1969年の「大都市幹線街路調査報告書」では「延伸追加線」とされていた10号練馬線(画像出展:高速道路調査特別委員会)。

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東京から放射状に延びる高速道路のなかで、関越道だけ唯一、首都高に接続されていません。これにはかつて、現在の関越道より国道17号新大宮バイパスのほうが重要視されていた過去があります。関越道と首都高が接続されることは、もうありえないのでしょうか。その鍵は「幻の練馬線」が握っています。

関越より古い新大宮バイパス

 関越道は、東京へ向かう高速道路のなかで、唯一首都高と直接接続していません。最も近くを走る首都高5号線は、途中で進路を北寄りに変え国道17号新大宮バイパスに接続しています。いったいなぜ関越は新大宮バイパスに負けてしまったのでしょう。いまの常識で考えると、重要度は関越道のほうがはるかに上。不思議に思えます。

 その背景には、こんな経緯があります。

 まず、1971(昭和46)年に現在の関越道が練馬〜川越間で開通した当時は、「東京川越道路」という名前の有料道路でした。これは川越街道(国道254号線)のバイパスに過ぎず、東名や中央などと比べると、重要度ははるかに下でした。

 この東京川越道路の工事が始まった翌年(1968年)、関越道の最初の区間として、川越〜東松山間の施工命令が出ています。つまり、あとから決まった関越道の方が、「せっかくだから東京川越道路に乗っかって、そのまま新潟まで造ってしまおう」だったのです。

 一方、首都高5号線の新大宮バイパスへの延伸が決まったのも1968(昭和43)年。新大宮バイパスの着工は1962(昭和37)年と古く、そのときはまだこちらが上越方面への主要道路で、練馬インターはあくまで「東京川越道路」の終点予定地に過ぎず、目白通りも谷原交差点で途切れているありさまでした。

関越へ繋がる予定だった幻の「10号練馬線」

『首都高速道路公団三十年史』によれば、5号線の延伸は「単に新大宮バイパスの交通を都心、副都心(池袋)に流すことばかりでなく、東京都の都市計画事業のひとつである板橋トラックターミナルあるいは高島平に建設される大住宅団地といった大規模な交通発生源に対処することであった」とあります。この頃の首都高は、都が中心になって建設中の都市内高速道路で、地域的な交通の流れが重視されていたのです。

 1973(昭和48)年、東京川越道路は、ようやく関越自動車道という名の国土開発幹線自動車道(つまり高速道路)に昇格しました。この昇格には、1972(昭和47)年に首相に就任した田中角栄氏の力があったといわれています。また角サンは、「関越道をまっすぐ目白御殿まで繋げろ!」と言ったという都市伝説もありますが眉唾です。

 首都高には、もともと「10号線」という計画がありました。これも当初は関越道に直接接続するものではなく、終点は練馬区上石神井2丁目。現在の早稲田大学高等学院付近で外環道と接続する構想でした。

 その後、関越道が徐々に延伸されるにつれ、70年代のどこかの時点で、この10号線は「練馬線」という名称になり、文京区関口(現在の早稲田出口)で5号線から分岐して、神田川上や目白通りを進んで関越道に直結する計画に変更されました(10号線は現在は晴海線の名称)。

 これが実現すれば、目白御殿のすぐ裏へ本当に関越+首都高が繋がる形になったわけですが、こんな接続をしたら5号線の大渋滞は必至。そこで、やはり以前から計画にあった内環状線に直結させて……という紆余曲折があったものの、内環状線建設の見通しもまったく立たなくなり、着地点を失った練馬線は漂流を重ね、現在の“完全お蔵入り状態”になったのです。

実はまだ死んでいない練馬線 その実現可能性は

 お蔵入り状態とはいえ、練馬線はまだ完全には死んではいません。現在も国交省の首都圏整備計画には、「調査を推進する」という形で残っています。

 しかし、最後の望みだった中央環状線(C2)への接続もすでに絶望的。C2山手トンネルには、練馬線との接続のための準備設計がありません。JCTを建設するなら、本線トンネルも造り直すくらいの大工事になってしまいます。

 練馬区は、2008(平成20)年の段階では、練馬線の建設を国交省に要望していました。練馬区はもともと、23区内でも最も道路整備が遅れ、唯一首都高も通っていません。“陸の孤島”のトラウマなのか、外環道に関しても、ほかの区市が「途中のインターはいらない」と返上するなか、ただ1区、青梅街道インターの建設を強く要望し、結局練馬区側のみのハーフインターとして建設が決定するなど、道路への飢餓感がうかがえました。

 ただ今回、練馬区に練馬線についてコメントを求めたところ、「都市計画にもないことですので、お答えすることはできません」と、要望などすっかり忘れたかのようでした。