心の安らぎのため、人は愛を求める。

しかし、いびつな愛には…対価が必要なのだ。

―どこへも行かないで。私が、守ってあげるから。

これは、働かない男に心を奪われてしまった、1人の女の物語。

◆これまでのあらすじ

IT企業で働く31歳の川辺望美は、役者志望のヒモ・ヒデにお小遣いを与えながら、苦い過去を思い出すのだった。




「望美はもっと、先進的な考えの女性かと思ってた」

それが2年前、上岡と別れる時に言われたセリフだ。

上岡が望美の勤めるIT企業に転職してきて以来、2年半の付き合い。望美は29歳。上岡は42歳。望美が上岡に対して言った「結婚のこと、どう考えてる?」という質問は、ごく当たり前のもののはずだった。

だが、上岡がキョトンとした顔で告げた事実に、望美は愕然とする。

「あれ…言ってなかったっけ。僕、レベッカと書類上は婚姻関係だよ。結婚してる」

レベッカとは、上岡がシリコンバレーに残して来たビジネスパートナーのことだ。時折スカイプなどでミーティングをしているのを、望美も目にしたことがある。

そのレベッカと、上岡が…結婚している。

じわじわと言葉の意味を理解した望美は、柄にもなく悲鳴のような声を上げて上岡を問い詰めた。

「なにそれ…?聞いてないよ。どういうこと?」

望美の半狂乱な様子に引き気味になりながら、上岡は淡々と応戦した。

「ごめん。望美に結婚願望があるなんて、思ってもみなかった。レベッカと僕は確かに夫婦だけど、ご存知の通り、今はもうビジネス上のパートナーとしてしか機能していないんだ。

それで僕が帰国する時に、離婚の面倒を取るんじゃなくて、オープンリレーションシップ、つまり結婚していても自由に関係を築いていい取り決めをしたんだよ」

「わ、私は浮気相手だったってこと?2年半も?」


信じられない事実を突きつけられた、望美の悲鳴


「そうじゃない。僕はポリアモリストじゃないから。愛情は望美にあるんだよ。大丈夫、契約書だってある。訴えられたりすることは絶対ないから安心して。

だいたい、Facebookでも僕は『In an open relationship』『オープンな関係』って公表してるじゃないか。望美は当然それを分かってくれてると思ってた」

「ごめん、全然分かんないよ…」

言葉が理解できない。目の前にいる、大好きな恋人であるはずの上岡が、まるで宇宙人のようだ。

だが、荒い呼吸を繰り返す望美を見て、上岡は呆れたようにため息をついた。

「はぁ…望美。結婚してたって、してなくたって、僕は僕だよ。書類上の結婚に何の意味がある?愛情は物理的なもので結びつけられるわけじゃないんだ。レベッカはパートナー。望美は恋人。全く別のものだってことが、どうして分からない?」

「もういい、聞きたくない…!」

そう言って上岡の部屋を飛び出し、望美は都立大の自宅マンションへと逃げ帰る。

2年半、ほとんど上岡の所に入り浸りだったため、部屋の中には必要最低限のものしかない。家具らしいものは、シモンズのダブルベッドだけ。病院のように殺風景な部屋の中で、望美は何日間も、何週間も涙を流し続けた。

―寂しい。寂しい。寂しい…。誰か、そばにいて…

甘美な秘密の社内恋愛が、みじめな不倫だった。

ただひたすらにその衝撃の事実が、受け入れられない。

高偏差値の国立女子校で学び、東大を卒業し、希望通りの企業に入社。そんな一点の曇りもない人生を送ってきた望美にとって、こんな醜態は誰にも言えるわけがないのだった。




「望美さん…望美さん!大丈夫?」

遠くから聞こえるヒデの言葉で、望美はハッと目を覚ます。

心臓が、全力疾走した後のようにバクバクと飛び跳ねている。ラペルラのシルクのパジャマが、いやな汗を含んでいる。

また、上岡の夢を見ていたのだ。

「すごいうなされてたよ。待ってて、水持ってきてあげる」

「あ…ありがとう」

上岡とのことがあって以来、不倫や浮気に対して深刻なトラウマを背負ってしまった望美は、別れから2年の月日が経とうとしている今でも、時折こうした悪夢に悩まされていた。

