警察が唯一「特定危険指定暴力団」に指定した工藤會の”市民を巻き込んだ暴力”による北九州支配の歴史
かつて20万人もの構成員を擁した暴力団。
覚せい剤の輸入や賭博、みかじめ料の徴収で莫大な収益を上げ、1980年代の年間収入は推計8兆円に達したと言われる。だが平成に入って以降、暴対法の制定や警察の行き過ぎた捜査、メディアによる批判的な報道が原因となり、暴力団は衰退の一途をたどってきた。
では、暴力団が社会から消えていくことは、我々一般国民にとって「良いこと」だけなのだろうか?しばし「必要悪」として語られてきた“やくざ”の実態を、『やくざは本当に「必要悪」だったのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。
血なまぐさい北九州の歴史
標章を掲示する店の経営者などへの襲撃が止んだのは2012年12月、県公安委が工藤會を「特定危険指定暴力団」に指定し、また県警が他の都道府県警察に応援を求め、街をパトロールさせたからである。
世間では昔から南や西の暴力団は好戦的で暴力的という都市伝説があるが、事実、戦後の工藤會は血なまぐさい事件に彩られていた。
1963年、北九州市の興行利権を巡り当時の工藤組と田岡時代の山口組が争い、工藤組の組員が、進出してきた山口組系の組員2人を市内の紫川に連れ出し、撲殺した(紫川事件)。
工藤組はその後工藤會と名を変え、工藤組若頭の草野高明は別に草野一家を結成した。草野一家と工藤會はその後激しく争い、草野一家系極政会組員が工藤會系田中組組長の田中新太郎を射殺した。
1980年、極政会組長の溝下秀男が草野一家の若頭に上り、1987年工藤會と草野一家は合併し、工藤連合草野一家(1999年工藤會に改称)を名乗った。1990年、溝下秀男が3代目会長に、2000年には野村悟が4代目に、2011年に田上不美夫が5代目工藤會会長に就任した。
元漁協組合長射殺事件
工藤會は主に市内で殺傷事件を繰り返してきたが、初めの頃の重大事件に元漁協組合長射殺事件がある。
1998年2月、北九州市小倉北区の路上で元脇之浦漁協組合長・梶原國弘に対し工藤會系組員の犯行と見られる犯罪が起きた。拳銃を4発発射し、死に至らしめたのだ。事件後、工藤連合草野一家の当時の組長らが殺人罪などで逮捕、起訴され、2008年、そのうち2人について無期懲役と懲役20年の有罪判決が確定したが、工藤連合の最高指令者は逮捕されなかった。
2013年12月、先に射殺された組合長・梶原國弘の実弟で、北九州市漁業組合長である上野忠義も射殺された。福岡県警はこの事件と併せ1998年の梶原國弘射殺事件も洗い直した。
射殺された梶原は砂・砂利販売会社の玄海砂利を営んでいたが、脇之浦漁協だけでなく、北九州十数組合のすべての漁協を押さえる力を持っていた。若松地区のみならず、北九州市の港湾建設業者のほとんどが玄海砂利から砂・砂利を購入していた。
また梶原は1981年ごろ響灘の洋上に白島石油備蓄基地を誘致する構想に対し、福岡県と山口県の漁協関係者の意見を取りまとめ、漁協に対する漁業補償金を48億円で締結したりし、行政、建設業、漁業の世界では広くその名を知られていた。
また工藤會の前身、工藤連合草野一家の総長だった草野高明と親しく情報を交換する仲だったが、草野の死後、工藤會のとりわけ主流である田中組系の野村悟、田上不美夫などとは交わりを断つよう変わっていた。
北九州市は1996年、響灘に面する若松区に総事業費2200億円とされるコンテナターミナルを建設すると発表するなど、梶原の周りには金権臭が芬々と漂っていた。
工藤會・野村悟や田上不美夫は何度も脅すなどして梶原や関係者に交際を迫り、利権をもぎ取ろうとしていた。
【後編を読む】「暴力団をつぶすため」なら何をしても許されるのか?…工藤會の殲滅を狙って福岡県警が発動した“超法規的運用”の実態
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