野田佳彦・元首相

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 144議席⇒21議席。先の衆院選で記録的な大惨敗に終わった「中道改革連合」。そのうちの「立憲民主党」系勢力の議席の増減である。率いた野田佳彦・元首相(68)が、投開票日の会見で「万死に値する」と述べたが、それが大仰に聞こえない数字だ。野田氏については、2012年、与党のトップとして迎えた衆院選でも230議席⇒57議席とやはり壊滅的な敗北を招いている。なぜ、野田氏は何度も「民主党」を壊滅させるのか。その“決定的な弱点”について探ってみた。【前編】では、今総選挙の敗北の要因と、「永田偽メール事件」を引き起こすまでの野田氏の来し方について詳述する。

【前後編の前編】

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「負け幅」は少なかったはず

 今回の選挙で、野田氏は何を誤ったのか。

野田佳彦・元首相

「公明党、創価学会の票がそのまま中道に入ると思ったのが甘すぎた」

 さる立憲民主党の関係者はこう語る。

「創価学会票が1選挙区で1万5000票あるとしても、そのうち組織の意向で動くコアなものは5000票くらいです。残りの3分の2の公明票が他党出身の候補にも入れてくれるようになるまでには、選挙を何回か経て、互いの協力体制が構築できてから。自民党だって、1999年に公明党と連立しましたが、安定して学会票を得られるようになったのは2003年、あるいは2005年の選挙からです。まして立民系の候補者は、わずか2年前の総選挙では激しく対立していたわけですから、急に入れてくれと言っても簡単にはいかない。今回は急ごしらえ過ぎて、学会票が想定より入らなかった上に、もともと立憲を支持していた有権者も合流への反発からか、中道から逃げてしまった」

 実際、共同通信社の調査では、前回参院選比例区で公明に投票した有権者が、今回の選挙で中道に入れた割合は7割、立憲民主党のそれは6割に留まったとの結果が出ている。選挙区ではこの割合はさらに低かったはずだ。

「結果論ですが、まずは選挙協力から入るなどして、徐々に融合を図るべきでした。それならば、今回の選挙ではたとえ負けたにしても、その“負け幅”は少なかったはず。野田さんはそうした勝負勘、政局観に欠け、大事な局面で重要な選択を誤ったと言わざるを得ません」

小沢一郎氏の沈黙

 では、なぜ野田氏は、短兵急な決断をしてしまったのだろうか。

「合併を強力に推し進めたのは安住(淳)幹事長と馬淵(澄夫)選対委員長です。野田さんはこの2人に交渉を任せ、彼らの言葉を鵜呑みにして合流を進めてしまった」

 野田氏のとりわけ安住氏への依存振りは明らかで、

「昨年、立憲民主党の幹事長に起用した際、彼のことを“真打ち登場です”と紹介していたのには驚いた。それだけ頼りにしていたということでしょう。口八丁手八丁の安住さんに乗っかり過ぎたのでしょう」

 加えて、思い切りにも欠けた。

「中道結成が決まった後のこと。安住さんが小沢一郎・元代表のところに、その説明に行ったんです。その際、小沢さんは“代表は誰なんだ?”と聞いた。安住さんが“野田と斉藤です”と言ったのを聞いて小沢さんは絶句し、その後、会話は続かず、安住さんはほうほうの体で事務所を後にしたとか。小沢さんはかつて非自民連立政権を作る時は、細川護熙さんをトップに担ぎましたし、新進党を結成する際は、自民党出身の元総理・海部俊樹さんを招聘しました。2012年に日本未来の党を作った際には、滋賀県知事の嘉田由紀子さんを擁立した。成功も失敗もありますが、小沢さんは新たな枠組みを作る際には、新鮮さをアピールする強い打ち出しをすべく工夫してきた人。そこからしてみれば、両党のトップがそのまま2人で代表というのは無策すぎて信じられなかったのでしょう。安住さんが帰った後、小沢さんは周囲に“あれじゃあダメだ”“野田というのは、結局何もしないんだな”とこぼしていたそうです」

「戦犯」の一人

 演説は抜群にうまい。地盤は盤石で、自らの選挙では圧倒的な強さを誇る。温厚な人柄で慕われ、仲間も多い。しかも、政策通――。野田氏の永田町での評価である。総理にまで上り詰めながら、彼のことを悪く言う人が少ないのが特徴だ。

 しかし、反面、党のトップ、リーダーとしての野田氏を見ると、選挙という冷徹な「勝負」の世界では過去2度にわたって判断を誤り、多くの有望な同志たちを落選へと追いやってきた。そればかりか、自民党に対抗すべき勢力を壊滅的な敗北に追いやり、日本の政党政治を変化、あるいは変革なきものにしてしまった「戦犯」の一人でもある。

39歳で自死

 野田氏は1957年、千葉県船橋市で自衛官の父のもとに生まれた。早稲田大学を卒業後、松下政経塾に一期生として入塾。卒塾後は県議に当選し、国政に進出したのは1992年、日本新党でのことだった。新進党時代に現在まで唯一となる落選を経験。この時はわずか105票差、惜敗率99.86%という僅差での敗北だった。1票の重みを知った野田氏は、駅前での毎日の辻立ちを続けた。これが後の選挙での強さを生むことになる。

 民主党に合流後は順調に出世を重ね、党の役職を歴任。中堅・若手議員の筆頭格として代表選にも出馬した。2005年には2度目となる国対委員長に就任するが、翌年、最初の罪を犯す。いわゆる「永田偽メール事件」だ。民主党の永田寿康代議士が、当時の自民党・武部勤幹事長とライブドア前社長・堀江貴文氏との間に金銭授受があったのでは、との疑惑を国会で追及。堀江氏は粉飾決済の疑いで逮捕、起訴されていただけに、大きな話題を呼んだ。しかし、程なく永田氏がその証拠として示していたメールが偽物であることがわかり、批判はブーメランのように永田氏へ。議員辞職に追い込まれ、前原誠司代表も責任をとって辞任する一大スキャンダルへと発展した。

「この時、野田さんは国対委員長として、メールの内容をきちんチェックすべきだったのに、それを怠って質問を許してしまった。綻びが出た後も、永田氏をかばい続けて事を大きくした張本人です。同じ千葉選出ということもあり、弟のように目をかけていたのですが……」

 その後、政界を去った永田氏は精神を病み、その3年後に自死を遂げた。39歳の若さだった。

「野田さんは墓参りをし、遺族に挨拶も果たしているそうです。東大卒、大蔵省出身の、将来有望な政治家を潰してしまったことは、一生消せない傷でしょう」

【後編】ではその後の野田氏の敗北の歴史を詳述する。2012年、民主党を政権から転落させた解散判断のどこが間違っていたのか。そしてその時、やはり彼の傍にいた「お馴染みの人物」とは――。

デイリー新潮編集部