「くだらんものを発明しやがって」…人間爆弾「桜花」で死ぬはずだった元搭乗員が語った、「桜花の発案者」に対する思い
太平洋戦争末期、日本海軍は、1.2トンの爆弾に翼とロケットをつけ、それに操縦席をつけたような形の特攻兵器「桜花」を開発、実戦に投入した。「人間爆弾」とも呼ばれた桜花は、母機の一式陸上攻撃機に懸吊され、投下されたら滑空で、あるいはロケットを吹かして敵艦に突入する。のべ10回の出撃で、桜花は米駆逐艦1隻を撃沈、6隻に損傷を与えたが、その戦果はとても犠牲に見合うものではなかった。生き残った元桜花搭乗員は戦後も長く結束を保っていたが、今年(2026年)、ついにその最後の一人が亡くなった。
私は2023年6月、『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館)という本を上梓している。大戦中、桜花を発案し、終戦直後に自決したとされながら、戦後は戸籍も名前も失ったまま半世紀近くを別人として生きた大田正一とその家族の数奇な運命を描いたノンフィクションだ。この作品のなかで大きな役割を占める桜花特攻隊員が、貴重な日記を残していた。「死」を目前にした隊員の目に映っていたものとは――。(第1回前編)
人間爆弾「桜花」の発案者に対し渦巻く思い
拙著『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館)は、「人間爆弾」とも呼ばれる特攻兵器「桜花」の発案者とされる大田正一の数奇な人生を描いたノンフィクションである。大田は終戦直後に自決したとされ、戸籍も名前も失ったまま半世紀近くを生きた。
この本を書くにあたっては、それまでに30年近く、多くの当事者にインタビューを重ねてきたことがきわめて役に立った。大田に関しては、「叩き上げのノンキャリアの特務少尉が海軍の方針を左右できるはずがない」、つまり黒幕がいたはずだという同情的な意見もあれば、特攻隊の下士官兵搭乗員のなかには呪詛に近い言葉を投げかける者もいた。
なかでも、大田に対し辛辣だったのが、元桜花搭乗員の佐伯(旧姓・味口)正明・元上飛曹(1926-2022)である。佐伯は昭和20(1945)年1月17日、桜花の練習機・K1での訓練で着陸に失敗、顔面と頭部を36針縫う瀕死の重傷を負い、そのために出撃することなく茨城県の神之池基地で終戦を迎えた。終戦時19歳。
「大嫌いでしたね」
会いに来た大田の息子・大屋隆司に対し、挨拶もそこそこに佐伯は言った。
「神之池でしょっちゅう会ったけど、直接話をしたということはまずなかった。大田少尉のことは、極端に言うたら(われわれの間では)ボロクソやった。最低の人間や。あいつがこういうこと(桜花)を発明したから俺たちは死なないといかん、そう思う者がかなりおったはずです」
「くだらんものを発明しやがって」
隆司は、じっさいに桜花で死ぬはずだった当事者から、面と向かってそのことを突きつけられたのは初めてだった。
「じつはこんど、人間爆弾の桜花というのを海軍省が作ったんで、そのパイロットになって『敵艦に命中せい』っていうんですよ。自殺ですよね。桜花は爆弾の形しとるでしょ。だから(着陸するための)車輪がないし、練習機には橇をつけた。それで(訓練中に)ジャンプしてね、ほんで私、ケガしたから生き残れたんや」
佐伯は神雷部隊の戦友と4人で写った写真を指して、「私を除いて3人とも戦死しました。私だけが生き残ったわけやからね。みなさんに説明するとき涙が止(や)みません」と言い、さらにこう言葉を継いだ。
「終戦のとき、大田さんへの非難の声もさかんに耳に入ってきました。あんたが桜花というものを上へ、生産をやれと申告しただろうが、ということでね、だいぶひどい目に遭(お)うたようです。殺されてもおかしくなかったでしょうけどね。それで本人も、『わしもこれでは生きておれん』という気持ちになったんやろうと思います」
終戦の3日後、佐伯は大田が零式練習戦闘機を操縦し、神之池基地を飛び立つのを目撃したという。
「あの人は操縦員じゃない、偵察員やから見よう見まねでね。神之池の滑走路をヨロヨロしながら、ちょうどボロの古いミシンでね、布を縫うように上がっていくでしょう。車輪を出したまま南東の方角に向かって、そのうちに飛行機の姿が一つの点になって見えなくなった。どこかで死のうと思ったんでしょうね。私らも、あっちへ飛んで行ったんなら太平洋に墜ちるしかないと話してたんです」
佐伯は、現在の自分自身の気持ちとしては大田正一への恨みはないと語り、つとめて隆司を傷つけまいとする気遣いを見せた。だが、言葉のはしばしに大田への反感はにじみ出てくる。
「おそらく復員した連中のなかには、大田さんを憎む立場の人もおったんでしょう。逃げ回ってたというのは、それが心の底にあったんでしょうね。お父さんは、死んで目をつぶるまで頭にあったと思う、『お前がくだらんものを発明しやがって』という批判がね……」
あらかじめ覚悟はしていたが、やはり面と向かって父のことを「大嫌いでしたね」「最低の人間や」と言われるのは、隆司にとっては心が折れそうになるほどつらいことだった。
