NHK大河「豊臣兄弟!」に信長(小栗旬)の配下となるも、のちに反旗を翻す松永久秀(竹中直人)が登場した。松永久秀は、なぜ信長に降伏せず「爆死」を選んだのか。古城探訪家の今泉慎一さんは「居城の信貴山城跡を歩けば、勝てるはずの籠城戦に敗れた久秀の無念さが見えてくる」という――。

■久秀のものは信長のもの?

第7回:信貴山城(奈良県平群町)

戦国一の“曲者(くせもの)”といえば松永弾正こと松永久秀。「麒麟がくる」では吉田鋼太郎、「豊臣兄弟!」では竹中直人と、大河ドラマでも演じる役者は濃い男ばかりだ。主家・三好家を謀略により没落させ、東大寺大仏殿を焼き、将軍を殺すという「三悪」を成し遂げたといわれるが、近年ではいずれも「濡れ衣」の可能性が高いと見られている。「豊臣兄弟!」でも、第11話「本圀寺の変」で将軍殺しの嫌疑を、信長を前に否定する場面も描かれた。

久秀のエピソードとして「三悪」とともによく知られるのがその最期。「(茶道具として有名な)平蜘蛛の茶釜を抱いて爆死した」というものだ。「ホンマかいな?」と誰もが首をかしげるこのエピソードを、その舞台となった信貴山(しぎさん)城の実態とともに検証してみたい。

久秀が平蜘蛛を割る場面を描いた月岡芳年「芳年武者牙類:弾正忠松永久秀」1883年(ロサンゼルス郡立美術館所蔵)(写真=PD-LACMA/Wikimedia Commons)

久秀は茶人としても知られ、名茶器を収集していた。実は、信長に臣従する際に九十九髪茄子(つくもかみなす)という茶入を献上している(「豊臣兄弟!」でもそのシーンがあった)。余談だがこの茶入、信長の後、秀吉、家康と戦国三英傑の手に渡り、現存。静嘉堂(せいかどう)文庫美術館に収蔵されている。

松永久秀が織田信長から拝領したとの伝がある「松永釜」こと「松図真形釜」(平蜘蛛とは異なる)、室町時代・15世紀(東京国立博物館蔵)(出典=ColBase)

九十九髪茄子だけでは満足しなかったのか、信長は久秀に平蜘蛛の茶釜も所望している。しかも一度ならず、たびたびだ。俺様に臣従した以上、「俺の物は俺の物。お前のものは俺の物」と。信長、まるでジャイアンだ。

■お宝の茶釜と共に信貴山城で…

にもかかわらず、スネ夫(?)久秀は断固拒否。茶釜がよほどお気に入りだったのか、プライドが許さなかったのか定かではないが、とにかく信長には絶対に渡したくなかったらしい。そして最終的には一緒に爆死した、というオチがつくのだが、その現場が信貴山城(図表1:奈良県平群町信貴山1308)だ。

尚、松永久秀は信長に二度、反旗を翻している。1568(永禄11)年、いったんは信長に臣従した久秀だったが、結局、5年も経たずに1572(元亀3)年に謀反。この時は降伏して許されるが、1577(天正5)年に再び裏切り、信貴山城に籠城して最期を迎えることになる。

■大阪平野を見渡せる好立地

信貴山城は、大和(現・奈良県)と河内(現・大阪府南東部)の国境、生駒山地に築かれた山城。標高437m、比高340m。なかなか峻険だが、中腹の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)まで車でアクセス可能だ。

朝護孫子寺は、聖徳太子創建と伝わる古刹。信貴山城の戦いで焼失後、豊臣秀頼により再建されている。現在は江戸時代築の山門や塔、お堂が残る。信貴山の山頂一帯がかつての信貴山城だが、その城域は同寺の広い意味で境内にあたる。

撮影=今泉慎一(風来堂)
雌嶽東側の断崖。その上は削平された曲輪 - 撮影=今泉慎一(風来堂)

