第二次世界大戦で、ドイツは不利な状況に置かれながら、天才作戦家マンシュタインの破天荒な計画により、フランスをわずか1カ月半で降伏に追いやった。一体どのような作戦だったのか。現代史家の大木毅さんの著書『天才作戦家マンシュタイン 「ドイツ国防軍最高の頭脳」――その限界』(KADOKAWA)より一部を紹介する――。
東部戦線で将校たちと会談中のアドルフ・ヒトラー(写真=National Digital Archives/PD-Poland/Wikimedia Commons)

■ドイツのポーランド侵攻

ポーランドとの戦争の大勢が決したころ、ヒトラーは早くも参戦した英仏両国に対する攻勢を、しかも早期に実施すると決断していた。9月27日、陸海空三軍のそれぞれの総司令官に対し、秋季のうちに、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの中立を侵犯する攻勢を行うとの通達がなされた。ついで、10月9日付で、西方攻勢の準備を命じる総統指令第6号が発せられる。

驚くべきことに、ヒトラーは当初、11月12日には西方侵攻を開始するつもりであったが、陸軍総司令官ブラウヒッチュ上級大将は、それでは、天候によってドイツ側が優勢である航空戦力の支援が受けられなくなるし、あらたな部隊の編成作業も完了できないとして、反対した。これにはヒトラーも折れないわけにはいかず、可及的速やかに発動するとの留保をつけながらも、西方作戦発動を延期したのであった。

■「マジノ線」を迂回して攻撃する計画が立てられたが…

以後、1939年の晩秋から翌40年の初夏に至るまで、西部戦線のドイツ軍と英仏連合軍は、大規模な軍事行動を控えたまま、いわば、にらみ合いを続ける。英語で「まやかし戦争(フォウニィ・ウォー)」、フランス語で「奇妙な戦争(ドロール・ド・ゲール)」、またドイツ語では「座り込み戦争(ジッツクリーク)」と形容される、異様な事態が訪れたのである。

この間に、OKH(陸軍総司令部)は西方侵攻「黄号(ファル・ゲルプ)」作戦の立案を進めたが、その構想は旧態依然たるものがあったといわざるを得ない。ハルダー陸軍参謀総長以下、OKHの参謀たちは、フランスがドイツとの国境に築いた要塞帯、いわゆる「マジノ線」(この要塞線構築の予算案を通過させるために努力したフランスの陸軍大臣アンドレ・マジノにちなんで、このように称された)を、正面から突破することは困難であるとみた。

そこで、西部戦線にあるドイツ軍の右翼を強化し、これを以てマジノ線がおよんでいないベルギーを突破、英仏海岸に進んで、連合軍を包囲撃滅するという計画を立てたのだ。

■ヒトラーは苛立っていた

第一次世界大戦の前夜、当時の陸軍参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェン元帥(最終階級)は、ドイツは東でロシア、西でフランスとの二正面戦争を余儀なくされると想定した。その場合、国土が広大であるために動員が遅く、ドイツ東部への侵攻もあとになるであろうロシアはひとまず措いて、まず西部に主力を送り、短期決戦でフランスを降すべきだというのが、シュリーフェンの戦略だった。

作戦的には、ドイツ軍の右翼を強化し、パリの西方(東方ではない)を通過する一大機動によって、フランス軍を包囲殲滅する構想であった。世にいう「シュリーフェン計画」である。

1939年から1940年初頭までのOKHの西方作戦構想は、つまるところ、このシュリーフェン計画の延長線上にあったのだといっても過言ではあるまい。

当然のことながら、ヒトラーは、かくのごとき作戦案に不満であった。カイテルによれば、総統の感想は、「右翼を強化して大西洋岸をめざすというのは、昔のシュリーフェン計画を思いだす。こんな作戦は一度やったらたくさんだ」というものであった(Görlitz, Generalfeldmarschall Keitel)。

まさしくヒトラーは、決戦を命じる指示に従おうとしない陸軍首脳部と、彼らの新味に欠ける作戦構想に苛立っていたのである。

■OKHの作戦の欠点を見抜いたマンシュタイン

一方、コブレンツのマンシュタインも、10月19日に出されたOKHの西方侵攻作戦草案に疑義と失望を覚えていた。彼は、ポーランドからコブレンツに赴任する途上の10月21日に、ベルリン南方ツォッセンに置かれたOKHの司令所で、自ら、この作戦案を受領したのだが、これを一読するや、その欠点を見抜いた。