思いがけず特攻部隊へ入隊
佐伯正明は戦争中、「大空の記」と題するノート8冊(本来もう1冊あったが、最初のものは戦災で焼失)におよぶ手記を、終戦2年後の昭和22(1947)年には「神雷の回顧」と題した手記を書き残している。いずれも、当事者ならではの視点で書かれていて、資料的価値も高い。
ここでは佐伯の手記を、5回に分け紹介する。旧漢字、旧仮名遣いは現代の書き方に修正するが、日時や人名を意図的にぼかしている部分はそのまま紹介する。
佐伯は、昭和18(1943)年4月、乙種(特)飛行予科練習生、通称「特乙」1期生として海軍に入り、予科練での基礎教程ののち、北浦海軍航空隊で飛行訓練を受けて水上偵察機の操縦員となり、大津海軍航空隊を経て天草海軍航空隊に配属された。
特攻志願のくだりの日記は戦災で失われたが、佐伯は生前、私に、昭和19(1944)年8月、「必死必中の新兵器」の志願が募られたさい、それがどんな兵器かもわからないままに志願に応じたと語っている。
「神雷の回顧」によれば、昭和19年10月、フィリピンで「神風特別攻撃隊」の出撃が始まったときも、「陸上機の連中は忙しくなったな……と他人事のように思った」と記している。天草空は、操縦員9名、偵察員4名、飛行機も零式観測機、二式水上戦闘機、零式三座水偵が数機ずつある程度の小さな部隊だった。佐伯は、志願はしたが水上機の自分が特攻隊に編入されることになるとは思わなかったという。だが、その日は突然やってきた。11月中旬のことである。
〈のんきに水上機で毎日洋上をのり廻していたら、今度こそ本当に自分たちにも「転勤」の追加が来たのである。他人事ではなく、自分たち三名に来た。(中略)戦闘機隊かもしれない。そう思ったが、それにしては様子がへんだと思った。何もかもわからんままで入隊してしまった。(注:11月17日のこと)
「七二一空」(注:第七二一海軍航空隊、通称神雷部隊)に転勤して第一番に思ったことは、ここで使用する小型機は「K1」(ケイワン)というのだということ。(注:K1は人間爆弾桜花の練習機型)
全然予備知識なぞ持ち合わせなかった自分たちが、それを見たいと思ったのはムリもない。
しかも、これが今、全海軍あげて活躍を期待されている特攻機だということも知った。(中略)
K1について、実際に見たのは入隊翌日であった。兵舎で、夕食後がやがやと騒ぎながら総員外出してしまったあと、(一緒に転勤した)三人が残っていると、F兵曹の同期生H兵曹が外出もせずに居残っていて、早速昔友達のF兵曹と話し出した。
「おい。手前見たか」(予科練からこの二人はテメエとよんでいたらしい)
「アレか」
「そうだよ、見たのか」
「いーや、まだだ。うるさいそうじゃないか」
「バカ、見ておけ。何も尻込みすることはない。どうせそれに乗ってしぬんじゃないか。だれが見て文句を言うやつがある」〉
18歳の佐伯少年によるK1観察の記録
K1の格納庫は、たとえ士官でも立ち入りを禁止されていたという。部隊では先輩のH兵曹に言われるがまま、三人は飛行場に出て褐色に塗られた格納庫に向かう。番兵が立っていたが、搭乗員とみると中に入るのを黙認してくれた。
《まわり一面桃色に塗った魚雷型の小さいノッペラボーがおかれているのに目がつく。K1だった。
近寄ってポンとたたく。随分と丈夫だ。カラカラと風防をあけて座席の中へまたがり込む。風防ガラスをカッチリとしめると、とたんに空気の流れがとぎれて、蒸し暑いような感じがした。
前面の計器板には必要な計器…(アップ計)(速力計)(旋回計)(左右傾斜計)(高度計)などがせまい板上にひしめき合っていて、そのそばに、ロケット切換装置が大きくとりつけられてあった。
座席に座ると、アタマが風防ガラスの天井にとどきそうに低かった。外から見ると小さい形をしている割に風防ガラスが突出しているという感じだったが、実際入ってみるとそう広くないのに気がついた。座席右側はフラップの目盛りがついた金具がつけられてあり、危急の際にがっくりと外れて体を放り出す離脱装置があった。ハンドルをぐっと傾けて力いっぱいひっぱると側板ががちゃりと二尺ほど外れて、せまい機体からラクにとび出させる仕掛けになっていた。
これを使用するのは練習のさいだけであるので、もちろん実機(注:桜花)にはこんなものはみられず、落下傘をいれるだけの余裕をもたしてもいなかった。(中略)
操縦桿は踏み棒(注:フットバー。方向舵を動かす)と共に、固く固縛装置によってしめられ、ネジ式の細長い金具が引きとめていたが、これをしないと陸攻の腹の下でパタパタと翼が動くので、陸攻までがゆらいで危ないので、とりつけたものであった。
もちろん上空に達してこれにのりこんだら、第一番に落下傘をつけ、次にこれを外しておかねばならない。ちょっと手間がかかるが、あわてさえしなかったら一分位で外せる。(中略)
このK1の製造は、と尾部を見ると、ワク内に「横須賀空技廠」とかかれていた。〉
18歳の佐伯が、近い将来自分が乗ることになるK1を冷静に観察しているのがわかる。
【後編を読む】「早く死ねば得」…人間爆弾「桜花」の搭乗員が語った、日本海軍の「陰惨な制裁」の実態【太平洋戦争】
