史上、犯罪者は数多いが、大米龍雲(おおよねりゅううん)ほど、ありとあらゆる悪の形容詞を付けられた人物もいないだろう。龍雲が逮捕されたのは1915(大正4)年。当時新聞の見出しだけでも「殺尼魔(さつにま)」「食人鬼」「極悪人」などと書かれ、検事に「あれほど大胆な悪漢は見たことがない」と言わしめた。

【実際の写真】「食人鬼」「極悪人」などと呼ばれた男と、その内縁の妻を写真付きで報じた当時の新聞

 しかし、当時の新聞記事と関連資料を見ていくと、必ずしもそのイメージとは合致しない“顔”もうかがえる。大米龍雲は本当に「悪逆非道の極悪人」だったのか? 当時の新聞記事を適宜現代文に直し、文章を整理。今回も差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全4回の1回目/続きを読む)

◆◆◆

戸棚の中に女性住職の遺体

 現在の東京都新宿区高田馬場1丁目にある諏訪神社周辺は、うっそうとした森に囲まれ「諏訪ノ森」と呼ばれていた。その一角で事件が発覚したのは1914(大正3)年12月。最も早く報じたのは、福沢諭吉が創刊した時事新報の2日付だった。


諏訪ノ森事件の第一報。被害者の年齢が新聞によって「72歳」「73歳」とバラバラだが、本記事では『警視庁史大正編』(1960年)に従って72歳で統一(時事新報)

〈 尼僧を殺して行李詰 戸塚諏訪森に起れる惨事

(東京府)豊多摩郡戸塚村字諏訪森に戸山ケ原に隣接した墓地があり、その中央に玄国寺という小さな寺院がある。住職は矢嶋光心、俗名サト(72)で、長年ここに住み、小金を貯めていた。さる(11月)30日、青山方面に用足しに行くと、日頃懇意にしている植木職人夫婦に留守を頼んで出て行った。そのまま2日たっても帰った様子がなく、(12月)1日は弘法大師の縁日で参詣客もあるのに光心の姿は見えない。不審に思った近所の人々は麻布の親類にも知らせ、いろいろ聞いてみたが、誰も姿を見た者がなかった。

 一応寺の中も調べようと、昨2日午後10時ごろ、一同が誘い合わせて玄国寺に行ったところ、戸外に所々足跡があり、戸を開けてみれば、いつも小ぎれいに片づけてある座敷には衣類や書物などが散乱していた。一同はますます不審に思って探したうえ、六畳間の戸棚を開けてみたところ、中に重い竹の行李が1個あり、引き出してふたを開けてみると、これはいかに、光心の遺体だった。

 一同、腰を抜かさんばかりに驚き、すぐ新宿署に届けたので、森警部補が数名の刑事と警察医らを引き連れて出張。検視したところ、遺体はのどに手ぬぐいが巻き付けてあり、体の数カ所に打撲傷があった。明らかな他殺と判明し、東京地方裁判所から判事、検事も出張。新宿署は直ちに捜査を開始したが、現場は極めて物寂しい所で、2〜3回強盗に押し入られたことがある。被害者は恨みを受ける者ではないことから、小金を蓄えていたのを知る人物がこのような凶行に及んだのではないかという。〉

遺体には性的暴行の痕跡

 被害者の年齢が新聞によってバラバラだが、『警視庁史大正編』(1960年)に従って72歳とする。4日付國民新聞は「聞くところによれば」として被害者の経歴を書いている。

 牛込市ケ谷の生まれでずっと独身生活。以前は浅草、芝烏森の辺りで髪結いや占いをしていたが、数年前、玄国寺地蔵堂の堂守をしていた姉の看病のため、地蔵堂に住み込んだ。姉は前年9月に病死したため、一人で堂守をしながら占いなどをしてかなり裕福に暮らしていた。牛込の郵便局には200円(現在の約66万円)の預金があるという。

 同じ日付の都新聞(現東京新聞)は「一度亭主を持ったが、(亭主が)身持ちが悪かったうえ、41歳の初産でできた子が死んだのを幸い別れた」と記述。時事新報は「被害者は評判の男勝り」と伝えた。このときには報じられなかったが、検視で性的暴行を受けていることが判明。諏訪森には浮浪者がよく野宿していたことから、捜査はその方面に力が入れられた。調べを受けた「嫌疑者」もおり、翌1915(大正4)年1月にも「嫌疑者」の拘束が新聞で報じられたが「シロ」。やがて事件は迷宮入りに――。

2カ月後、25歳の尼僧が殺された

 神奈川県鎌倉町(現鎌倉市)で尼僧が殺されているのが見つかったのは約2カ月後の1915年1月27日。翌28日付各紙に報じられたが、時事新報の扱いが最も大きかった。「黄昏に若き尼僧惨殺さる 鎌倉扇ケ谷なる尼寺の別荘に於(お)いて 咽喉を刳(えぐ)られ虚空を摑つかみて絶命す」という、やや大仰な見出しだった。