OKHの主張する、ドイツ軍右翼を強化して攻勢に出る構想は、連合軍主力との激突を招くことになる。その結果、連合軍を押し戻しはするだろうが、これを包囲殲滅することはできない。しかも、ドイツ軍右翼(北翼)のB軍集団が突出するにつれて、その側面に連合軍の反攻が向けられることは必至である。

そう考えたマンシュタインは、破天荒な着想を得た。かかる事態を回避し、決定的な戦果を上げるためには、B軍集団ではなく、ドイツ軍戦線中央に位置するA軍集団に攻勢の重点を置き、さらに装甲部隊を集中して、敵が想定していない正面で突破することだ。

その正面とは、ベルギーとルクセンブルクに広がるアルデンヌ森林地帯にほかならない。装甲部隊の通過が困難だとされている森を駆け抜け、普仏(ふふつ)戦争の古戦場であるスダン付近で自然の要害であるムーズ(ドイツ名マース)川を渡河し、連合軍の戦線を分断する。

のちに「マンシュタイン・プラン」と呼ばれる計画、「鎌の一撃(ジッヒェルシュニット)」と称されることになる攻勢案が芽吹いたのであった。しかも、この「マンシュタイン・プラン」は、単に作戦次元のみならず、戦略次元においても状況を一変させる可能性を秘めていた。

地図作成=本島一宏

■不利な戦況をひっくり返せるかもしれない

ドイツは短期戦でポーランドを征服したものの、多数の植民地を有し、厖大(ぼうだい)な資源を自由にできる英仏に対しては、戦略的には不利な状況にある。戦争が長期化して、総力戦に突入すれば、いずれは敗北の憂き目に遭うことは間違いない。だからこそ、ヒトラーは、英仏に先んじての軍拡によって得た当面の優位を活用し、急ぎ攻勢に出ようと逸(はや)ったのである。

通常、戦略・作戦・戦術の戦争の三階層において、下位次元の成功によって、上位次元の失敗や不利を埋め合わせることはできないとされている。しかし、「マンシュタイン・プラン」により、総統が望んだ電撃的な勝利を得て、作戦次元の変化により、戦略的苦境を克服することが可能になるやもしれぬ。

ところが、A軍集団司令部があらたに受け取ったOKHの改定作戦案(10月29日付)は、右翼に兵力を集中しての攻勢という、相も変わらぬ構想にもとづくものだった。この間、ルントシュテットの支持を取り付けていたマンシュタインは、ただちに反論に転じ、独自の作戦案をまとめた覚書をOKHに送付、それらは、1939年10月31日付、11月6日付、21日付、30日付、12月6日付、18日付、1940年1月12日付と、最終的には7通にもおよんだ(『電撃戦という幻』上巻)。

それらの骨子を要約すれば、3点になる。第一にA軍集団を西方攻勢の主力とすること、第二に北部ベルギーに進出してくると予想される連合軍を背後から叩(たた)くために有力な装甲部隊を同軍集団に配備すること、第三にフランス軍による南方からの反撃をくじくために一個軍を用いることである。

■当初マンシュタインの案は採用されなかった

こうした構想にもとづき、マンシュタインとルントシュテットは兵力の増強を求めた。現有の2個軍(第12ならびに第16)だけでは、まったく足りない。マンシュタインは、第12軍と第16軍を増強するとともに、3個目の軍を配属してくれるように請願した。

しかし、OKHは、ルントシュテットとマンシュタインの構想を採用しようとはしなかったし、兵力増強も肯(がえ)んじなかった。たとえば、11月3日、コブレンツのA軍集団司令所を訪問した陸軍総司令官ブラウヒッチュ上級大将は、増援を乞われても、「ふむ、私のところに、そんな兵力が余っていたら、な」と受け流すだけであった。

もっとも、11月12日に、ヒトラーの命令により、突如、第19自動車化軍団を基幹とする快速部隊がA軍集団麾下(きか)に置かれることになり、マンシュタインらを驚かせた。ただし、これは、A軍集団の企図が総統に認められたということではなく、戦略的・作戦的に深い意味があるわけではなかった。

