(左上から時計回りに)『君たちはどう生きるか』©2023 Studio Ghibli、『君の名は。』©2016「君の名は。」製作委員会、『風立ちぬ』©2013 Studio Ghibli・NDHDMTK、『サマーウォーズ』©2009 SUMMERWARS FILM PARTNERS

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 本稿は、2016年以降のアニメ映画シーンをめぐる変化を、いくつかの視点で複合的に振り返ろうという連載だ。なぜ、2016年か。それはアニメが映画興行の柱と目され、アニメをめぐる環境を劇的に変えた年と記憶される可能性が高いからだ。1997年公開の『もののけ姫』や、2001年の『千と千尋の神隠し』が記録的な興行成績をたたき出したように、スタジオジブリ作品は日本映画の興行を支える重要なブランドであったが、それはあくまでジブリに限った話。他のアニメ作品にまで波及することはなかった。

参考:谷口悟朗×吉田玲子が語り合うオリジナルアニメの存在意義 “多様性”のために必要なこと

 やはり、その状況に変化をもたらしたのは、2016年、新海誠監督の『君の名は。』から始まったというのが適切な歴史認識であろうと思う。その前史として細田守監督の『サマーウォーズ』や『おおかみこどもの雨と雪』の大ヒットがあったが、決定的にアニメの興行市場を押し広げたのは、やはり2016年であろう。この年の日本映画の興行収入のおよそ4割をアニメ作品が占めるに至った(※1)。

 その節目の年から約10年が経過した。映画市場はすっかりアニメなしには成り立たなくなり、テレビ・配信の作品を含めて、日本アニメのプレゼンスは飛躍的に向上し、市場規模はもちろん、アニメ業界を取り巻く状況や周囲からの期待も、10年前とは雲泥の差となった。10年前と同じ感覚でアニメについて語れない状況だ。

 実際、この10年でいろいろな変化があった。一つの記事でそれを総括することはできない。そういう課題意識からこの連載の企画が始まった。

 この連載は、2016年からの10年の日本アニメの変化について、様々な角度から検証する。初回は『君の名は。』の新海誠監督の登場によって議論となった「ポスト宮粼駿」というものの再検証と、それに付随して考える「日本の商業アニメにおける作家主義」とは何かについて考えてみたい。

 人気マンガの映像化の大ヒットが続くなか、ここ数年はオリジナル映画の苦戦がささやかれ、「作家の時代の終焉」を語る人も少なくない。「作家」については、初回と第2回にわたって検証する。初回は「そもそも作家主義とは?」と掘り下げ、第2回ではこの10年を代表する2人の作家、新海誠と細田守の変遷を辿りたい。

ポスト宮粼駿=ヒットメイカー+作家?

 日本の商業アニメの歴史において最大の作家は、いうまでもなく宮粼駿だ。今度こそ本当の引退と思わせた2013年の『風立ちぬ』公開後、今後誰が宮粼駿の後釜に座るのかという議論が巻き起こった。それが「ポスト宮粼駿」という単語に集約される。

 この単語の意味するところは、曖昧というか、多義的だ。宮粼駿のセンスを引き継いだ存在を指すのか、それとも宮粼駿並みの興行力を持った映画監督のことを指すのか、シンプルにスタジオジブリ内の後継者を指すのか。

 その言葉を使う人によって異なるのだろうが、なんとなく世間全体としては、「宮粼駿のようにその名前だけで多くの観客を集めることができ、内容的にも優れたものを作れる存在」のことを指すことが多いと思われる。

 簡単にいえば、商業的成功と文化・批評的成功を両立させられるアニメ監督のことを指すのだろう。

 そもそも、この2つの両立は稀有なことだ。本来ヒットメイカーと作家というのはイコールではない。例えば、ハリウッドにおいて、マーティン・スコセッシは偉大な作家だが、ヒットメイカーだろうか。マイケル・ベイはヒットメイカーだが作家と目されていないだろう。スティーヴン・スピルバーグなら、両方を兼ね備えた存在といえる。そんな存在は世界中を見渡してもたくさんいるわけではないと思うが、「ポスト宮粼駿」とはそういう存在を求める声だったといえるのではないか。