本堂から急道を登ること約10分で雌嶽(めだけ)。見上げるような崖っぷちの落差は、軽く40〜50mはある。まさに天然の要害。要害っぷりはその先も。つづら折れの道が伸びている。

撮影=今泉慎一(風来堂)
雌嶽の先もさらに急勾配、無数の鳥居が並ぶ - 撮影=今泉慎一(風来堂)

■信貴山は「天然の要害」だった

本堂から比高200mほど登った場所に「信貴山城址」の石碑が立つ。標高437mの信貴山山頂・雄岳からは眺望が開けている。

撮影=今泉慎一(風来堂)
雄岳より北西方面。正面が生駒山地、その左が大阪平野 - 撮影=今泉慎一(風来堂)

信貴山城は大和国に属し、久秀が信長から安堵された領地も大和だが、かつて久秀が仕え、のちに追い落とした三好家の支配地域は摂津や河内が中心。大阪平野に睨みを利かせるのに最高の立地。加えて天然の要害ぶり。いかにも久秀の城にふさわしい。

■山城天守は安土城のモデル?

雄岳は東西100m近くある平坦地。縄張り図には「本丸」「主郭」ではなく「天守閣跡」と書かれている。

撮影=今泉慎一(風来堂)
信貴山城縄張図(現地案内板より) - 撮影=今泉慎一(風来堂)

実は信貴山城に天守が立っており、信長の安土城天主はそれをモデルにした、との説がある。天守閣跡には現在、朝護孫子寺のお堂のひとつである空鉢護法堂(くうはつごほうどう)が立ち、周囲には無数の祠と鳥居が並んでいる。

撮影=今泉慎一(風来堂)
本堂そばの水屋から運んだ水を空鉢護法堂に供えると一願成就するとか - 撮影=今泉慎一(風来堂)
撮影=今泉慎一(風来堂)
ヘビがモチーフの線香台。茶釜ではない - 撮影=今泉慎一(風来堂)
撮影=今泉慎一(風来堂)
こちらも茶釜に似ているが御神体はヘビ - 撮影=今泉慎一(風来堂)

■織田軍4万が信貴山へ進撃

1577(天正5)年の「信貴山城の戦い」の際、久秀軍は約8000、信長軍は4万と伝わっている。兵力差は歴然だ。劣勢を挽回するため、久秀は石山本願寺に援軍を要請。そして200人の鉄砲隊が信貴山城に派遣されたという。

鉄砲といえば火薬だ。しかも200人の鉄砲隊となると相当な量に違いない。想像は膨らむが……。

■万全の構えに援軍も得たが…

久秀の最期の場面について検証する前に、信貴山城の堅城ぶりを確認しておきたい。城主のキャラクターや落城シーンに隠れてあまり知られていないが、信貴山城、実はなかなかに難攻不落の名山城だ。縄張り図の通り、信貴山城の曲輪は山頂から北東側に集中している。

まずは堀切。天守閣の真北にある「切通し」と書かれているあたりに特に密集している。

撮影=今泉慎一(風来堂)
連続する堀切により尾根が波打っている - 撮影=今泉慎一(風来堂)
撮影=今泉慎一(風来堂)
直下に見下ろすとこの急角度 - 撮影=今泉慎一(風来堂)
撮影=今泉慎一(風来堂)
同じ堀切を堀底より - 撮影=今泉慎一(風来堂)

■曲輪内は丁寧に削平されている

そして切岸。雌嶽でも見られるように、自然地形を活かしたものもあれば、明らかに人工的に削ったことがわかるものも。

撮影=今泉慎一(風来堂)
縄張り図の「現在地」あたり。段曲輪の側面はほぼ自然地形か - 撮影=今泉慎一(風来堂)
撮影=今泉慎一(風来堂)
段曲輪間の急崖は明らかに人工。まるで壁のよう - 撮影=今泉慎一(風来堂)