マンシュタインが観察するところによれば、その装甲部隊に渡河点を確保させ、B軍集団の攻勢に資するという、戦術的な意義にヒトラーが着目したがためだろうと、マンシュタインは戦後の回想で述べている(『失われた勝利』上巻)。

さりながら、A軍集団に第19自動車化軍団が増援されたことは、「マンシュタイン・プラン」の発展に、おおいに貢献することとなった。というのは、同軍団の指揮官は、ハインツ・グデーリアン装甲兵大将だったからである。

■「戦車運用の第一人者」を味方につけた

マンシュタインとグデーリアンは、陸軍大学校の同期生でありながら、必ずしも親密な友人というわけではなかった。しかしながら、その後のグデーリアンは、ドイツ装甲部隊の育成に尽力し、いまや、戦車の運用に関する第一人者と目されるまでになっていた。

マンシュタイン自身も、第一次世界大戦でスダン地域に配属されたことがあり、その周辺の地勢はよく知っていたが、「マンシュタイン・プラン」の重要なポイントである装甲部隊のアルデンヌ通過について、信頼できる判断を下せるのは彼を措いてほかにはない。

幸運な偶然というべきか、グデーリアンとマンシュタインがそれぞれ宿舎としていた二つのホテルは隣り合っていた。11月のある日、マンシュタインは、宿舎にグデーリアンを招き、おのが構想を打ち明けた上で、装甲部隊の視点から検討するよう求めた。

グデーリアンはこの要望を受けて、地図を検討し、第一次世界大戦でこの地域を通った際の自らの経験も加味して分析した。その結果、マンシュタインの計画は実行可能だと太鼓判を押したのである。

しかも、マンシュタインにより大きな展望を与える意見を、グデーリアンは付け加えていた。かかる計画を成功させるためには、装甲部隊・自動車化部隊を充分に、「いちばんよいのはすべてを」投入すべきだと、グデーリアンは断じていたのであった(『電撃戦』上巻)。

■「初めは処女のごとく、終わりは脱兎のごとく」

グデーリアンの保証を得たマンシュタインは、自らの構想に確信を持ち、いよいよ上層部の説得に注力するようになった。つぎからつぎへと覚書を作成し、ルントシュテットの後ろ盾のもとにOKHに意見具申したのである。

11月21日付覚書には、アルデンヌ森林地帯を踏破しての奇襲により、連合軍が態勢をととのえないうちにムーズ川を渡河、ソンム川の河口部に突進するとの構想が述べられた。続く12月6日付の覚書では、マンシュタインの計画を遂行するのに必要な兵力が見積もられている。

やや不可解なのは、グデーリアンから、あらゆる装甲部隊を投入すべしとのアドバイスを得ていたにもかかわらず、この覚書では自動車化軍団2個が要求されるにとどまっていることだ(つぎの12月18日付覚書でも同様)。

これについて、軍人研究者メルヴィンは、この時点ですべての装甲部隊をA軍集団に配備せよと請願するのは過早・過大な要求になるとマンシュタインは判断したのではないかと推測している(メルヴィン上巻)。

残念ながら、その仮説を裏付ける史料や証言は残されていないが、のちにマンシュタインが全装甲部隊の集中を求めたのは事実である。だとすれば、当時のマンシュタインは、「初めは処女のごとく、終わりは脱兎のごとく」という交渉方法を採ったのかもしれない。

■OKHの説得には至らなかった

しかしながら、OKHはマンシュタインの進言に耳を貸そうとはしなかった。ブラウヒッチュ陸軍総司令官とハルダー陸軍参謀総長は、旧来のOKH案に固執し、「マンシュタイン・プラン」をOKW(国防軍局)にまわして検討に付すことを拒否したのである。

1月10日のメヘレン事件(悪天候で連絡機がベルギーに不時着し、搭乗していた将校が携行していた空軍の作戦命令書が押収された)で、西方攻勢構想の漏洩が危惧されるようになっても、そうしたOKHの姿勢は変わらなかった。

