今も仲良し姉妹

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「あっこちゃん」「お姉ちゃん」――姉妹の呼び名は、幼少時から変わらない。由紀さおり・安田祥子による童謡コンサートが40周年を迎えたのを記念して、ベストアルバム「〜日本の四季〜」が4月15日に発売された。今でも仲良く歌い続ける姉妹デュオの誕生には、二人を見事な歌手に育て上げた、偉大なプロデューサーの存在があった。(全2回の第2回)

【写真を見る】姉妹で日本の童謡を歌い続けて40年! ベストアルバムを発売した安田シスターズの二人

姉妹で歌を

 姉妹で最初に「声」が注目されたのは、姉の祥子さんだった。幼稚園で歌う美声に、先生はこう言った。

「祥子ちゃんは将来、歌のお仕事についたらいいわね」

 この一言は、姉妹の両親、特に母の房子さんの頭に深くインプットされたという。

今も仲良し姉妹

「幼少時、横浜に住んでいたとき、近くの学校でひばり児童合唱団(*1943年、皆川和子によって設立された日本を代表する児童合唱団)が合唱会の稽古をしていたんです。それを見に行ったお姉ちゃんが、夕方になっても家に帰ってこなくて……」(さおりさん)

「出し物は『ヘンゼルとグレーテル』でした。舞台に上がった人たちは皆、お化粧をしてヒラヒラのかわいい衣装で。音も照明も本番と同じ設定でリハーサルをしていたんです。珍しさに加え、本当に素敵で……夕飯も忘れるほどでした(笑)」(祥子さん)

 心配して迎えに行った両親は、あまりに熱心に見入る祥子さんを見て「やっぱりこの子は音楽が好きなのかもしれない」と思い、ひばり児童合唱団へ入ることを進めてくれた。だが、ここで大きな問題が。

「幼いころの妹は、大変な人見知りでした。今では考えられないでしょう?(笑)。幼稚園に行っても母の姿が見えなくなるととたんに大泣きしてしまう。だから一人で留守番なんかできないんです(笑)。それで私が合唱団に行くときに一緒についてくるようになって。でも、妹の方が覚えるのが上手で、家に帰るとすぐに歌い始める。“じゃあ、一緒に入る?”となったんです」(祥子さん)
 
「ひばり組」と「すずめ組」に分かれた、安田シスターズの活動が始まった――。

「当時、“童謡歌手は大人の歌手になれない”というジンクスがありましてね。童謡からスタートした私がジャズを習い始めると、母は“リズム感を養うためには英語を勉強しなさい。歌が体の中に入ってくるようになるには、常に客前で歌わないとダメよ”と、まだ高校生だった私にキャバレーで歌わせたんです(笑)。ただ、児童福祉法もあるから、6時半と7時半の2ステージだけ。酔客にからかわれたのが嫌で、それを言ったら次の日から必ず、迎えに来てくれる。そんな母でした」(さおりさん)

 その後、さおりさんが「夜明けのスキャット」でデビュー(1969年)、祥子さんはオペラ歌手に。房子さんは二人の所属事務所の社長となる。これは幼少時からだが、二人のステージを見守る房子さんに「今日、どうだった?」と何度聞いても、帰ってくる答えは「うん、まあまあね」。ある時、さおりさんが「どうしてほめてくれないの?」と聞くと、房子さんはこう答えたという。

「あなたたち、お客様にお金を払っていただいているんでしょう? お客様によかったと思ってもらえなかったら次はないの。いつものステージで80点以上取るのは当たり前。もし、私が“今日はよかったわ”なんて言ったら、次の日から努力しないでしょう。だからほめないの」

「結局、一度もほめてもらったことはありません。本当に厳しい母でした。幼少期からプロ意識を叩きこまれましたね。“仕事は埋まっているか、ヒマしかない”という教えも身に沁みついていまして、今でもスケジュールが埋まっていないと安心できないの(笑)」(さおりさん)

姉妹で童謡を……

「夜明けのスキャット」で世に出たさおりさん。祥子さんはオペラ歌手の傍ら、東京芸大に副手として残り、結婚して渡米するとソプラノ歌手だけでなく、ジュリアード音楽院などでさらなる研鑽を続けた。