本来、映画作家とは何か ヒットメイカーという存在はわかりやすい。一方、映画における作家は必ずしも意味が自明ではない。そもそも映画において作家とは何だろうか。

 これはまず第一に批評的な概念だ。集団作業で制作される映画において、演出を担う監督を特権的な表現者とみなして、独自の文体を持った作家として称賛する動きが、1950年代のフランス映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』で起こった(その後、その批評家たちは自らそれを実践するにいたる)。ヒット云々や世間一般の評価よりも、独自の表現様式を持ちうる特定の監督を作家と呼称することで、映画をめぐる言説を活性化させた。

 前述の通り、「作家」が批評家の視点から生まれたものだとするならば、言い換えると、批評がなければ「作家」は生まれないともいえる。

 この「批評」という視点が、日本の商業アニメを語るときのやっかいなポイントになる。押井守はアニメーションの世界には「批評がない」と語る。

押井:昔、宮さん(宮粼駿)が「漫画の世界には批評がない」とよく言っていたけど、アニメーションも同じなんだよね。サブカルチャー全般と言っていいのかもしれないけれど、批評の場がない。「良かった」「悪かった」しかないんですよ。ゲームでも、神ゲーとクソゲーしかない。神とクソしかないって、それは批評がないのと一緒だから。(※2)

 押井の発言は第1回新潟国際アニメーション映画祭の審査員長に就任した折に、映画祭をめぐる文脈の中で出てきたものだが、実写映画には映画祭など、新たな作家を発見する仕組みが確立されているのに対して、アニメにはそれがないと言っているのだ。

 日本の商業アニメに批評が完全に欠如しているかについては議論の余地がある(もし皆無であれば、今日に押井守の名がここまで残っていることもないだろう)。しかし、実写映画と比べて批評の層が非常に薄いことは否めない。ゆえに、そもそも日本の商業アニメには、本来的な意味での作家が存在しにくい状況といえる。そのせいで、ヒットという世間的評判が作家性の発見と半ばイコール化しているのが日本の商業アニメの現状ではないか。

優秀な演出家と作家は違うのか

 批評が有効に機能していない中、日本アニメの「作家」を改めて捉えなおしてみたい。

 前述した宮粼駿の他、ヒットメイカーと作家性を両立させた存在として、庵野秀明と新海誠が挙げられる。この3人は、自身の作る独自の世界観とビジョンが大衆レベルで色濃く認知された存在といえる。そして、次点で細田守の名前も挙げられるだろう。オリジナル映画の実績がないゆえに無視されがちだが、富野由悠季には明らかな作家性があり、大衆性を持ち合わせている。もちろん、高畑勲もここに加えるべき存在だし、『この世界の片隅に』をヒットに導いた片渕須直の名も挙げるべきだろう。

 ただ、ヒットを要件としない従来の作家主義の観点からいえば、押井守、今敏、湯浅政明、原恵一、神山健治、山田尚子、幾原邦彦あたりは充分に作家としての資質を持った存在だ。幅広いジャンルを手掛け、原作ものでも固有のビジョンを示した出崎統も作家として再評価される必要がある。

 アニメ業界には優れた演出をする人物は他にもいるがリストアップが目的ではないのでこの辺にしておく(※3)。そうした人物は全て作家としての資質を持ち得ているのだろうか。作家と「すぐれた演出家」を分けるものはなんだろうか。

 端的にいえば、監督固有のビジョンを提示できているか、作品をまたいでもその人の作品であると強く刻印される何かがあるかどうかが、作家と上手い演出家をわけるものだろう。例えば『鬼滅の刃』の監督は作家か、という問いにも答えが出せそうな気がする。外崎春雄監督が、たいへん優秀な演出家であることには異論がないと思うが、固有のビジョンを示す作家といえるかどうかは、微妙なところだ。プロジェクト全体を仕切るufotable代表の近藤光氏の存在もさることながら、原作を厳格に遵守する作り方の中では、アニメ監督が固有のビジョンを示す余地はそれほど多くないように思われる。

IP主導作品の台頭と作家性

 本連載で後に、巨大IP主導の映画作りが台頭してきたことに触れるが、そのことと個別の作家性を見つけにくくなったことは無関係ではないだろう。巨大IPシリーズにおいては、人気マンガが原作となることが多いが、漫画家こそが作家であると見なされる傾向が強い。『ONE PIECE』がアニメになっても実写になっても、多くの人々の関心は原作者・尾田栄一郎氏のビジョンがどこまで反映されているかだ。こういう環境では、それぞれの映像の作り手の作家性よりも、ひたすらに「上手い演出」と「豪華な映像(作画)」が必要とされることになる。