翌1940年1月25日、マンシュタインはOKH首脳部と正面から衝突することになる。この日、コブレンツで、A軍集団麾下の諸軍の司令官を集めての会議が開催され、ブラウヒッチュ陸軍総司令官も出席した。そこで、マンシュタインは再び自説を主張し、第19自動車化軍団のみならず、2個目の自動車化軍団(第14)をも投入しなければ、スダンで決定的な勝利を得ることはできないと断じたのである。

これに対するブラウヒッチュの回答は、OKH直属の総予備とされていた第14自動車化軍団をA軍集団に移すことは許さぬというものだった。

西側(西側作戦)。森の中のII号戦車(写真=連邦公文書館所蔵/Bundesarchiv, Bild 101I-382-0248-33A/Böcker/CC-BY-SA-3.0-DE/Wikimedia Commons)

■A軍集団参謀長からの「左遷」

この陸軍総司令官に面と向かって反論したことが、直接のきっかけになったかどうかはわからない。しかし、その2日後、1月27日にマンシュタインは、A軍集団参謀長の職を解き、第38軍団長に補すとの辞令を受け取るはめになった。

マンシュタインの回想録によれば、この人事は25日の会議の際に、ブラウヒッチュがルントシュテットに内示したもので、理由としては、ゲオルク=ハンス・ラインハルト中将が軍団長に就任するので、彼よりも先任序列が上のマンシュタインも同等の地位に据えないわけにはいかないというものだった(『失われた勝利』上巻)。

いずれにしても、第38軍団は編成作業にかかったばかりで、いまだ紙上の存在でしかない。その長に任命されるというのは左遷であって、けっして栄転ではあり得ない。グデーリアンほかの僚将たちの多くはそう考えたし、誰よりもマンシュタイン自身がそのように受け止めていた。グデーリアンの回想録から引用しよう。

「マンシュタインは、そのことで(自らの構想を主張しつづけたこと)で、はなはだしくOKHの不興を買ったため、ある歩兵軍団長に任命された。彼は、せめて装甲軍団(自動車化軍団)を預けてくれと申し出たが、一顧だにされなかった。かくて、われらが最高の作戦的頭脳は、動員第三波の軍団とともに本戦役(西方攻勢)にのぞむことになったのだ」(『電撃戦』上巻)。

それでも、マンシュタインはおのが計画を実現させるために粘った。2月7日に図上演習を実施し、第19自動車化軍団のみでスダン攻撃を行うのは困難だと結論づけたのである。この演習を参観していたハルダー陸軍参謀総長も装甲部隊強化の必要を認識するに至ったと、マンシュタインは観察している。

さりながら、これがマンシュタインのA軍集団参謀長としての最後の仕事になった。

2月9日、離任した彼はコブレンツを去る。しかし――その「マンシュタイン・プラン」をめぐる闘争は、首都ベルリンで思いがけぬ転機を迎えることになる。

■歴史を変えた高級軍人の朝食会

マンシュタイン自身は失望していたが、実は、彼のあずかり知らぬところで情勢は動きだしていた。ヒトラー総統は従来の西方攻勢の構想に満足せず、作戦案の再検討を望んでいたし、ハルダー陸軍参謀総長も、コブレンツの図上演習の結果に影響され、A軍集団に装甲部隊を集中するべきかと考えはじめていたのだ。

こうした空気のなか、それは生起した。

1940年2月17日、マンシュタインは、ベルリンの新宰相府で開催された朝食会に出席した。人事異動であらたに軍団長・師団長になる5人の高級軍人(その1人に、第7装甲師団長となるエルヴィン・ロンメル少将もいた)を引見すべく、ヒトラーが催した会合であった。その席上で、マンシュタインは自分の構想を直接ヒトラーに進言したのである。

もっとも、この出来事は偶然ではなかった。マンシュタインは、この機会を得るために根回しをしておいたのだ。A軍集団司令部作戦参謀ヘニング・フォン・トレスコウ中佐と総統付国防軍副官であるルドルフ・シュムント大佐が古い友人関係にあったことが、マンシュタインに幸いした。マンシュタインはトレスコウを通じて、シュムントに働きかけ、その支持を取り付けた。コブレンツを訪問したシュムントは、マンシュタインの計画に感銘を受け、これを総統に報告した。

