「実の母の死」が計画の追い風に…ギリシア正教への対抗策としてオットー大帝が熱望した「マクデブルク計画」の達成
ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。
オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。
『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第75回
『平行線をたどる「東フランク王国」と「ビザンツ帝国」の協議…「皇帝」の称号を巡る150年以上の禍根』より続く。
「マクデブルク計画」の完遂
ところでこの968年は先に書いたように、2月3日にハルバーシュタット司教ベルンハルトが、3月2日にマインツ大司教ヴィルヘルムが、そして3月14日にオットーの母マティルデが、相次いでこの世を去った年でもある。
3人はいずれもオットーのマクデブルク計画に反対していた。3人の死が計画を実現させることになる。
まずオットーはベルンハルトの後任にヒルデヴァルトを選び、彼をイタリアに呼びつけた。ヒルデヴァルトはかつてオットーの弟ハインリヒの反乱に参加し殺されたザクセン貴族エーリヒの息子である。ヒルデヴァルトにしてみればオットーは父の仇である。そのためかオットーはヒルデヴァルトに司教杖を渡す際に、「今こそ汝の父親の人命金を受け取るがよい」と言ったという。人命金とはゲルマン法での慣習で、殺害者またはその者が属する氏族の者から被害者の氏族に支払われる金のことを言う。なんとも殺伐とした話だが、ここで肝心なことはオットーが新ハルバーシュタット司教ヒルデヴァルトからマクデブルク計画の承認を無理やりに取り付けたことである。ヒルデヴァルトは抵抗できなかった。
次にオットーはマインツ大司教ヴィルヘルムの後任にはフルダ修道院長ハットーを充てることにした。ハットーはオットーの皇帝戴冠の露払いの役を見事に果たしている。この人事はその論功行賞でもある。そんなハットーがマクデブルク計画に反対するわけはない。
ちなみにこのハットーと、かつてオットーの父ハインリヒ1世の暗殺を企てたとされる当時のマインツ大司教ハットーとの関係は不明である。
こうしてオットーはこの年の10月、前年に引き続きラヴェンナで開かれた教会会議でマクデブルク大司教座設立を正式決定させたのである。
新マクデブルク大司教
そうなると新マクデブルク大司教の人選である。
約10年前の959年、キエフ大公妃オリガがオットーに宣教師派遣を要請したとき、宣教司教としてキエフに送られたアーダルベルトが初代大司教に就任した。
アーダルベルトはトリーアにあるマクシミン修道院の出身である。彼のキエフ宣教は失敗に終わり、翌年には何の成果もなくすごすごと戻ってきている。そんな彼が新大司教の座を射止めたのは、オットーのイタリア遠征の間ザクセンを預かるヘルマン・ビルングの強い進言のおかげである。アーダルベルトはビルングの親族であった。
当初、オットーは別の人物を考えていたが、ビルングの要望を受け入れることにした。言うまでもないがマクデブルクはザクセンにある。オットーはイタリア遠征により本拠地ザクセンを長期にわたって留守にする。その間、ザクセンと接するスラブへの備えをはじめとして留守を預かるのはヘルマン・ビルングである。彼がいるからこそオットーは後顧の憂いなくイタリア遠征をすることができるのだ。ビルングの意向は無視できない。かくしてマクデブルク初代大司教はアーダルベルトに決まったのだ。
そしてさらに言えば、アーダルベルトとはドイツの年代記作者レギノが綴った『年代記』の続編である『レギノ(続)』の作者である。
この『レギノ(続)』はヴィドゥキントの『ザクセン人の事績』、リウトプランドの『報復の書』と並ぶ当時を知る貴重な三大史料と言われている。
そのなかでアーダルベルトの史料は907年から967年の同時代史を綴っている。これはまさにオットー朝の正史と言ってもよい。
王朝に都合の悪い記述は極力避けるのが正史の正史たるゆえんである。そう考えるとアーダルベルトの抜擢もなんとなく頷けるところであろうか。
いずれにせよ、これでマクデブルク計画は構想されてから13年目にしてついに日の目を見たのだ。
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