通っていた細い畦道は、家々が軒を連ねる路地になってゆく。資産のある者は何軒もの家を所有して、借家経営を始めるようになる。和が住んだのも、そうした同郷者が経営する借家だったようである。
隣近所は同郷者の知った顔ばかり。みんな平坦なアクセントと濁音の多い北関東特有の訛りのある言葉を喋るものだから、まだ黒羽にいるように錯覚してしまう。先に上京してきた者は、後から来た者に東京の暮らし方を教え、仕事の世話をしてくれたりもする。和もそんな同郷者の先輩たちに助けられながら、東京の暮らしに馴染んでいった。
セレブ女子の漢字ブームに乗って改名
じつは「和」の名前が漢字になったのは上京後のことで、黒羽にいた頃はカタカナの「チカ」を使っていた。母の哲も「テツ」で、妹の釛は「コク」だったが、みんな上京後は和にならって漢字名に改めている。
明治時代後期頃になると、世間でも女子の名前に漢字表記が流行るのだが、それには時代が少し早い。この頃はまだ、女性の名には「ウメ」「カメ」といったカタカナ二文字を使うのが圧倒的に多く、庶民だと漢字名はまず見かけない。しかし、貴族や大名の女性たちは、それよりも遥か昔から名前に漢字を用いてきた。
女子にも漢字名を使うのが普通だった貴族や大名は、維新後は「華族」という地位に再編された。
その大半が住むようになった東京には華やかな社交界ができあがり、維新後に力を得た官僚や財界人もそこに加わるようになる。その多くが地方出身の田舎侍や庶民階層の商人が出自だけに、彼らの妻や娘たちもカタカナ名だったが、すぐに華族を真似て漢字名に改めるようになる。見慣れない漢字の名前に、高貴でお洒落な印象があり憧れたようだった。また、名前の下に「〜子」をつけると、さらにハイソ感が増すということで、これも当時は流行ったという。
文明開化でも女が稼ぐのは難しい
和が漢字名を使うようになったのも、そんな上流社会のトレンドに影響されたもの。家老の娘という肩書きは東京でも威力を発揮して、華やかな社交界の催しに参加する機会も多かったようである。
たとえば、明治17年(1884)6月12日には鹿鳴館で華族の夫人たちが開催した慈善バザーに参加したことが記録に残っている。
これは、大蔵省高級官僚の鄭永慶(ていえいけい)が手引きしたものだったという。ふたりが知りあった経緯は不明だが、鄭は和のことを気に入り色々と世話を焼いてくれる。
近松門左衛門の人形浄瑠璃『国姓爺合戦』のモデルとなった武将・鄭成功の末裔で、後に大蔵省を退職して日本初の喫茶店「可否茶館」を経営するようになるのだが、もともと官僚らしくない風変わりな自由人。また、中国語やフランス語、英語などの複数の外国語を使いこなすマルチリンガルで、和も彼の影響で英語を学ぶようになる。
和が英語を学ぶのはお遊びや趣味ではなく生きるため、仕事を得るためだった。東京でも職探しには苦戦している。東京でも女が自立して生きるのは難しい。
女を雇ってくれるのは製糸工場の女工か、富裕な家の女中くらい。それではとても子供たちを養っていける収入は得られない。また、小学校教師か産婆(助産婦)といった専門職もあるのだが、これも男の専門職に比べると収入はかなり見劣りする。文明開花の世といいながら、女を取り巻く状況は近代化から取り残されて放置されている。
英語が最強の武器になる理由
文明開花の象徴である鹿鳴館が完成したのは明治16年(1883)のこと。不平等条約の改正を悲願とする明治政府は、欧米の生活様式や文化を積極的に取り入れて「日本が近代化を達成した文明国である」ことを世界にアピールする欧化政策を推進していた。
鹿鳴館はその象徴的存在。広々とした舞踏室や大食堂、談話室、バーなどを備えた煉瓦造り2階建ての洋館には外国要人や外交官が集い、夜な夜な贅を尽くした宴が催されていたのだが…必死で欧米を模倣する日本人の姿が、外国人の目には滑稽に映る。フランスの紀行作家ピエール・ロティも『江戸の舞踏会』で、鹿鳴館で目にした燕尾服姿の日本人男性を「猿にそっくり」と嘲笑している。
欧米人に小馬鹿にされながら、それでも日本人は必死になって欧米を模倣した。欧米からの輸入品は何でも「舶来品」と呼ばれて珍重され、それが長らく「高級品」と同義語で使われたりしていた。英語を学んでいる者はインテリとして崇められて就職にも有利だった。
また、日本の産業界は様々な機器や物品を欧米からの輸入品に頼っている。製品に同封されてくる説明書の翻訳は不可欠だし、外国との書簡のやり取りにも翻訳者が必要になる。政府や企業にもお雇い外国人が多いから、通訳者もそれなりの数を揃えねばならない。
その高い需要に比べて、この頃の日本では英語を話せる者はごく限られている。翻訳者や通訳は超売り手市場。英語のスキルは女の不利を補って余りある強い武器になる…あちこちから高給で仕事のオファーがあるだろう。と、和は皮算用していた。
英語学校でキリスト教と出会う
そのためには、もっと本格的に英語を学ぶ必要がある。そう考えて英語学校に入ることにする。
当時の東京にはキリスト教会が主催する英語学校が増えていた。明治6年(1873)にキリスト教の禁教は解かれたが、いまだ邪教のイメージが根強く、普通に布教活動をしたのでは警戒されて上手くいかない。そこで英語学校を設立して、英語の授業を通じてキリスト教の教えを日本人に伝えようとした。欧化政策を推し進める政府も外国語学習を推奨しており、英語語学ならば認可がすぐに下りた。
和が英語を学んだ「正美英語塾」もキリスト教会との関係が深い。塾の主催者である植村正度は、“日本プロテスタントの父”と呼ばれた植村正久牧師の実弟。
植村牧師も学校をよく訪れて生徒たちに神の教えを説き、また、英語のテキストにも聖書が使われていた。和の英語力が向上するのにあわせて、キリスト教の教えに感化されるようになる。このように、和は最初、東京で通訳を目指していたのだが、このキリスト教との出会いが和を看護の道に導いていくのだった。
青山 誠(あおやま・まこと)
作家。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。近著に、『大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』『小泉八雲とその妻セツ 古き良き「日本の面影」を世界に届けた夫婦の物語』(ともにKADOKAWA)。
