◆これまでのあらすじ

32歳、恋人いない歴7年。恋愛をあきらめて生きてきた税理士・上条寿人は、趣味のソロキャンプ中に鈴村結海(ゆうみ)と出会う。あまりに楽しい夜に、「運命」の2文字がちらつくが…。

▶前回:「自然に会話が弾むのがいい」冬のキャンプ場で意外な出会いが…




「…朝か」

寿人は、目を覚ました。

スマホを見ると、時刻は8時12分。朝方、鳥のさえずりに一度起こされたが、すぐに寝てしまったようだ。

寝袋からいそいそと起き出した寿人は、急な温度変化に身震いする。

「さっむい…」

テントのジッパーを上にあげると、汚れのない透明な冷気が体を包んだ。

― 結海さん、いるかな。

乱れた髪を手で整えながら、結海がテントを張っていた方を見やる。しかし、彼女のいたサイトにはもう、何も残されていない。

「もう出たのか…。随分早いんだな」

うつむいた寿人は、テントの脇に見慣れない赤いビニール袋が置いてあることに気づいた。

よく見ると、小さな桃色のメモが貼り付けられている。


袋の中には、ハーフサイズのフランスパンと、5,000円札が入っていた。

メモには、こう書かれている。

『寿人さん

昨日は、本当にありがとうございました。
そして、ご迷惑をおかけしました。

朝食用に持ってきていたバゲットを、お裾分けします。
実家のパン屋の人気商品です。
今日は開店から手伝いにいかなければならず、お先に失礼します』

― お金なんて…受け取れないよ。

また会って、話したかった。寿人は、さみしさに目を伏せた。




「…楽しそうだな、寿人。で、その子の実家のパン屋さん、なんて名前?」

寿人は、キャンプの後片付けをしながら、ハンズフリー通話をしている。

相手は、大手保険会社で営業をしている幼なじみの三郎・通称サブちゃんだ。

サブちゃんは、いつも天真爛漫で明るい。

声だけで、ラグビーで鍛えた大きな体を揺らして笑っている姿が、容易に想起される。

「…パン屋さんの名前?なんでサブちゃんに教えなきゃなんないの?」

「お前の久々の片思い相手だろ?今日店頭にいるんなら、行ってその子の顔を拝もうかなって」

「やめろって。…別に片思い相手じゃないし」

「嘘つけ、声がうわずっててバレバレ。一晩で相当仲良くなったんだな」

サブちゃんがニヤニヤしているのが、寿人にはわかる。

「…ねえ、サブちゃん。真剣な話、彼女…結海さんと、また会える可能性はあるのかな」

「そんなの、お前次第だろ。LINE知ってるなら連絡すればいいじゃん」

「…なんて送ったら、変じゃないと思う?」

サブちゃんは、大学時代から10年近く、彼女・ミチと付き合っている。3年ほど同棲もしていて、寿人にとっては恋愛の大先輩だ。

「うーん。たとえば『すんごい楽しかったから、また会いたい』とか?」

「…そんな直球な」

「寿人。キメるところでキメないと、ぼんやりした歯ごたえのない人生が出来上がるぞ」

そして、サブちゃんは、ほとんど息のような小声で言った。

「俺は、再来週キメるから」

「へ?」

「ミチにプロポーズするんだよ。沖縄のリッツ・カールトンで、超華やかに。だから寿人も頑張れよ」

「じゃ!」と、電話を切られてしまう。

小学生の頃一緒にわんぱくをしていたサブちゃんは、人生のステージをまたひとつ進めるという。

テントを畳んで収納袋にしまい込みながら、寿人は置いてけぼりをくらった気分になった。



《結海SIDE》


「疲れた〜」

パンプスを脱いだ足先が、ジンジンしている。用賀の自宅マンションの玄関で、結海は小さくため息をついた。

勤務しているIT企業は、今提案ラッシュだ。結海は今日、4件のクライアントをまわり、その後、渋谷のオフィスに戻ってお礼のメールや資料送付をした。

28歳、新卒で入社して6年目。

任される業務が増え、仕事は年々ハードになっている。

― もう21時半か。月曜からこんなハードだとは。…さあ、ゴハン ゴハン!


