ウクライナ侵攻の背景にある プーチンの「ロシア・ファシズム」思想。 ロシアは巨大な「カルト国家」だった 橘玲の日々刻々】
プーチンによるウクライナへの全面侵攻を予測できた専門家はほとんどいなかったというが、歴史家のティモシー・スナイダーは間違いなく、その数少ない例外の一人に入るだろう。
2014年、ロシアはクリミアを占拠し、ウクライナ東部のドンバス地方に侵攻したが、欧米諸国は限定的な経済制裁に止め、その4年後、ロシアはサッカー・ワールドカップを華々しく開催した。
ヨーロッパ(とりわけドイツ)はロシアにエネルギー供給を依存し、中国の台頭に危機感を募らせたオバマ政権もロシアとの対立を望まなかった。「クリミアはソ連時代の地方行政区の都合でウクライナに所属することになっただけ」「ドンバス地方を占拠したのは民兵でロシア軍は関与していない」などの主張を受け入れ、「ロシアはそんなに悪くない」とすることは、誰にとっても都合がよかったのだ。
だがスナイダーは、2018年の『自由なき世界 フェイクデモクラシーと新たなファシズム』(慶応義塾大学出版会)でこうした容認論を強く批判した。プーチンのロシアは「ポストモダンのファシズム(スキゾファシズム)」に変容しつつあるというのだ。
スナイダーは中東欧の11か国語を操る気鋭の歴史家で、語り尽くされたと思われていたホロコーストについて、その本質はアウシュヴィッツのガス室ではなく、ナチス(ヒトラー)とソ連(スターリン)による二重のジェノサイドだという新しい視点を提示して大きな反響を呼んだ。
じつは私は、2020年に本書の翻訳を手に取ったとき、プロローグと第1章までで読むのをやめてしまった。「歴史家としては超一流でも、それで現代の国際政治が語れるのか」と疑問を感じたからだ。
今回のウクライナ侵攻で自らの不明を思い知らされ、あらためて本書を読み直してみた。原題は“The Road to Unfreedom; Russia, Europe, America”(アンフリーダムへの道 ロシア、ヨーロッパ、アメリカ)で、フリードリッヒ・ハイエクの“The Road to Serfdom”(隷属への道)を意識しているのだろう。
ハイエクはこの名高い著作で、ソ連の計画経済は必然的に破綻し「現代の農奴制(Serfdom)」に至ると説いた。それに対してスナイダーは、プーチンが行なっているのは歴史の改竄と国民の洗脳で、そこから必然的に「自由なき世界(Unfreedom)」が到来するのだと予見する。
プーチンに影響を及ぼしたイリインの思想は「無垢なロシア(聖なるロシア)の復活」
スナイダーによれば、現代のロシアを理解するうえでもっとも重要な思想家はイヴァン・イリインだという。ロシア以外ではほとんど知られていないこの人物は、1883年に貴族の家に生まれ、当時の知識層(インテリゲンチャ)の若者と同様にロシアの民主化と法の統治を願っていたが、1917年のロシア=ボルシェビキ革命ですべてを失い、国外追放の身となる。その結果、理想主義の若者は筋金入りの反革命主義者になり、ボルシェビキに対抗するには暴力的手段も辞さないという「キリスト教(ロシア正教)ファシズム」を提唱するようになった。
イリインは忘れられたまま1954年にスイスで死んだが、その著作は、ソ連崩壊後のロシアで広く読まれるようになり、2005年にはプーチンによってその亡骸がモスクワに改葬された。プーチンは、「過去についての自分にとっての権威はイリインだ」と述べている。
イリインの思想とはなんだろう。それをひと言でいうなら、「無垢なロシア(聖なるロシア)の復活」になる。
イリインの世界観では、宇宙におけるただ一つの善とは「天地創造以前の神の完全性」だ。ところがこの「ただ一つの完全な真理」は、神がこの世界を創造したとき(すなわち神自身の手によって)打ち砕かれてしまった。こうして「歴史的な世界(経験世界)」が始まるのだが、それは最初から欠陥品だったのだ。
イリインによれば、神は天地創造のさいに「官能の邪悪な本性」を解放するという過ちを犯し、その結果、人間は「性に突き動かされる存在」になった。性愛を知りエデンの園を追放されたことで、人間は存在そのものが「悪(イーブル)」になった。だとしたらわたしたちは、個々の人間として存在するのをやめなければならない。
興味深いのは、イリインが1922年から38年までベルリンで精神分析を行なっていたことだ。この奇妙な神学には、明らかにフロイトの影響が見て取れる。
人間が存在として悪だとしても、いかなる思想も自分自身を「絶対悪」として否定することはできない。イリインがこの矛盾から逃れるために夢想したのが、「無垢なロシア」だった。邪悪な革命政権(ソ連)を打倒しロシアが「聖性」と取り戻したとき、世界は(そして自分自身も)神聖なものとして救済されるのだ。
「選挙は独裁者に従属の意思表示をし、国民を団結させる儀式でしかなく、投票は公開かつ記名で行なわれるべきだ」
イリインは、祖国(ロシア)とは生き物であり、「自然と精神の有機体」であり、「エデンの園にいる現在を持たない動物」だと考えた。細胞が肉体に属するかどうかを決めるのは細胞ではないのだから、ロシアという有機体に誰が属するかは個人が決めることではなかった。こうしてウクライナは、「ウクライナ人」がなにをいおうとも、ロシアという有機体の一部とされた。
極左の無法は、極右のさらに大いなる無法によって凌駕するほかないとするイリインにとって、ファシストのクーデター、すなわち愛国的な独裁政こそが「救済行為」であり、この宇宙に完全性が戻ってくることへの第一歩だった。そして、ロシアが聖性を取り戻すには「騎士道的な犠牲」を果たす救世主が必要で、いずれ一人の男がどこからともなく現われ、ロシア人たちはその男が自分たちの救世主だと気づくだろうと予言した。
イリインが理想とする社会は「コーポレートの構造(cooperate structure)」で、国家と国民とのあいだに区別はなく、「国民と有機的かつ精神的に結合する政府と、政府と有機的かつ精神的に結合する国民」があるだけだ。
キリスト教(ロシア正教)ファシズムの社会では、国民は個人の理性を捨てて国家(有機体)への服従を選ばなくてはならない。有権者がすべきことは政権の選択ではなく、「神に対し、この人間界に戻ってきてロシアがあらゆる地で歴史を終わらせるのを助けてくれるよう乞うこと」だけだ。
こうしてイリインは、「ロシア人に自由選挙で投票させるのは、胎児に自らの人種を選ばせるようなものだ」として民主政を否定する。選挙は独裁者に従属の意思表示をし、国民を団結させる儀式でしかなく、投票は公開かつ記名で行なわれるべきだというのだ。
イリインが唱えたのは「永遠に無垢なるロシア」という夢物語であり、「永遠に無垢なる救世主」という夢物語だ。こうして(仮想の)ロシアを神聖視してしまえば、現実世界で起きることはすべて「無垢なロシアに対する外の世界からの攻撃」か、もしくは「外からの脅威に対するロシアの正当な反応」でしかなくなる。
イリイン的な世界では、「ロシアが悪事をなすわけはなく、ロシアに対してだけ悪事がなされるのだ。事実は重要ではないのだし、責任も消えてなくなってしまう」とスナーダーはいう。