暴れる心臓を押さえつけるようにしながら、月明かりにぼんやりと浮かび上がる部屋の中を見回す。

床の上に無造作に脱ぎ捨てられた、ヒデの上着。何かの景品でヒデが持ち帰ってきた、奇妙なキャラクターのぬいぐるみ。

2年前までは殺風景だった部屋の中に、ヒデの生活が点在している。そのことを確認して、望美は大きく息をついた。

―大丈夫。私、今は1人じゃない。

汗ばんだ体が、夜の冷気で冷えていく。望美が自分の肩を抱きながらうずくまっていると、キッチンから水のグラスを持ったヒデが戻ってきた。

「はい、水」

ヒデから手渡されたグラスを、悪夢を振り切るように一気にあおる。そして、空になったグラスをサイドテーブルに置くと、隣に腰掛けているヒデにしがみついた。

無言のまま小さな子供のようにしがみ付く望美を、ヒデは優しく抱きしめる。そして、ゆっくりと背中を撫でながら、低く穏やかな声で「大丈夫、大丈夫」と子守唄のように繰り返した。

深夜2時を指す時計の秒針の音と、ヒデの力強い心臓の音。

そのリズムで平常心を取り戻した望美は、さっきまでの悪夢を上塗りするように、ヒデがこの家に来た頃のことを思い起こすのだった。


深く傷ついた望美の前に、ヒデはどうやって現れたのか


ヒデとの付き合いは、ほんの気まぐれで始まったものだった。

上岡と別れて以来、孤独な夜に耐えきれなくなると通っていたバー。そのバーテンダーが、役者のかたわらアルバイトをしていたヒデだったのだ。

「俺、なんか望美さん好きだなぁ。すごく」

男性を信じられないと感じていながら、そんな単純な口説き文句でホイホイと釣られてしまった自分に失笑してしまうが、無理もなかったとも思う。

ロジカルに望美を褒めることはあっても、決して「好きだ」とは言ってくれなかった上岡。そんな上岡との付き合いに心底傷ついていた望美にとって、ヒデの飾り気のない甘い言葉は、驚くほど心の深いところに染み込んでいったのだ。

一度部屋に招き入れてから、ヒデが今のような状態になるまではあっという間だった。

いつの間にかバーテンダーを辞め、いつの間にか望美の部屋に転がり込んでいる。

だが、そんなヒデを受け入れる望美の心には、失望や軽蔑ではなく、言いようのない安心感ばかりが満ちてくるのだった。

生活の全てを望美に依存するヒデの瞳には、望美だけしか映っていない。

それは、今の望美にとって経済力よりも重要なポイントだ。

バーテンダーとしての経験を持つヒデの家事能力も、多忙な望美にとってはただひたすらにありがたい。

働かないヒデとの生活は、確実に、望美の心を癒しつつあるのだった。




「落ち着いた?望美さん明日も会社だし、寝付けなさそうならマッサージでもしようか?」

暗い部屋の中、望美の視線を受け止めながら、ヒデがそうささやく。

「ううん、大丈夫…。31にもなって怖い夢見て飛び起きるなんて、子供みたいだよね。起こしちゃってゴメン。もう一回寝よう?」

望美はそう言いながら、再びベッドに横たわる。その横にピタリと寄り添うように、ヒデも大きな体を横たえた。

ほんの5分もすると、低くくぐもったようないびきが聞こえてくる。

体が冷えたせいなのだろうか。なかなか寝付くことができない望美は、頬杖をつきながらその安らかな寝顔を見つめた。

―「望美はもっと、先進的な考えの女性かと思ってた」

妙に冴えた頭に、上岡の忌々しい言葉がふとよぎる。だが、望美はそれを冷静な心で否定した。

―生活力のない男の子を、女の私が養ってる。しかも、それを幸せだと感じてる。これ以上に先進的なこと、あるわけないじゃない。

またしても沸き起こる黒い感情に、頭は覚醒していく一方だ。

眠りにつくことを一旦あきらめた望美は、静かにベッドから抜け出す。湿気を孕んだパジャマを着替えるためだったが、クローゼットを開けるついでに、床に落ちているヒデの上着をハンガーにかけてあげようとも思ったのだ。

―ヒデったら…だいたいの家事はできるのに、基本がズボラなんだよねぇ。

暗闇の中で望美は、よく寝ているヒデを起こしてしまわないよう、静かな動きで上着を拾い上げる。

だが、持ち上げた上着はどうやら逆さまだったようだ。ポケットの中から、チャリーン!という音とともに、何か小さなものが落下した。

「…?」

疑問に思った望美は、その小さな金属を恐る恐る拾い上げる。

望美の手の中で鈍く光るそれは、見覚えのない、どこかの部屋の鍵だった。

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