結海は、冷凍のビーフピラフとポトフを、電子レンジに入れる。

温めるだけで手の込んだご飯ができる、宅配冷凍食品サービスを愛用しているのだ。

電子レンジが、オレンジの光を放つ。

それを見つめながら、結海は思う。

「…焚き火みたい」

あの日、彼が切り分けてくれたステーキ。世にも美味しい、知らないラベルの赤ワイン。

思わずLINEを聞いてしまったときの、彼の焦ったような、照れたような様子。

凍えた体がぼうっと温まっていった、忘れられない夜。

― 寿人さん…。会いたいなあ。

「チン!」という派手な音で、結海は我に返る。

たった一晩、それも1時間くらいの出来事なのに、なんでこんなに思い出すのだろう。戸惑いながら、結海はビーフピラフとポトフをお皿にうつした。

「いただきます」

リビングテーブルの前に座り、ひとり手を合わせたとき、結海の膝の上でスマホが震えた。




『寿人:週末はありがとうございました。ご実家のパン、大変おいしくいただきました。

ただ、お金までいただいてしまい、反対に申し訳なくて。よかったら、また会えますか?』

― うそみたい…うれしい!

結海は、返事を打った。

『結海:私も、ぜひまた会いたいです』

寿人からの連絡に、疲労困憊だった体が一気に軽くなる。

『寿人:よかったです。では、ワインがおいしいお店に行きませんか?』

口角が自然と上がる。

「行きたい!…あ、でも」

結海は、LINEを打つ手を止め、キッチンを見た。

赤い「Y」と紺の「K」。それぞれ文字が入った2つのマグカップが並んでいる。

― 研哉。

その名前が頭に浮かんだ途端、結海はスプーンを静かに置いた。

そして、寿人にLINEを打つ。

『結海:すみません、お茶でもいいでしょうか?』


《寿人SIDE》


金曜日の19時50分。

寿人は、赤いテーブルクロスの上に置かれた、ガラス製のシュガーポットを見つめていた。

― ああ、緊張する。

何度も座り直しながら、20時に約束している結海の登場を待つ。

― 楽しみだな。でも結海さんは、サクッと帰りたいんだろうな。

結海は「お茶であれば」ということで、今日の誘いに乗ってくれた。

あくまで「軽くなら」OKということだ。だから、夕食は互いに済ませてからお茶だけしようという話になった。

寿人は、食通のサブちゃんが頻繁に誘ってくれるおかげで、都内の美味しい店を比較的おさえている。

だが、夜にゆっくりお茶ができるお店というのは、ノーマークだった。

かといってコーヒーチェーンで済ませる気には到底なれず、渋谷にある紅茶が評判のカフェを手探りで選んだ。

― いい時間になるといいけれど。

会いたいと言ってくれた割に消極的な彼女に、寿人は自信を喪失している。

そのとき背後から、パンプスの軽快な音が近づいてきた。




石鹸のような素朴な香り。白いパンプス。結海さんだ、と顔を上げた瞬間、寿人は自分の体が固まるのを感じた。

― え…?

「すみません、お待たせしてしまいました」

「い、いえ…」

― え、ええ…?

口先だけを動かしてなんとか言葉を返す寿人を、結海は不思議そうな顔で見つめる。

そして、ふわりと笑って「先日は本当にありがとうございました」と小さく頭を下げた。

「ここ、素敵なお店ですね」

結海は、店員さんが差し出したメニューを受け取り、眺める。

寿人は、そんな結海の姿をぼんやり眺める。

― なんていうか、なんていうか…。

寿人は焦っていた。キャンプ場で会ったときと、あまりに印象が違うのだ。

あの日、テントのそばで一緒に過ごした結海は、もっと素朴な印象をまとっていた。

今日の結海は、ベージュのニットに白のスカートを身につけている。目元が少しキラキラしていて、口元は大人っぽい赤。

先日も魅力的だったのに、今日の結海は、特別にまぶしい。寿人は、途端に緊張してしまう。

― ああ、俺。こんな女性に…恋してるのか。

身の程知らず。

そんな言葉が浮かんで、ひとり赤面する。

「何飲みますか?」と聞いてくれる結海に「同じものを…」と答えるので、精一杯なのだった。

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まぶしすぎる結海に緊張しながら、デートを楽しむ寿人。帰り際、ある質問をぶつけてみるが…