鈴木さんの自宅。1階部分は津波でえぐられた。中央奥に、2階への階段がある(2011年4月)=鈴木さん提供

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今野照夫さんの震災日記 3月11日<下>

 津波で流された宮城県石巻市北上総合支所職員の今野照夫さんが助かったのは、元保育所長の鈴木光子さんのおかげだった。

 鈴木さん宅は北上川沿いの一軒家で、支所からは400メートルほど上流にある。津波はあっという間に2階の床上までせり上がり、1人でいた鈴木さんは取り残された。

 2階の窓から濁流をぼう然と眺めていると、釣石神社方面から屋根のがれきが近づいてきた。男性が乗っている。「なんだ、照夫君じゃないの」と鈴木さんは声を上げた。16歳下の今野さんは旧北上町時代からの同僚で、勤務先の保育所でも子ども2人を預かった。

 このとき今野さんはすでに2時間近く漂流していた。支所のすぐそばで渦に巻き込まれて沈んだかと思えば、引き波で3キロ離れた白浜の沖まで流され、何度も死を覚悟した。その後の押し波で北上川を遡上(そじょう)し、支所を通りすぎた。風が強まり、雪も降ってきた。

 このあたりで猛烈に眠くなってきた。低体温症の症状だった。

 鈴木さんの声でハッと意識を取り戻す。今野さんが乗るがれきが、導かれるように鈴木さんの家に近づき、2階と1階の間にある屋根にくっついた。

 「がんばって上がってきなさい」と鈴木さんが身を乗り出して励ました。しかし全身に力が入らず、水面から屋根まで1メートルもない段差がどうしても上がれない。そのうちにがれきが離れ始めた。

 ここが最後のチャンスかもしれない。

 家の7、8メートル先に電柱が立っていた。もうろうとした状態で垂れ下がった電線にしがみつき、夢中で泳いだ。

 濁った水中でどうやって階段の場所を見つけたのかは分からない。2階にはい上がってきた今野さんはブルブル震え、顔は真っ白で、まるで死人のようだと鈴木さんは思った。夫の正太郎さんの服を貸すと、自分で着替え、言葉ひとつ発さずにベッドにもぐり込んだ。

 防寒着を着込んだ鈴木さんは体がぽかぽかだったので、手や足や頬をマッサージしてやった。しばらくすると震えはおさまり、いびきをかいて眠りについた。

 今野さんにこのときの記憶はない。ただ「菩薩(ぼさつ)様のような金色の人」が温かい手でさすってくれた感触は残っている。のちに鈴木さんに伝えたら、「なんだい、年とった菩薩さんだったね」と笑っていた。

生と死は背中あわせ

 「生と死は薄紙より際どい背中あわせにある」。学徒動員中に長崎市の爆心地近くで被爆して生き延びた作家の林京子は書いている。

 今野さんの生還にも、いくつもの偶然があった。

 鈴木さんは夫と2人暮らし。どちらも退職して家にいたが、夫が朝から出かけたのはたまたまだった。夫婦そろっていたら車で一緒に避難し、自宅はカラだっただろう。

 鈴木さん自身、映画館に行こうかと思っていた。しかし、翌日の中学の卒業式に来賓として出席することを思い出し、2日続けて留守にするのは気が引けてとりやめた。

 3年前に建てた新築で、周辺の家が流される中、津波に耐えたこと。日没の前に引き寄せられるように家に近づいたこと。数え上げればきりがない。

 どれ一つ欠けても生還はあり得なかった。「運がよかった。縁があったんだねえ」と鈴木さんは言う。