〈 27日午後4時ごろから7時までの間に、鎌倉町扇ケ谷434番地、輪嶋聞聲(わじま もんしょう)尼(64)の別荘・聞聲庵で、弟子の牧教道(25)=愛知県幡豆郡吉田村(現西尾市)生まれ=が何者かに殺害された。聞聲尼は東京・本所区(現東京都墨田区)荒井町15番地、浄土宗感應寺の住職。現場の別荘は聞聲尼が大正元年、隠居所として新築。扇ケ谷から建長寺前に出る谷あいの、道路より15〜16間(約27〜29メートル)高い山腹にある。付近に人家はなく、非常に閑静で眺望のいい所。聞聲尼は先頃、被害者を連れて別荘を訪れ、さる25日、被害者を留守に残して東京に帰った。

 極めて物寂しい山中で女性1人留守居をするのは危険だと、近くの67歳の男性が毎晩泊まりに行くことになっていた。27日も午後7時ごろ、別荘に行ったところ、門が内側から閉ざされていたが、内部には明かりもついておらず、不思議に思って2〜3度、教道の名前を呼んだが、答えがなかった。裏口に回ってみると、垣根に干した寝具も取り込んでおらず、ますます怪しんで恐る恐る中へ入ると、座敷の中央には布団と衣類などがうず高く積まれており、教道はその下に大の字になって殺害されていたので、驚いてすぐ鎌倉署に届けた。

 鎌倉署からは刑事、警察医が駆けつけ、検視したところ、薄ねずみ色の衣類に白足袋の教道は、極めて鋭利な短刀のような刃物でのどをえぐられ、右目の脇にすり傷を負っていた。よほど抵抗したようで虚空をつかんで絶命しており、恥ずかしめを受けた形跡もあるという。凶行の時刻は、状況を総合すると午後4時前後と推察できる。〉

 時事新報の記事は「被害者は美貌 美人揃ひ(い)の別荘」の小見出しを挟んで続く。

「美人尼」に相当な関心

〈 住職聞聲尼は小石川・淑徳女学校の創立者である関係から、子爵・平松時厚氏の令嬢をもらい受け、誠厚尼と命名して感應寺の相続人とした。その誠厚尼も1年の半分ぐらいは鎌倉の別荘に住み、非常に美人であるうえ、被害者・教道尼もそれに劣らぬ美人なので、扇ケ谷付近では「美人の多い別荘」と誰知らぬ者のない評判だったという。

 1月27日、教道尼は午後3時ごろ、1町(約109メートル)離れた懇意の温泉旅館に行ってすぐ戻った。もし別荘で何かあれば拍子木をたたいて旅館に知らせる約束になっていたが、当日は何の音も聞こえなかった。凶行現場の座敷の中央には、普段はあまり使わない火鉢が持ち出され、「敷島」*の吸殻9本が灰に突き刺してあった。なくなった物もないことなどから考えると、被害者の美貌にほれ込んだ男か、あるいは既に情を通じていた者の犯行とみられ、決して普通の窃盗犯ではないだろう。〉

*「敷島」=日露戦争の戦費調達のために大蔵省専売局から発売された口付き紙巻きたばこ。当初は高級品だったが、この事件当時は中級品とされていた。

 輪嶋聞聲は明治から大正時代の尼僧・教育者で、「時代の流れに乗り遅れず、有為な人間になれ」という理念から1892(明治25)年に淑徳女学校(現淑徳中学高等学校)を創立。女性教育の先覚者の1人だった。平松時厚は公家出身で戊辰戦争で戦功があったが、誠厚尼は実際は時厚の弟の娘で時厚の養女だったようだ。

 それにしても、当時の新聞は「美人尼」に相当な関心を示している。同じ1月28日付の東京日日(東日=現毎日新聞)の見出しの1本は「美貌故(ゆえ)の此の災難」だった。

被害者の姉の証言は…

 時事新報の記者が感應寺に行ったところ、聞聲尼は鎌倉に向かった後だったが、被害者・教道の姉(30)が忍教尼の名前で同寺にいた。彼女の話では、一家は5人兄妹で、郷里・愛知が浄土宗が盛んなことから、一番上の兄も郷里で僧侶をしている。

 妹はとても快活な性格で12歳の時に出家。明治41(1908)年に上京して感應寺へ来た。大正元(1912)年12月から聞聲尼のお供で鎌倉の別荘に。1月25日に聞聲尼が帰京したとき、手紙を届けてきたが、それには「無事にお師匠さまの教えを守っているから、安心して」と書いてあった。この記事は最後に「教道尼はすこぶる美人というわけではないが、十人並みの嫖緻(きりょう=器量)だという」と書いている。

