和田竜二とテイエムオペラオーの『絆』~人生を変える名馬との出会い~

2000年の有馬記念をテイエムオペラオーが優勝 写真:東京スポーツ/アフロ
21歳の若武者が経験した"人生を変える名馬"との出会い
2018年の宝塚記念をミッキーロケットで制し、レース後のインタビューで「オペラオーが後押ししてくれたと思う」と涙ながらに語った和田竜二騎手。
かつて自身が手綱を取っていた愛馬テイエムオペラオーに対し、「次にGIを勝つまでは会いに行かない」という誓いを立てていたことがあのインタビューでの男泣きにつながった。そんな和田竜二とテイエムオペラオーとのコンビはどんなものだったのか。
テイエムオペラオーが生まれたのは1996年。
半姉にCBC賞2着のチャンネルフォーがいるものの、それ以外には特にこれといった活躍馬はおらず、父も当時日本での活躍馬がいなかったオペラハウス。
お世辞にも良血とは言い難い馬だったため、牧場での評価も特に高いわけではなかったが、のちにこの馬の馬主となる竹園正繼は「光輝いて見えた」というほど惚れ込み、セリ市にて1000万円という安価でこの馬を手に入れた。
そして厩務員の息子として育った和田が騎手としてデビューしたのはくしくもオペラオーが生まれた年に当たる1996年。
岩元市三厩舎所属の旗手としてデビューした和田はステイヤーズSで重賞初制覇を飾るなど、この年33勝を挙げて関西の騎手の新人賞に該当する中央競馬関西放送記者クラブ賞を受賞するなど、若手のホープとして期待される存在だった。
そんな岩元厩舎に所属することになったのがテイエムオペラオー。
実はオペラオーの馬主の竹園と調教師の岩元は同郷の幼馴染という間柄。以前から竹園の所有馬を管理していた。
竹園が所有し、岩元が管理していたテイエムトップダンという馬には和田を主戦騎手として騎乗させ、牡馬クラシック3冠レースに出走させている。
言うなれば、和田とオペラオーとのコンビはデビュー前から深い縁で結ばれていたとも言えるだろう。
和田とオペラオーのコンビがクローズアップされたのは1999年の皐月賞。
毎日杯を制したことで追加登録料を支払ってまで出走したオペラオーは5番人気でこのレースを迎えたが、直線一気の末脚を見せて勝利。騎乗した和田はもちろん、竹園や岩本にとっても初のGI制覇となる大きな1勝を挙げた。
しかし、この後のオペラオーは勝ち星から遠ざかる。
2冠を目指したダービーはアドマイヤベガの3着に終わり、京都大賞典3着から挑んだ菊花賞ではナリタトップロードを捕まえられずに2着という具合にあと一歩届かない惜敗ばかり。
大レースでの騎乗経験が少ない和田に敗因を求める声も多く実際、菊花賞後にオーナーの竹園が和田の騎乗に激怒し、乗り替わりを岩元に指示したほどだった。
これでコンビ解消もやむなしと思われたが、それを食い止めたのは調教師の岩元。弟子である和田を育てるためにコンビ続投を竹園に直訴し、竹園が了承したことでオペラオーと和田のコンビは継続となった。
その後のオペラオーと和田はステイヤーズS2着、有馬記念3着と足踏みしたものの、オペラオーが4歳となった2000年は2月の京都記念を皮切りに、阪神大賞典、天皇賞(春)、宝塚記念とGI 2勝を含む4連勝を記録した。
オペラオーの勢いは秋になっても衰えず、復帰緒戦の京都大賞典を勝ち切ると、続く天皇賞(秋)も1番人気で勝利。当時「秋の府中には魔物が棲んでいる」として1番人気馬は12連敗中だったが、そんなジンクスすらあっさりと破ってしまった。
オペラオーと和田は返す刀でジャパンCでも世界の強豪たちをねじ伏せて勝利して、ここまで7戦7勝。最後の締めくくりとして有馬記念へ。
このレースでは再三の不利がありながらも前を行くメイショウドトウをハナ差だけ捕えて勝利して重賞8連勝、GI5連勝を達成して年間無敗で2000年を終えた。テイエムオペラオーはいつしか「世紀末覇王」と呼ばれるようになった。
翌2001年も現役を続行したオペラオーはさすがに衰えが目立ち始めたが、それでも天皇賞(春)を連覇してGI 7勝を達成。
有馬記念後に引退する際には歴代最高賞金(当時)となる18億3518万9000円を獲得し、歴史に名を残す名馬となった。
17年後、ミッキーロケットで制した宝塚記念はくしくも和田とオペラオーのGI連勝記録が途切れたレースでもある。天国に行ったオペラオーが和田を後押ししたというのも頷ける。
■文/福嶌弘
■テイエムオペラオーT.M.Opera O(JPN)
生年月日:1996年3月13日
性別:牡
父:オペラハウス
母:ワンスウエド
母の父:Blushing Groom
母の母:Noura
馬主:竹園正繼
調教師名:岩元 市三(栗東)
生産牧場:杵臼牧場
毛色:栗毛
産地:浦河町
総賞金:1,835,189,000円