曲輪内は丁寧に削平されており、兵の駐屯に最適。「松永屋敷」あたりには建物の礎石のような成形された巨石も見られる。

撮影=今泉慎一(風来堂)
「松永屋敷」は江戸時代作の「信貴山古城図」の記載による - 撮影=今泉慎一(風来堂)
撮影=今泉慎一(風来堂)
「松永屋敷」のある尾根先端の曲輪には、畝状竪堀群らしき地形も残っていた - 撮影=今泉慎一(風来堂)

■守りは堅かったが、城内で裏切り

これだけ堅固な城で鉄砲隊の援軍も得られたのであれば、5倍の兵を相手にしても持ち堪えられるのではないか。ところが、この鉄砲隊200がワナだった。彼らを引き連れたのは元々、大和で久秀のライバルだった筒井順慶に仕えていた武将・森好久。信貴山城内で反旗を翻し、たちまち火の手が上がる。裏切りを繰り返し、のし上がってきた久秀だけに、目の前で立ち昇る火の手を見て全てを悟ったに違いない。

落城必至となった以上、このままでは平蜘蛛の茶釜を信長に奪われてしまう。自らの命は失ったとしても、それだけは絶対に避けたい。そう思ったであろう久秀は、どうやって茶釜を「爆破」したのか。

■爆破か? 投げつけたのか?

平蜘蛛の茶釜の正式名称は「古典明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」。「古天明」とは、正長年間(1428〜1429)〜天文年間(1532〜1555)に作られた、下野国天明(現・佐野市)産のもの。鉄製の釜というと丈夫そうだが、この時代、素材は砂鉄原料の和銑(わずく)のため割れやすい。茶の湯釜は床に落としたり空焚きによってひび割れることもあり、現在でも修繕を行う職人がいるほどだ。

さらに言うと、和銑は急な温度変化に非常に弱い。急速加熱後に急速冷却、あるいはその逆の手順を踏めば、より割れやすくなる。

だとすると、鉄砲隊からかき集めた火薬を詰めて、水で冷やした後でドカン! とやった可能性はあるのではないか。知人の火縄銃研究者に聞いたところ、仮に茶釜にギッシリ詰め込めるだけの火薬量があれば、茶釜を粉々にするには十分だという。ただし、その威力で人が「爆死」できるかは疑問が残る、とも。爆薬を詰め、縄などを導火線にして茶釜だけ爆破するのが現実的ということになる。

では、爆破以外の方法はなかったのだろうか。冒頭に挙げた松永久秀の最期を描いた月岡(つきおか)芳年(よしとし)の浮世絵には、よく見ると粉々になった茶釜の破片が宙を舞っている。

■信長に茶釜を渡すまいとしたが…

弟弟子の落合(おちあい)芳幾(よしいく)が描いた同場面のほうが、よりわかりやすい。

落合芳幾「太平記英勇伝:松永弾正久秀」(東京都立図書館所蔵)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

壊したあとで自らの目でその状態も確認もできる。松永久秀といえば抜け目のない男。「熱して、冷まして、ガシャン」とやった可能性のほうが高いのではないか。

 それにしても、これだけ堅固な城に籠城し、強力な援軍も得られたのだから、一旦は「勝機あり!」と確信したはずだ。戦いに敗れなければ、信長に茶釜が渡ることもない。まさかの展開に、泣く泣く茶釜を破壊する選択をせざるを得なかった久秀、さぞかし無念だったはずだ。

爆破ではなく、投げつけて破壊説をより強固にする後日譚がある。落城後、多羅尾(たらお)光信(みつのぶ)という武将が破片をかき集め、茶釜を修復したというのだ。同時代の茶人・津田(つだ)宗及(そうぎゅう)の手による、光信の父・多羅尾綱知(つなとも)がそれを茶会で用いたと記された文書もある。火薬で爆破してしまったのでは、修復は極めて困難になるのは目に見えている。

「豊臣兄弟!」では竹中“久秀”直人がどのような最期を迎えるか。そして、茶釜の「その後」が、もしや描かれるのではないか。久秀の死後、マギー演じる津田宗及の動向にも期待したい。

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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)
古城探訪家
1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。
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(古城探訪家 今泉 慎一)