 押井守のように原作ものを扱いながら、独自の解釈と自己のビジョンを強烈に優先させる自由が許容されにくくなったのが、この10年の変化の一つだろう。人気となれば長期シリーズ化するわけで、例えば、第1期と第2期で監督が交代しても、同一のテイストを保たせるためには、むしろ監督が固有のビジョンを発揮しすぎないほうがいいかもしれない(※4)。近年、「作家性の終焉」のような雰囲気が漂っているのは、単純にオリジナル映画の集客が難しいだけでなく、こうした状況によるものだろうと筆者は考えている

この10年のアニメーション映画祭の増加の背景にある課題意識 巨大IP作品の隆盛する時代にアニメ監督の作家性を育むためには、批評的にフックアップする仕組みがないと難しくなっていくと思われる。

 だからこそ、上述したインタビューで押井は新しく始まった映画祭が上手くいってほしいと語っている。この10数年、日本ではアニメーション映画祭の新設が続いている。2014年の新千歳空港国際アニメーション映画祭、2023年に新潟国際アニメーション映画祭、2025年に発足したあいち・なごやインターナショナル・アニメーション・フィルム・フェスティバル、2020年に終了した広島国際アニメーションフェスティバルの後を継いだひろしまアニメーションシーズン。そして、東京アニメアワードフェスティバルは2027年から「発展的解消」して生まれ変わることが宣言されている。

 こうしたアニメーション映画祭の増加は、作家をフックアップするシステムの模索といえるだろう。

 実写映画では映画祭が新たな才能を世に知らしめる仕組みとして機能している。ヨルゴス・ランティモスやドゥニ・ヴィルヌーヴ、ライアン・クーグラー、クリストファー・ノーランのような大作を撮る「ヒットメイカー+映画作家」のような存在も映画祭で発見された才能だ。

 アヌシー国際アニメーション映画祭のような海外映画祭も含めて、そうしたエコシステムを確立してほしいと筆者は思う。元々、アニメーションの世界において、作家性を発揮しうるのは短編のほうだという認識が強く、これまでのアニメーション映画祭は短編を中心に評価してきた歴史があるが、アヌシーもこの10年は長編映画を多く取り扱うようになってきており、実際に海外では強い作家性を発揮するアニメーション作家を輩出し始めている(『FLOW』のギンツ・ジルバロディスなど)。

 新海誠という作家が『君の名は。』で、ジブリ以外のアニメの商業的可能性を大きく押し広げた結果、IP主導の作品が席巻する道筋をも開き、かえって作家を見つけにくくなっていることは皮肉だ(この点については後に連載でより深く検証したい)。

 ヒットの前に作家を見つけフックアップする機能をいかに生み出せるか。日本アニメのさらなる多様性と持続可能性に向けて重要なテーマとして浮上したのが、この10年だったといえるだろう。

注釈※1. http://animationbusiness.info/archives/2010※2. https://realsound.jp/movie/2023/03/post-1282558.html※3. 原稿を書きながら思い浮かべた名前をあえて挙げておくと、『オッドタクシー』と『ホウセンカ』で気を吐いた木下麦、『音楽』と『ひゃくえむ。』でロトスコープを活かした作風で脚光を浴びた岩井澤健治あたりは作家としての資質を持ち得ていると筆者は考えている。その他、「上手い演出家」の枠を破って作家性を発揮せんと格闘している才能として、『クスノキの番人』の伊藤智彦、『映画大好きポンポさん』の平尾隆之や、『Sonny Boy』の夏目真悟、『さよならララ』が控える小出卓史、『ぼっち・ざ・ろっく!』『葬送のフリーレン』の斎藤圭一郎、『義妹生活』『死亡遊戯で飯を食う。』の上野壮大あたりの存在は個人的に気になっている。※4. 『葬送のフリーレン』は第2期で監督交代となったが、うまくテイストを引き継いでいる。一方『呪術廻戦』は第1期と第2期以降でかなり異なる雰囲気の作品となった。作風の変更がIPにとって好結果となるときもあれば、そうでないときもあるので、なかなか難しい問題である。(文=杉本穂高)