「夫婦の愛」は気づかないほど小さな行為の中に 横尾忠則が妻から愛情を感じる瞬間
以前、本誌(「週刊新潮」)の読者から夫婦の愛情とは何んでしょうか、という手紙を頂いたことがありました。そのことについて考えたことはなかったので、返事を出さないままにしていました。
夫婦の愛情なんて別に考えるべき問題でもなく、空気をいちいち考えて吸っていないのと同じようなものではないでしょうか。
日本人から見て、西洋人は大げさに愛情表現をします。見ていてちょっとウソっぽく感じることがあります。何かの拍子に、愛情表現を怠ると、それで終ってしまうような危機感を感じることもあります。愛情はまるで薄い板の上を歩いているようで、いつ板が壊れるかも知れません。そんな緊張した状態の愛情表現を見ていて、われわれ日本人は冷や冷やします。

例えば僕が目覚める時間に妻は2階の寝室から降りて来て、台所で僕のための簡単な朝食を作ってくれて、それを僕のベッドまで運んでくれます。前にも書きましたが、この習慣はほぼ46年間続いています。
僕は9時過ぎにアトリエに自転車で向います。そのタイミングで妻は玄関まで来て、僕の持ち物をチェックしてくれます。そして庭から表通りに通じるアプローチに出て、僕が車道に向う間、見送ってくれます。大リーグのドジャースの選手が塁に出ると両手を上げて左右に振り、片足を少し曲げたおどけたポーズをしますが、それと同じポーズを妻はします。最近は片足が上りにくいと言っています。
この妻の見送り行為は一種のセレモニーになっています。このような、ちょっとしたセレモニーに僕は妻の愛を感じます。雨の日にはこのお見送りはありません。そんな時は、ふと寂しさを感じるので、不思議なものです。この風変りなお見送りの以前は、毎朝、お出掛け写真と言って妻が自転車とツーショットの写真を撮ってくれていました。
そんな写真が何百枚も溜って、ある時、大きいキャンバスに貼付して、作品として展覧会などに出品しました。一枚一枚の小さい写真を見る人は、夫婦の愛のカケラと思って見てくれているようです。昔は家の主人が出掛ける時、おかみさんが小さい火打ち石を主人の背でカチンカチンと鳴らして、主人の無事、安全を祈願するというセレモニーの習慣がありました。その行為を真似て、妻が自転車で出掛けるスナップ写真を撮ってくれていたのです。この沢山の写真をキャンバスに貼付した作品は妻とのコラボレーション作品です。こんな行為にも僕は妻の愛を感じ続けていました。
僕のアトリエができて45年近くになります。建物ができた当時、妻が2〜3度見に来ましたが、それ以後一度もアトリエに来ることはありません。アトリエは僕にとっての聖域(サンクチュアリ)と思っているのか、うかつに自分が軽々と足を踏み入れる場所ではないと心に誓っているようです。こうした妻の気遣いを僕は愛情の表現だと思っています。
夕方にアトリエから帰宅します。車道から玄関までの長いアプローチを最近、赤い色の敷石できれいに舗装しました。今さらこの歳になって、一見道楽としか思えないような無駄金の支出に対しても、妻は玄関を出て車道までの道を能の橋掛りのように考えてくれたのか、僕のやりたいようにさせてくれました。妻にとっては、この橋掛りは僕の仕事へのアプローチと考えているはずです。こういうことを容認してくれるのも妻の愛の表現ではないかと思うのです。
帰宅と同時に玄関のベルを鳴らすと、彼女は家の奥から小走りで、猫と一緒に出迎えて、「お帰り」と声を掛けてくれますが、この一言が僕の一日の仕事の疲れを一気にとってくれるのです。夜、外出することがあって遅く帰る時でも、寝ないで待ってくれています。
こんな些細なことに僕は大きい愛情を感じるのです。老齢になった夫婦の愛情というのは、このように意識しないで、ごく日常の一部として表われるものではないでしょうか。
そうそう、ひとつ忘れていましたが、わが家の夕食は僕の分だけしか妻は作りません。僕は猫に似ていて、出された食事を全部食べることはありません。必ず残こします。妻はそんな僕の残こした食べ物を食べます。僕はこんな人の残こり物を食べるようなことは絶対できませんが、妻はごく自然に食べています。
夫婦の愛とはそんなに大げさな行為ではないのではないでしょうか。西洋人に比べると、日本人は愛情表現が下手なのかも知れませんが、日本人の妻はこのような陰徳によって、立派に愛情を伝える方法を知っているのかも知れません。夫婦の愛はこのように気づかないほど小さい行為の中にあるように思います。ところが、僕もそうですが、日本の男性は愛の表現が下手です。
西洋人の愛の表現はどこかお芝居のようで、演技をしているように見えます。もしかしたら、演技が必要なのかも知れません。日本人は西洋人とは違って「愛してるよ」と言葉を発しないだけに、無言の愛を感じ、その方が真実味があります。いわゆる陰徳の愛です。愛は一種の道徳として日本人の歴史の中ではぐくまれてきたように思います。愛とは意味も説明も必要ないもののように思いますが……。
横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。
「週刊新潮」2026年4月23日号 掲載