「84年、私のデビュー15周年の節目に、コンサートでオーケストラをバックに歌いたいと思い、母に打ち明けて相談したんです。“誰かゲストを呼んだ方がいいかな?”。そうしたら母は“祥子と一緒にやったらどう”と。そこで童謡や唱歌を歌うコーナーを設けて、お姉ちゃんに出てもらったんです。あとでお客様のアンケートを見たら“大人になったお二人が歌う童謡をもっと聞きたい”という意見が圧倒的で……」(さおりさん)

 その時、房子さんは「これだわ!」と思ったのではないか――姉妹はそう思っている。ジャンルは違っても同じ音楽の道を歩んだ二人が、童謡を歌ったらどうか……。86年3月、「童謡コンサート あの時、この歌」が始まる。

「最初、アルバムを出す相談をレコード会社にしたら、“教材ならいいですけど”と言われて。でも何とかお願いして、出すことになったら“500枚です”って。確かに、売れるかどうか分かりませんから、そう言われたのも仕方ないかもしれないけど、こっちも意地がありましたからね(笑)。買い取りますから5000枚でとお願いして、コンサート会場で手売りしました。もちろん、完売ですよ(笑)。それから40年です……きっと母は、私たち姉妹で歌う姿を見たいと、ずっと思っていたんでしょうね」(さおりさん)

 房子さんは、99年5月に亡くなった(享年81)。

「がんでした。いよいよ最期という段階で、痛み止めの注射を打ってくださいとお願いしたんです。ただ、医師からは“痛み止めを打つと意識が混濁する状態になり、話ができるのはこれが最後になるかもしれません”と言われました。一緒に見舞っていた兄が“ここまで頑張ったんだから、お母さんを楽にしてあげよう”と、痛み止めを打っていただいたんです」(さおりさん)

 意識が遠のいていく房子さんのそばに、さおりさんと祥子さんは寄り添い、童謡を歌った。房子さんも一緒に歌っているようだったという。ワンコーラスを終えたところで、房子さんはこう言った。

「もういいから、向こうへ行って、遊んでらっしゃい」

 最期の言葉だった。

「母の脳裏には、私たちの幼いころのイメージしかなかったのかしら」(さおりさん)

「妹には、ものの見方や考え方、あらゆる面で母の教えがしっかり身についています。歌い続けるためには健康にも気をつけないといけません。そうした細かいところまで、本当にしっかりしてくれています。おかげでここまで歌い続けることができたと感謝しているんです」(祥子さん)

 房子さんとさおりさん、そして祥子さんが病室で最後に歌ったのは「みかんの花咲く丘」。今回、発売されたアルバムにも収録されている。今も仲良く歌い続ける姉妹を、天国にいる房子さんは目を細めて見つめているに違いない。

【第1回は「紅白で唄った「赤とんぼ」、審査員だった“浪速のロッキー”の目には光るものが…由紀さおり・安田祥子「童謡コンサート40周年」唯一無二の魅力」】

姉・安田祥子
声楽家。妹の章子(由紀さおり)と共に「ひばり児童合唱団に所属」。東京芸術大学卒業後、オペラ「フィガロの結婚」のスザンナ役で声楽家としてデビュー。ソプラノ歌手としてモーツアルトからワーグナーまで、数々のオペラに出演する傍ら、東京芸大講師として18年間、後進の指導にもあたる。日本歌曲、童謡、唱歌からクラシックまで幅広いジャンルを歌い、講演活動も行っている。

妹・由紀さおり
本名・安田章子。幼少期から童謡歌手として活動し、姉の祥子と共に小学〜高校生まで「ひばり児童合唱団」に所属。1969年「夜明けのスキャット」でデビューする一方、女優として映画やドラマ、またバラエティ番組への出演や司会など、多方面で活躍する。1970年、「手紙」で日本レコード大賞歌唱賞、83年、映画「家族ゲーム」で、毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。姉の祥子と共に、美しい日本の歌を次世代に歌い継ぐ活動を続けている。

デイリー新潮編集部