【名将の証言】なぜ最強・清水東に勝てたのか。帝京ブランドを築いた古沼監督の帝王学
凄かったのは帝京でマネージャーをやってくれた生徒たち。神戸高(兵庫)、豊田西(愛知)、藤枝東など強豪校と呼ばれるチームに電話して、試合を組むんですよ。遠征の日取り、その期間の細かいスケジュールも決めてくれて、本当に助かりました。遠方で複数の遠征試合をするなんて、高校では帝京が初めてだったと記憶しています」
──藤枝東との縁が、帝京が強豪へと生まれ変わるきっかけに?
ただ、より大きなきっかけは京都商業戦での敗戦です。監督1年目の国体で対戦した時、まあ、向こうはラフプレーの連続で汚いんですよ。当時の審判はユニホームを引っ張ったくらいじゃイエローカードを出さない。口頭だけの注意で、ある意味やりたい放題。結果、負けてしまうんです。選手権の1回戦でも京都商業に敗れてしまって、上手いだけでは勝てない現実を思い知らされるんですね。もう『チクショー』という感じで。『こんな負け方で引き下がるなんてありえない。どうにか強いチームを作って見返してやる』と心を燃やしました。敗れた悔しさから生まれた感情ですよね」
──当時の帝京は環境的にどうでしたか? 学校のサポートはどの程度あったのでしょうか?
「部費なんてほとんどありません。学校から『予算はないですからね。合宿をやるなら自分たちでお願いします』という具合です。全国大会出場を決めても、学校には『先生、今回は何回戦まで行けそうなの?』と言われるような感じで(笑)。『2回戦ですかね』と答えたら、『じゃあ、そこまでの費用をまずは出すよ』と。結局、言霊と言いますが、2回戦で負けるんです(笑)。いずれにしても、そういうやり取りを学校とは何年もやりましたね。全国大会に出たくらいで喜んでくれるような環境ではなかったです」
──いろんな苦労を乗り越え、帝京は1974年度の選手権で初優勝を果たします。ちゃんとした練習グラウンドもなかったと聞きますが、そんな環境下でも結果を出せた要因は?
「大きかったのは、高校や社会人のチームが相手をしてくれたことです。自分たちで出向いて、彼らと練習試合をやる。当然、格上だからまともに戦えば勝てないわけです。だから考えるんですよ、どうやったら勝てるかって。そういう思考を身に付けることができた点で、とても有意義でした。地方と違って、社会人の強いチームがたくさんある東京だからできたことで、むしろ環境には恵まれたと言えるかもしれません」
──チームを強くするうえで、サッカー以外に参考にした競技はありますか?
「バスケットボール、アイスホッケー、それからハンドボール。この3つはかなり参考にしました。帝京の練習グラウンドはとにかく狭いんですよ。11対11の試合なんてできない。バスケットボールのコートくらいの広さしかないから、そこで3対3や4対4のトレーニングを徹底的にやらせるんです。狭い局面でどうにかしないといけないから、自然とテクニックは身に付くわけです。大事なのは与えられた環境でどう結果を出すか。そのためのアイデアを絞り出すのが指導者の役目です」
──もちろん、走る練習も課していたわけですよね?
「例えば菅平での夏合宿では、宿舎から練習グラウンドまでの2キロを走らせました。朝練、午前練、午後練習などで往復するわけですから、1日だいたい16キロ。当然、正規のトレーニングもこなすわけなので、やる側は相当きつい。外部から見たら異常だったかもしれませんね。ただ、私はサッカー素人ですから正直程度が分かりませんでした。勝つにはこれぐらいの練習を課さないとと、そんなスタンスでやっていった結果、優勝という結果が一度のみならず、2度、3度とついてきた感じです。