犯人と1時間以上話し込んで

 1月29日付東京朝日(東朝)は、タンスの引き出しにあった現金4円(現在の約1万4000円)と、住職の衣類がなくなっていると報道。菓子を盛った鉢も出されており、たばこの吸殻の数から見ても、被害者と犯人は1時間以上対談。近所の人間か、知り合いとみられるとした。

 被害者については「常に品行方正で非常に親孝行」「悪い評判は聞かず、もちろん情夫などがいる様子もない」と書いている。同じ日付の東日、國民、時事、都は、凶器が生け花用の小刀で、さやが発見されたと報じたほか、容疑者について時事は「付近の者」、都は「日頃、寺に出入りしている男の僧侶」と踏み込んだ。

 師の聞聲尼は1月30日付國民でこう語っている。

〈「このいおりは教道と私と私のめいの3人暮らしだが、私は時々上京し、めいも高等小学校に通学しているので、昼間は教道1人に留守番をさせておくことはたびたびあった。現場の模様を見ると、私か教道に相当面識がある者のようにも思えるが、おそらく犯人が私の知人と偽って、教道が茶菓などでもてなしているうち、みだらなことを口にしたのを教道があさましく思って台所に逃げ込んだのを、追いかけて凶行に及んだのではないか」〉

 その後報道された内容は(1)現場に血痕が付着した足袋の跡が見つかり、犯人の足は十文(24センチ)(2)犯人は僧侶、化粧品などの行商人というようなうわさがある――など。その中で気になるのは1月31日付都の記事だ。

「尼の情夫を探す」の見出しで、「犯人は教道の元情夫で、旧交を迫られ、断って被害に遭ったとの説が起こり、その方面を捜査中。教道は性質多情で、2〜3年前、感應寺にいたころから出入りの若者と通じ、半ば懲戒的に鎌倉に移されたという」と書いた。そして、2月2日付國民には、やはり次のような記事が「某名探偵家談」として登場した。

 2つの事件の“共通点”

〈 共通點(点)多 諏訪森老尼殺と鎌倉美尼殺犯跡

 諏訪ノ森の尼殺し、鎌倉の尼殺しと2件の事件を並べて犯罪の手口や経路を探偵的に研究してみると、あるいは偶然の一致かもしれないが、同一犯と断定してみたくなる。なぜかというと、第一に安全な尼寺を選び、尼を殺したのが同一。さらに、ともに殺す前に恥ずかしめていること。そして、現場に同様に巻きたばこの吸殻が火鉢の灰に突き立ててあったこと。いずれも「敷島」で8本ずつ。たばこを吸うときの長い習慣だと思われるが、吸い口の形状も共通だった。

 さらに、悠々とたばこを吸いながら被害者と相対していたことは明らかで、そこに1つの共通した人格が表れている。相違点は、一方は絞殺で他方は刃物を使っていることだが、犯人は用意周到であり、凶器を持っているときにはそれを使ったと考えればいい。〉

 吸殻の本数が時事の第一報と違っている。『警視庁史大正編』によれば、実際にも神奈川県警察部から「同一犯人ではないか」という連絡があり、双方の刑事が出張して調べた結果、「やはり同一犯人」と認定した。「警視庁と神奈川県は、犯人をよそで挙げられては面目に関わるとばかり、懸命の捜査を開始した」(同書)。捜査が継続していた中、鎌倉の事件から約半年後に尼寺を狙った事件がまた起きる。『警視庁史大正編』の記述を見よう。

「40歳前後の鼻筋の欠けた男」

〈 7月18日の夜、(東京府)杉並村(現東京都杉並区)阿佐ヶ谷の法仙庵という尼寺に強盗が押し入り、門井泰岳という69歳の尼を暴行し、現金5円(約1万8000円)と、法衣その他衣類19点を強奪して逃走する事件が起こった。新宿警察署員が臨場して被害者に話を聞くと、犯人は「年齢40歳前後、身長5尺2寸(約157センチ)ぐらいの色白の男で鼻筋が欠けている」ことが分かった。

 この特徴と被害品の発見を重点に捜査は進められた。そのうち、捜査陣の中から、前年の諏訪ノ森の老尼殺しと同一犯人らしいと言いだした者があり、皆もこれに賛成して、その方針で捜査を進めた。〉

 ここから、場面は容疑者逮捕に向かう。(つづく)

「刑事の2〜3人殺すぐらいはなんともない」72歳と25歳の女性らを暴行し殺害、日本を戦慄させた“連続殺人犯”が逮捕されるまで〉へ続く

(小池 新)