ヒトラーもまた関心を示し、マンシュタインと直接話したいと望んだ。しかし、OKHとマンシュタインのあいだにあつれきがあることを知っていたから、表向きは転任を機とした朝食会という体裁にすることにしたのである。ちなみに、ヒトラーは、この件をブラウヒッチュやハルダーに洩らすなと命じていた(『第三帝国の中枢にて』)。

■ヒトラーに「すべて正しい」と言わしめた

この2月17日の議論は、めざましい成果を上げた。マンシュタインは、ナチス・ドイツの独裁者による全面的支持を獲得したのだ。その私的な日記から引用しよう。

「他の者とともに総統に報告。のち朝食。あらゆる国の軍事技術的革新についての〔ヒトラーの〕素晴らしい知識。その後、作戦について議論するため、1時間ほど引き止められた。OKH宛て覚書の骨子を披露。すべて同意を得る。実際、われわれが最初から示していたのと同じ視座から、思考が収斂していったのは驚くほどだった」(Manstein, Soldat im 20. Jahrhundert)。

その通りだった。ヒトラーは、マンシュタインの主張に聞き入り、ついには貴官の議論はすべて正しいとまで断じ、さらには強力な装甲部隊の投入にも同意したのであった。

ヒトラーは食言しなかった。翌2月18日、ブラウヒッチュとハルダーが、攻勢の重点をA軍集団に移すことを主眼とするあらたな作戦計画を持参したのを好機として、「マンシュタイン・プラン」の構想にもとづく改定を命じたのである。それは、2月24日付の最終作戦計画に結実した。

「鎌の一撃」が現実に形成されはじめたのであった。

■フランス侵攻は「戦史上きわめて稀な事例」

こうして、「マンシュタイン・プラン」を取り入れた「黄号」作戦が、どれだけの猛威を振るったかは、周知のことであろう。

1940年5月10日に発動されたドイツ軍の西方攻勢は、アルデンヌ森林の突破により、連合軍を分断することに成功した。連合軍は、ドイツ軍の攻勢が発動された場合には、その主力をオランダに向ける作戦を立てていたから、なおさらである。

連合軍主力が北東に進むほどに、南のベルギーを抜けたドイツ軍がその後方にまわりこむことは容易になる。この回転ドアのごとき相対的な機動の進展で、連合軍は罠にはまった。フランス軍の主力は撃滅され、イギリスが大陸に派遣した遠征軍も、装備を捨てて、英仏海峡沿岸の港ダンケルクより海路撤退するはめになった。かくて大勢は決し、フランスも降伏することになる。

この勝利は、見かけ以上の大きな意味があった。ドイツは、戦略的には、英仏に対して不利な状態にあった。戦争が長びくほど、国力に優る英仏に圧倒され、第一次世界大戦同様の敗北を喫することは必至である。それを回避するためには、軍備拡張に先手を打ったことにより、戦力の優位を保っているうちに英仏いずれかだけでも屈服させなければならないが、それはきわめて困難なことだ。

大木毅『天才作戦家マンシュタイン 「ドイツ国防軍最高の頭脳」――その限界』(KADOKAWA)

マンシュタインは、その至難の課題を達成し得る方策を案出したのであった。いわば、低位の作戦次元での成功によって、高位の戦略次元における苦境を脱することを可能たらしめたのである。戦史上きわめて稀な事例といえる。

ところが、マンシュタインは、この勝利の「脚本家」にとどまらざるを得なかった。

総統を説得し、「マンシュタイン・プラン」を実行させることに成功はしたものの、第38軍団長に補するとの辞令は撤回されたわけではない。マンシュタインは、このポストにあって、おのが計画が輝かしい成果を上げるのを傍観することになる。つまり、準主役級のA軍集団参謀長から、第38軍団長という端役に落とされたまま、西方侵攻作戦の開始を迎えたのである。

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大木 毅(おおき・たけし)
現代史家
1961年、東京生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大学その他の非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、国立昭和館運営専門委員等を経て、著述業。『独ソ戦』(岩波新書)で新書大賞2020大賞を受賞。主な著書に『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書)、『ドイツ軍事史』(作品社)、訳書に『「砂漠の狐」回想録』『マンシュタイン元帥自伝』(以上、作品社)など多数。
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(現代史家 大木 毅)